「2018年最初の関西旅行 #2-8」のつづきです。
大阪城天守閣の見物を終えた私は、天守の北側の一段低くなっている山里丸へ…。
山里丸には、去年の大阪城公園のLOVE BEBOPな散策のときに気づかなかった
スポット
がありまして、今回はそちらを拝見
することを、目的の一つにしていました。
そのスポットというのが、こちら
「石碑」というよりも「墓」っぽいつくりですが、傍らの説明板には、
慶長20年(元和元年、1615)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。
それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。
とありますから、「墓」ではなく「記念碑」なんです。
これまで、私の漠としたイメージでは、徳川軍の砲撃
が続く中、秀頼と淀殿らは、立て籠もる大坂城天守の中で自刃した、だったのですが、実際はそうではなくて、天守の裏側にある山里丸が終焉の地
だったんですな…
考えてみれば、徳川軍の主力は南側から大坂城を攻めていたわけで、その攻撃に耐えるのならば、徳川軍から丸見え
の天守に立て籠もるのは危険
が大きすぎます。
その点、この碑のある場所は、豊臣期の天守の北側の一段低くなっている場所で、立て籠もるのなら天守を盾にできるこの辺りしかないでしょ
って感じ…
現在、山里丸は(下の写真は去年1月に撮ったもの)、
「刻印石広場」になっていますが、説明板によれば、
天守から一段下がったこのあたり一帯を山里丸と呼ぶ。
豊臣時代には、山里の風情を保つ松林や、桜、藤などの木々が繁り、いくつもの茶室が建っていた。豊臣秀吉や、その家族が茶会や花見を楽しむくつろぎの場所であった。
だそうです。
それが徳川時代になると、
寛永元年(1624年)の再築後は構造も建物もすっかり変わり、石垣を取り囲む櫓のほか大坂城を守衛した山里加番(城役人)の建物が建ちならんでいた。
だそうで、説明板に描かれていた配置図は徳川時代のものなんでしょうな。
そんなことを考えながら、私は極楽橋を渡って本丸から二の丸に出て、
「THE SUPER TOUR OF MISIA」のグッズを購入するべく、一旦、大阪城ホールに向かいました。
おぉ、ツアートラックの群れ
ということで、大阪城公園散策記の第2部はここまで、「#2-10」以降は第3部に突入します。
つづき:2018/06/03 2018年最初の関西旅行 #2-10