白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・別れ話のはずが、そのはずが5/NHK問題のポストモダン的巨大化としての民放情報番組

2023年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム

プルーストの創作方法をどこかに探し求める場合、どこに探し求めるか。作品の外をどれほど探し回ってみたところで見つかるはずはない。それはいつだって作品の中に組み込まれている。「習慣」についての考察にこうある。

 

「人がその日その日を生きてきたのは、たとえ辛くてもそれが耐えられる日々であったからで、平凡な日常につなぎとめられていたのは、習慣のバラストのおかげであり、翌日がどんなに過酷であろうとそこには愛する人の存在が含まれるはずだという確信のおかげである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.369~370」岩波文庫 二〇一七年)

 

「習慣のバラストのおかげ」。その場合、中心点は動かない。なるほど安心安全でいられる。ただ、それは単に自分の気分だけのことでしかない自惚れに過ぎない。周辺は凄まじい速度で速かったり逆に遅かったりを繰り返している。

 

次いでプルーストは「習慣という支え」について言及する。

 

「どんなはったりを利かせようと、だまそうとする相手がどう出るかについては、やはり一抹の不安が残るものだ。この別離の芝居がほんとうの別離へとゆき着いたらどうしよう!起こりそうもないこととはいえ、そんな可能性を考えるだけで胸が締めつけられるような想いがする。そのとき人は二重に不安になる。というのもそんな別離が生じるのは、えてしてそれがとうてい耐えられないときであるうえ、女に苦しめられたばかりのときで、当の女はこちらの苦痛を癒すことも、せめてその苦痛を鎮めることもなく、去ってゆくからだ。要するにわれわれは、悲嘆に暮れているときでさえ拠りどころにする習慣という支えまで失うのである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.370~371」岩波文庫 二〇一七年)

 

ということは「習慣」に慣れ親しんで始めて、人間は自分自身の生を営んでいくことができる、とそう言うのだ。ところが<私>はこれまで大変苦労して身につけてきた「習慣」が、今度は、こっそりと反作用、あるいは錯覚を起こし出していたことに気づく。しかし気づいたときすでにそれは「途方もなく巨大化し、ほかでもない、もはやかならずしも当てにできなくなった人の存在をわれわれにとって必要不可欠なものたらしめる」。

 

「われわれはみずから進んでその拠りどころを捨て去り、きょうの一日のみを例外的に重視して、前後の日々からその日だけを切り離したせいで、その日はまるで旅に出る日のごとく根なし草のようにただよい、想像力が習慣によって麻痺させられることをやめて目を覚ましたからか、われわれが日常的な愛情にいきなり感傷的な夢想をつけ加える結果、夢想がその愛情を途方もなく巨大化し、ほかでもない、もはやかならずしも当てにできなくなった人の存在をわれわれにとって必要不可欠なものたらしめるのだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.371」岩波文庫 二〇一七年)

 

プルーストがこの箇所で使っている「想像力」というのは、例えば、今日の文化・芸術業界におけるポストモダン的巨大化を惹起させるに十分余裕のある態度変更から生じる<力>を指す。そしてそれは決して「マッチョ」なものとはまるで関係がない。だがこの、態度変更から生じる<力>なくして、人間は、ある種の家畜として育てられ身体を通して叩き込まれ、思わず知らずのうちに<誘導・洗脳>され、骨身に染み込み、もはや根絶しがたいレベルにまで達した「習慣」と訣別することはできない。まったく別の、とともにまったく新しい価値体系へ移動することはできない。結局のところ、できるのかそれともできないのか。少なくともプルースト作品は<できる>と告げている。何度か引用してきた。繰り返そう。

 

「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)

 

どうしてそう言えるのか。言えるとして、それはどこまで確かか。ここまで読んでくれば慌てる必要はほとんどない。人間は人間以外の何ものにもなれない。間違ってもきりぎりすにはなれない。逆に蟻の側に近い。きりぎりすにしても蟻にしても、どちらもいずれ力尽きる。新しい人々が新しい世界をつくっていく。だが新しい人々がつくっていくに違いない新しい世界が、どこからどう見ても今より少しはましなユートピアであるとは必ずしも限らない。

 

というより、古い言葉に喩えると、加速的に「一寸先は闇」の世界に舞い戻ってきつつある気配を察してやれば、それも大人がそうしてやらねば、今の「未来の子どもたち」の将来はたちどころに暗雲立ち込めるディストピアへ転がり落ちていくしかない。

 

とりわけ問題なのはテレビCM。NHKにはCMがない。それはテレビ放送自体が全面的にテレビCMと化しているからである。<テレビCMのポストモダン的巨大化としてのNHK>ということができる。かといって民放がすべて安全かといえばそうでもない。民放の場合、或る特定の情報番組自体、何食わぬ顔でポストモダン的巨大化をとっくに果たしてしまっているからである。その一例が、邪魔だ邪魔だと非難殺到の「ワイプ芸」。そう、いかにも何食わぬ顔で。何一つ知らぬ顔でーーー。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて275

2023年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は晴れ。湿度は6時で77パーセントの予想。湖東方面も晴れ。鈴鹿峠も晴れのようです。

 

午前六時十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.2.27)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

そろそろのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.27)

 

「名称:“通勤通学路”」(2023.2.27)

 

二〇二三年二月二十七日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて274

2023年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。雲りがちな砂浜でした。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.26)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.26)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.26)

 

日の入時刻に近づきました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.26)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.26)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.26)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.26)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.26)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.26)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.26)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.26)

 

二〇二三年二月二十六日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・別れ話のはずが、そのはずが4/「未来ある子どもたち」とは誰か

2023年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム

プルーストは「別離の芝居」といっている。この「芝居」の特徴は次の通り。

 

「ところがこの手の戦闘は、昔の戦闘のように数時間つづいて終わるのではなく、現代の戦闘のように翌日になっても翌々日になっても翌週になっても終わらない。人が全力を尽くすのは、それが必要とされる最後の力だとつねに信じるからだ。ところが一年以上たっても『決着』はつかないのだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.367~368」岩波文庫 二〇一七年)

 

第一次世界大戦を見た人々は誰もがそう感じたに違いない。プルーストが<私>とアルベルチーヌとの「別離の芝居」を演じている以上、この<芝居としての「戦闘」>は「一年以上たっても『決着』はつかない」に決まっている。

 

あくまで形式的手続きの上ではヴェルサイユ条約で終結したことになってはいる。だが従軍していた人間たちはその後どうなったか。

 

例えばエゴン・シーレ。シーレは従軍したことになってはいるが、体調不良のため、戦場で戦った経験はない。一方、アドルフ・ヒトラーは従軍し戦ってもいる。その点で、第一次世界大戦で転がり出てきた結果は原因へ置き換えられ、第二次世界大戦へと引き継がれた。今のウクライナはどうか。ドゥルーズ=ガタリのいうように、諸国家が戦争機械を動かしているわけではなく、逆に世界化した「戦争-経済」の枠組みの中に諸国家すっぽり組み込まれてしまっている以上「一年以上たっても『決着』はつかない」。

 

日本の場合、とりわけテレビ放送局は、スペクタクル満載の映像をばんばん流すことで逆に戦争を煽り立てているように見える。それでは「一年以上たっても『決着』はつかない」。なかでもNHKの問題というのは、ウクライナ戦争が始まって三ヶ月ほど経った頃、「文藝春秋」に発表された。経営者としてのNHKという問題。

 

人事というより局の「体質」に関わる。文藝春秋には文藝春秋の立場があるため、その立場から述べられたものとして考えられなくてはならないとしても、NHKの体質を問題にするという点で、その「大手コンサル依存」という記事の指摘は正しい。NHKの中枢に食い込んだ「大手コンサル」について名指しで上げられている企業のうち一つは日本企業。「野村総研」。テレビでは「金融経済教育」の「プロ」とかいうキャッチコピーを謳っている。

 

「コンサル丸投げ」とか「コンサル依存」とかの言葉はもっと早くから指摘されてきてはいた。けれども、公共放送局=NHKからしてそうだ、という事情について、その体質を転倒させることができるかどうか、NHKは今なお回答を避けている。会長人事は単なる「首」の<置き換え>であって、<言語=貨幣>と同じく、いかようにでも交換可能である。問題は、番組内容がそもそも変わっていないところに、はみ出して<見える>。消費電力の無駄が目だつ。家電の中でも、ただでさえテレビは思いのほか高額だというのに。

 

だからといって、例えばだが、何も「大河ドラマ」を止めろというわけではない。あれほど歴史から遠のくばかりでもはやフィクションに過ぎなくなったとはいえ、見る価値はある。なぜなら、フィクションになってもなお<変えることができない>部分は<変えるわけにもいかない>からだ。どういう部分か。

 

いつ、どこで、誰が、誰に、何を、言うか、あるいは<言わない>か。そこを間違った人々はどんな<死に方・殺され方>をしてきたか。様々なケースがあるわけだが、すべての視聴者がそこから何かを読み取ることは毎年々々可能である。「歴史を学ぶ」とはそういうことだ。その意味の枠内に限り「大河ドラマ」の役割はまだ残っていると言えるのである。

 

また、底辺生活者の暮らしについて。福祉関連番組はいろいろある。ほんの少しばかり大阪市「釜ヶ崎」の現状を取り上げて見せたりする。ところが、取り上げることでかえってかき消してしまっている事情について、何一つ言及しないのはなぜだろう。一九九〇年代後半にはもう懸念されていた「釜ヶ崎の世界化」あるいは「世界の釜ヶ崎化」という巨大な問題。一九七〇年代初頭「大阪万博」。その頃、「未来ある子どもたち」と呼ばれた人々の日常生活は今どうなっているか。「未来」にもかかわらず「絶望的」なのかそれとも「未来」ゆえに「絶望的」なのか。ヘーゲルに従うなら後者だということになる。その意味ではヘーゲルが正しい。としても欧米中とは違って、日本はそこからさらにほど遠い。さっぱりお手上げというに近い。

 

「未来ある子どもたち」だった人々がいま直面している問題について、山下紘加は書いている。

 

「肉体を通した生々しい言葉を、書かずにはいられない」(山下紘加「愛と衛生」『群像・2023・03・P.591』講談社 二〇二三年)

 

肉体を通したというべきか、通す直前というべきか、わかりづらいのだが、夜明け前で周辺がよく見えない時間帯。あるいは夜になってほとんど誰もいない時間帯。琵琶湖の浜辺で何か書類のようなものを燃やしている人々をしばしば見かけることがある。毎年恒例の葦焼きではなく書類のようだ。

 

赤木敏夫自殺事件以降、重要書類の電子化保存はまずいという空気が一斉に広がった。で、ノートとかレポート用紙とかに書き残す人々が増えた。その処理のためなのだろうか。車で走り去って行く。ナンバープレートを見ると県外。名古屋とか横浜とか首都圏各地が多いのだが暗すぎて数字までは読めない。手持ちのカメラは低価格帯のコンデジなので暗がりではぼやけて映らないし、そもそもナンバープレートは映さないことにしている。もっとも、ただ単なる帰省の途中に過ぎないのかもしれない。書類のようなものは見事に焼けてしまっているため、何が書いてあったのか全然わからないし、見る間もなく雨に降られて砂になったり波にさらわれたりして消えていく。もはやわからないことだらけなのだ。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて273

2023年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は曇り。湿度は6時で64パーセントの予想。湖東方面も曇り。鈴鹿峠は雪のようです。

 

午前六時十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.26)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.26)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.26)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.2.26)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.26)

 

日の出時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.26)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.26)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.26)

 

二〇二三年二月二十六日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。