白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて272

2023年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。ところどころ西風に乗って雲が流れて行きました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

そろそろ日の入です。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.25)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.25)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.25)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.25)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.25)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.25)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.25)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.25)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

二〇二三年二月二十五日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて271

2023年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は晴れ。湿度は6時で64パーセントの予想。湖東方面は曇り。鈴鹿峠は晴れのようです。

 

午前六時十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.2.25)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.25)

 

二〇二三年二月二十五日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・別れ話のはずが、そのはずが3/ウクライナ戦争報道の報道戦争への転化がもたらす統一地方選の問題点

2023年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム

報告者<私>はふと思う。<私>がアルベルチーヌを隷属状態に置いているのか、それともアルベルチーヌを監視・管理する欲望に囚われて逆に<私>がアルベルチーヌの隷属状態に置かれているのか。未決定のままにしておこうとする。宙吊り状態のさらなる引き延ばしへ、プラン変更へ、方向転換する。

 

「アルベルチーヌが自分の隷属状態をさほど重荷とは思わず、この状態をみずから断ち切ろうなどという了簡をおこさないためにいちばん巧妙な策は、この状態は決定的なものではなく私自身がこの状態を終わりにしたいと願っているという印象をアルベルチーヌに与えておくことだと思われた」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.359」岩波文庫 二〇一七年)

 

この方向はかつてスワン自ら歩みを進めた戦略だったことは、ずっと前にプルーストが述べている。二箇所。

 

(1)「ところが恋心に寄りそう影ともいうべき嫉妬心は、ただちにこの想い出と表裏一体をなす分身をつくりだす。その夜、オデットが投げかけてくれた新たな微笑みには、いまや反対の、スワンを嘲笑しつつべつの男への恋心を秘めた微笑みがつけ加わり、あの傾けた顔には、べつの唇へと傾けられた顔が加わり、スワンに示してくれたあらゆる愛情のしるしには、べつの男に献げられた愛情のしるしが加わる。かくしてオデットの家からもち帰る官能的な想い出のひとつひとつは、室内装飾家の提案する下絵や『設計図』と同じような役割を演じることになり、そのおかげでスワンは、女がほかの男といるときにどんな熱烈な姿態やどんな恍惚の仕草をするのかが想像できるようになった。あげくにスワンは、オデットのそばで味わった快楽のひとつひとつ、ふたりで編み出したとはいえ不用意にもその快さを女に教えてしまった愛撫のひとつひとつ、女のうちに発見した魅惑のひとつひとつを後悔するにいたった。いっときするとそうしたものが新たな道具となって、拷問にも等しい責め苦を増大させることになるのを承知していたからである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.209」岩波文庫 二〇一一年)

 

(2)「スワンは郵便局から家に戻ったが、この一通だけは出さずに持ち帰った。ロウソクに火をつけ、封筒を近づけた。開けてみる勇気はなかったのである。最初はなにも読めなかったが、なかの固いカード状用箋を封筒の薄い紙に押しつけると、最後の数語が透けて読めた。きわめて冷淡な結びのことばである。今のようにフォルシュヴィル宛ての手紙を自分が見るのではなく、かりに自分宛ての手紙をやつが読んだら、はるかに愛情あふれる言葉がやつの目に入ったことだろう!スワンは、大きすぎる封筒のなかで揺れる用箋を動かないように押さえ、それからなかの用箋を親指でずらして、書いてある行を順ぐりに封筒の二重になっていない部分にもってきた。そこなら透けて読めたのである。それでも、はっきりとは判読できなかった。もっともきちんと読めなくても差しつかえなかった。書いてあるのは重要でない些末なことで、ふたりの恋愛関係をうかがわせることは一切ないのがわかったからである。オデットの叔父のことが書いてあるようだ。行のはじめに『あたしは、そうしてよかったのです』と書いてあるのが読めたが、どうしたのがよかったのかスワンは理解できなかった。が、突然、当初は判読できなかった一語があらわれ、文全体の意味が明らかになった。『あたしは、そうしてよかったのです、ドアを開けた相手は叔父でしたから』というのだ。開けた、だって。すると今日の午後、俺が呼び鈴を鳴らしたとき、フォルシュヴィルが来ていたのだ。あわてたオデットがやつを帰らせたために、あんな物音がしたのだ。そこでスワンは、手紙を端から端まで読んだ。オデットは最後に、あのように失礼な対応になったことをフォルシュヴィルに詫びたうえで、タバコを忘れてお帰りになった、と書いている。スワンが最初にオデットの家に寄ったときに書いて寄こしたのと同じ文面である。だが俺には『この中にあなたのお心もお忘れでしたら、お返ししませんでしたのに』と書きそえていた。フォルシュヴィルには、そんなことはいっさい書いていない。ふたりの関係は暗示する文言はなにひとつ出てこない。それにどうやらこの内容からすると、オデットはやつに手紙を書いて訪ねてきたのは叔父だと信じこませようとしているのだから、そもそもフォルシュヴィルは俺以上に騙されていることになる。要するにオデットが重視していたのは俺のほうで、その俺のために相手を追い払ったのだ。それにしてもオデットとフォルシュヴィルのあいだに何もないのなら、なぜすぐにドアを開けなかったのだろう。なぜ『あたしは、そうしてもよかったのです、ドアを開けたのは叔父でしたから』などと書いたのだろう。そのときオデットになんらやましいところがなかったのなら、ドアを開けなくてもよかったのにと、どうしてフォルシュヴィルが考えるだろうか。オデットがなんの危惧もいだかず託してくれたこの封筒を前にしたとき、スワンは申し訳ないと恐縮したが、それでも幸せな気分だった。自分のデリカシーに全幅の信頼を置いてくれたと感じられたからである。ところがその手紙の透明な窓を通して、けっして窺えないと思っていた事件の秘密とともに、未知の人の生身に小さく明るい切り口が開いたかのようにオデットの生活の一部があらわになったのだ。おまけにスワンの嫉妬も、この事態を歓迎した。嫉妬には、たとえスワン本人を犠牲にしてでも、おのが養分になるものを貪欲にむさぼり食らう利己的な独立した生命があると言わんばかりである。いまや嫉妬が糧(かて)を得たからには、かならずスワンは毎日、オデットが五時ごろだれの訪問を受けたかが心配になり、その時刻にフォルシュヴィルがどこにいたかを知ろうとするにちがいない。というのもスワンの愛情は、オデットの日課に無知であると同時に、怠惰な頭脳ゆえに無知を想像力で補うことができないという当初に規定された同じ性格をあいかわらず保持していたからである。スワンが最初に嫉妬を感じた対象は、オデットのすべての生活ではなく、間違って解釈された可能性のある状況にもとづきオデットがほかの男と通じていると想定される瞬間だけだった。その嫉妬心は、執念深い人がタコの足のように最初のもやい網を投げいれると、ついで第二の、さらに第三のもやい網を投じるのと同じで、まずは夕方の五時という瞬間に食らいつき、ついでべつの瞬間に、さらにもうひとつべつの瞬間にとり憑くのである。とはいえスワンは、つぎからつぎへと自分の苦痛を編み出したわけではない。それら一連の苦痛は、スワンの外から到来したひとつの苦痛を想い出したうえで、それを永続化したものにほかならなかったのである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.220~223」岩波文庫 二〇一一年)

 

時間の利得が生じる。事態が変わるのを待っているわけではない。別の価値体系の出現への<転化>が待たれている。例えばそれはマゾッホの態度に顕著なものだ。

 

「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫 二〇一八年)

 

別れ話はもつれていく、というより、思わず知らずのうちにあちこちへ接続され、<転移>していく。

 

「ゴモラの女たちは、どんな人混みにいようと互いにそれと気づかずに通りすぎることがないほど、その数は少ないとも多いとも言えるのだ。それゆえ結託するのは造作もないことだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.363」岩波文庫 二〇一七年)

 

再び「ゴモラ」。「結託するのは造作もない」。なぜ可能なのか。可能なら、一体、どんな条件が必要になるのか。ずいぶん前にプルーストは述べている。

 

「カジノのホールなどでふたりの娘がたがいに欲望をいだくと、しばしば一種の光学現象が生じて、ひと筋の燐光のようなものが一方から他方へ流れるものだ。ついでに言っておくと、たとえ計測不可能なものとはいえこのような物質化した光に助けられ、大気の一部を燃えあがらせるこうした幽体の合図によって、散りぢりになったゴモラの住民は、それぞれの町や村で、離ればなれになったメンバーと合流して聖書の都市を再建しようとしているのである。その一方、これまた世のいたるところで、たとえ目指す再建が断続的なものとはいえ、ソドムから追放され、望郷の念に駆られた、偽善的でときには勇敢な者たちによって同様の努力がつづけられているのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.558~559」岩波文庫 二〇一五年)

 

記号論的コノテーションの速度は大変早い。そこで人々はメタ目線に立って総合的にまとめようとする。すると何が起こるか。たった一つのメタ目線であったとしてもなお、その位置が今度は幾つものメタ目線を生じさせる。メタ目線のコノテーションが起こってくる。結局のところ、メタのメタのメタのーーー、という終わりのない計算問題を生じさせる。

 

ウクライナ戦争関連報道。主にテレビがその映像を映し出しているのはなぜか。メタ目線に立って冷静沈着に分析できてでもいるかのような身振り(言葉・振る舞い)を演じているのか。ウクライナ戦争報道はなぜ報道戦争と一緒くたになってそのように振る舞って見せているのか。

 

一方、日本では統一地方選が近い。選挙事務所の設営が進んでいる。地方都市へ行ってみる。すると長い間統一教会と大変深い関係を保ってきた候補者を支援する立て看板が一つ二つと蘇ってきているのがよくわかる。ところがなんと、全国に数多くの情報網を張り巡らせているNHKは、その事実を一つも伝えていない。

 

ウクライナ戦争報道が統一教会復活の動きを覆い隠す隠れ蓑と化していることをNHKは報じない。他のテレビ局にはそれぞれ私立でいう「建学の理念」があるため、どんな<猿芝居>でもやりたい放題やって見せるのだろうが、逆にNHKは公共放送局であって、民放の役割とは比較にならない、まるで違う権限が与えられている。にもかかわらず、なぜなのか、という問題。それだけではないのだが、差し当たり、統一地方選とウクライナ戦争報道と報道戦争との不穏な関係には注意深くありたい。

 

だからといって、民放も含め、テレビ離れに歯止めがかかるわけではなく、ますます加速するばかりなのだが。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて270

2023年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。一日中すっきりしないお天気でした。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

「名称:“鴨”」(2023.2.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

「名称:“鴨”」(2023.2.24)

 

日の入時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.24)

 

二〇二三年二月二十四日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・別れ話のはずが、そのはずが2/ウクライナ戦争と戦後日本「形式民主主義」

2023年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム

別れ話はあらぬ方向へどんどん逸れていく。微分化され積分化されるアルベルチーヌの顔の問題。アルベルチーヌの顔だけをその周囲から切り離し取り出すことは可能だろうか。可能だ。プルーストはいう。

 

「アルベルチーヌの顔立ちのひとつひとつは、いまやその顔立ちのべつの要素と関連しているだけであった。その鼻にせよ口にせよ両目にせよ完璧な調和をつくっているが、他のものから切り離されているせいでアルベルチーヌは、さながら一点のパステル画となり、まるで人がラ・トゥールの肖像画の前で話をしているかのように、人が今しがた言ったことも聞こえなかったように見えた」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.359」岩波文庫 二〇一七年)

 

それに先立ち、逆方向へもっと細かく、アルベルチーヌの顔の各種パーツを個々別々に切り離し取り出す操作も可能だとプルーストはいう。<私>が報告していたように。

 

「私は接吻するに先立って、アルベルチーヌが私と知り合う前に浜辺でただよわせていた神秘にあらためて満たされ、それ以前に暮らしていた土地までが本人のなかに見出せたらどんなにいいだろうと思った。私の知らない土地は無理だとしても、すくなくともその代わりに共にすごしたバルベックのありとあらゆる想い出、私の窓の下で砕ける波の音や子供たちの叫び声などをアルベルチーヌのなかに入れこむことができた。だがアルベルチーヌの頬という美しいバラ色の球体のうえに視線を走らせ、やさしく湾曲した頬の表面がみごとな黒髪の最初の褶曲(しゅうきょく)の麓のところで消え去ったり、黒髪がいくつもの山脈となって躍動しては険しい支脈を屹立させたかと思うと波立つ谷間をつくるのを目の当たりにすると、私はこう思わずにはいられなかった。『バルベックでは失敗したが、今度はいよいよアルベルチーヌの頬という未知のバラの味を知るんだ。人生のなかで事物や人間にたどらせることのできる地平はそう多くないのだから、あらゆる顔のなかから選びとった咲きほこる晴れやかな顔を遠くの額縁から取り出し、この新たな地平に連れてきて、その顔をついに唇によって知ることができたら、私の人生もいわば完了したとみなせるかもしれない』。私がそう思ったのは、唇による認識が存在すると信じこんでいたからである。私は肉体というこのバラの味をこれから知ることになると思いこんでいたが、それはウニと比べて、いやクジラと比べても明らかに一段と進化した生物である人間でも、やはり肝心の器官をいくつか欠いていること、とりわけ接吻に役立つ器官をなんら備えていないことに想い至らなかったからだ。人はこの欠けた器官を唇によって補っているので、愛する女性を角質化した牙で愛撫せざるをえない場合よりは、いくらかは満足できる成果が得られているのかもしれぬ。だが唇というものは、食欲をそそる対象の風味を口蓋(こうがい)に伝えるには適した器官であるが、頬を味わうにはそこには入りこめず、囲いの壁につき当たってその表面をさまようのに甘んじるほかなく、対象を間違えたとは理解できず、当てが外れたとも認めはしない。そもそも唇は、たとえはるかに熟練して上達した唇も、肉にじかに触れているその瞬間でさえ、自然が現段階では捉えさせてくれない風味をそれ以上に味わうことはできないだろう。というのも唇がその糧をなにひとつ見出しえないこの地帯では、唇は孤独で、ずいぶん前から視線にも、ついで臭覚にも見放されているからである。まずは視線から接吻するよう勧めれれた私の口が頬に近づくにつれて、移動する視線はつぎからつぎへと新たな頬を目の当たりにした。ルーペで眺めるみたいに間近で見る首は、皮膚のきめの粗さのなかにたくましさをあらわにして、顔の性格を一変させてしまった。写真という最新の技術ーーーそれは、近くで見ると往々にして塔ほどに高いと思われた家並みをすべて大聖堂の下方に横たえたり、いくつもの史的建造物をまるで連隊の訓練のよういつぎつぎと縦隊や散開隊形や密集隊形にさせたり、さきほどはずいぶん離れていたピアツェッタの二本の円柱をぴったりくっつくほどい近づけたり、近くにあるサルーテ教会をかなたに遠ざけたり、蒼白くぼやけた背景のもと、広大な水平線を、ひとつの橋のアーチ内や、とある窓枠内や、前景に位置する溌剌(はつらつ)とした色合いの一本の木の葉叢(はむら)のあいだに収めたり、同じひとつの教会の背景としてつぎつぎと他のあらゆる教会のアーケードを配置したりする技法である。私からするとこの技法だけが、接吻と同じく、一定の外観をもつ一個の事物と信じていたものから、それと同一の多数のべつのものを出現させることができるのだ。いずれもある視点から生じたものだが、どの視点もいずれ劣らぬ正当性を備えているからである。とどのつまり、バルベックにおいてアルベルチーヌが私の目にしばしば違って見えたのと同じで、今や、ひとりの人間がわれわれとの多様な出会いにおいて見せる風姿や色合いの変化の速度を桁外れに早めることによって、私がそんな出会いのすべてを数秒のなかに収めては、その人の個性を多様化する現象を実験的に再創造しようとしたかのように、私の唇がアルベルチーヌの頬に達するまでの短い行程のあいだに、その人の秘めるあらゆる可能性がまるで容器からつぎつぎと取り出されたかのように、私には無数のアルベルチーヌが見えた。この娘は、いくつもの顔をもつひとりの女神よろしく、私が最後に見た娘に近づこうとすると、すぐまさべつの娘に変わってしまう。接吻のためには、唇が適していないのと同じく鼻孔と目の位置も不適切であるーーー突然、目が見えなくなり、ついで鼻が押しつぶされて何の匂いも感じなくなり、だからといってあれほど望んだバラ色の味をそれ以上に深く知ることもなく、こうした不愉快な徴候によって私は、とうとう自分がアルベルチーヌの頬に接吻しているのだと悟った」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.59~63」岩波文庫 二〇一四年)

 

さて。ウクライナ戦争について。戦火のない場所として<見えない>戦火に晒されている日本で。何ができるだろう。だが余り単純にそう言ってしまうのは危険が伴う。というのは、ややもすればウクライナ戦争勃発の前提条件はもうかなり以前から整っていたことを忘れ去せてしまう効果があるからだ。

 

ドゥルーズ=ガタリのいう「戦争機械」とは何か。国家間戦争のことではない。核ミサイルとか最新鋭戦闘機とかになるともう全然違う話になってしまう。そういうことではなくて、ありとあらゆる「経済-世界」を支配し、そのすべての流れを公理系へ流し込み整序し、グローバル資本のもとで再編成して止まない動きのことをいっているからである。諸国家の対立の下で戦争機械が用いられているのではなく、逆に、戦争機械が諸国家を所有している。今や戦争機械が世界-全体であって、諸国家はもはや戦争機械の様々な役割を分担分業しつつ形成している体裁を取っているに過ぎない。

 

「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成したのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・13・捕獲装置・P.234」河出文庫 二〇一〇年)

 

だからどんな些細に見える売買であっても、戦争機械と接触していない売買は地球上のどこにもない。例えば、東京都のある町角で子どもたちが与えられた小遣いを運用して遊ぶ百円の「がちゃがちゃ」でさえ、戦争機械と接触している。そんなことはないと言いたい人々がいるかもしれない。「経済-世界」についてほとんど何一つ知らない場合、そんなことが平気で言えてしまう。そのままずるずる話がずれていく。その繰り返しがウクライナ戦争という現状を招き込み、加速させしまっているにもかかわらず。

 

けれどももし、本当にそうでなかったとしよう。するとたちまちグローバル資本主義は地球のどこをどう探してもさっぱり見当たらないということになってしまう。逆におかしな話になりはしないだろうか。だからといって、もう絶望的だと割り切ってニヒリストを気取るのはこれまた早過ぎる。そんなやさき、ネグリ=ハートのいう「マルチチュード」概念の持つ射程は大変有効な<別の方法>として登場してきた。この二人は評判にもなった「マルチチュード」概念を練り直しながら、さらなる磨きをかけている。

 

「主権権力を抑制するための近代的戦略の一つは、それを法の支配に従属させることであった。つまり、主権者の意思決定権力を、確立された規範体系の内部に制限するのである。これはたしかに効果的な防御策となってきたが、実際のところそれは、問題を解決するというより問題をずらすものでしかない。いかなる習慣、伝統、あるいは自然権の概念も政治的意思決定の必要性を否定することはできず、法の支配はオルタナティヴな意思決定権力を提供するものではない。もう一つの近代的戦略は、支配者から主権を奪取すること、つまり、構造の内部で地位を逆転し、新たな主権権力を打ち立てるものであった。つまり第三身分が主権者となり、国民が主権者となり、そして人民が主権者となりさえするのだ。プロレタリアート独裁ーーーこれは、既存のブルジョワジー独裁に反撃するために発明された概念であるーーーは、主権によって定義される関係性の内部で立場を逆転させようという近代的試みの長い道筋の中に位置している。支配の諸構造は、そうしたオルタナティヴな主権概念によって維持されるだけでなく、すでに述べたように、主権者の統一性と同質性、また意思決定を行う主体を必要とする。人民、国民、あるいはプロレタリアートは、一つの声で話すときにだけ主権者でありうるのだ。対照的に、マルチチュードは一者ではなく多数者であるがゆえに、決して主権者ではありえない」(ネグリ=ハート「アセンブリ・第三章・P.49~50」岩波書店 二〇二二年)

 

この文章の中で「第三身分が主権者となり、国民が主権者となり、そして人民が主権者となりさえするのだ。プロレタリアート独裁ーーーこれは、既存のブルジョワジー独裁に反撃するために発明された概念である」とある。マルクスの読み違えから転がり出てきたソ連とか中国共産党とかを指す。少なくとも世界はそう考えている。と同時に世界は日本について実に曖昧なまま放置してきた。なぜなら、国連が自分で作って日本にだけ妥当させた枠組みの中では、「形式民主主義」という形で得票数だけで「主権者」を決める日本は、「第三身分が主権者となり、国民が主権者となり、そして人民が主権者となりさえするのだ。プロレタリアート独裁ーーーこれは、既存のブルジョワジー独裁に反撃するために発明された概念」の適応によって成立している表向き「民主主義国家」/実質「限りなく独裁に近い国家」に他ならないからである。

 

ただ、主権者がプロレタリアートではなく、ほとんど労働しなくても済まされるエリート官僚ばかりだという点で大いなる違いが認められる。二重三重に屈折した状態を自分で選んだ日本。国連加盟国の中で日本ばかりが常に浮いて見える。国連に加盟する他の諸外国がスマートだというわけでは決してないが、日本の屈折度がそれを上回るほど余りにもあからさまなため、そう見える。世界の中でおそらくただ日本だけが、戦後、異次元の「形式民主主義」という足枷に繋がれたまま「問題を解決するというより問題をずらすものでしかない」政治様式を今後もずっと背負っていくしかない。全世界を敵に回した戦争のつけは今なお限りなく大きく響き渡っているのである。

 

グローバル社会に対するネグリ=ハートの認識はまるで異なる。一極支配の消滅(アメリカの凋落)。二極化(東西冷戦のような)の終わり。そして今、世界を舞台に演じられつつあるのは<多極化>だというわけだ。絶対的主人などどこにもいない。続ける前にアルトーを引こう。

 

「私は強調する、その身体構造を作り直すため、と。人間は病んでいる、人間は誤って作られているからだ。決心して、彼を裸にし、彼を死ぬほどかゆがらせるあの極微動物を掻きむしってやらねばならぬ、

 

神、

そして神とともに

その器官ども。

 

私を監禁したいなら監禁するがいい、しかし器官ほどに無用なものはないのだ。

 

人間に器官なき身体を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう」(アルトー「神の裁きと訣別するため」『神の裁きと訣別するため・P.44~45』河出文庫 二〇〇六年)

 

ネグリ=ハートはいう。

 

「主権者の決断とは、つねにある意味で神の裁きである。つまり、君主、党、人民のいずれであれ、それは地上の神なのである。アントナン・アルトーが同タイトルのラジオ放送で宣言したように、神の裁きと決定的に訣別しようではないか。主権と訣別するためには、政治的意思決定により注意を向ける必要がある。私たちは、集団的意思決定を維持しうる過程と構造により強く焦点を合わせなければならない。こうした仕方で主権に対抗することこそ、私たちの分析にとっての中心的課題を設定する。その課題とはすなわち、多数者が意思決定する方法を発見することーーーそして、多数者が主人なしで共に統治する方法を発見することである」(ネグリ=ハート「アセンブリ・第三章・P.50」岩波書店 二〇二二年)

 

NHKで一部放送解説された岸田首相演説を聞いていたところ、ふと思い出したに過ぎないわけだが。ところがNHKにはまた別の、まるで解消されていない大問題がある。いずれ触れたい。