新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

2018年最初の関西旅行 #2-9

2018-06-01 21:59:06 | 旅行記

「2018年最初の関西旅行 #2-8」のつづきです。

大阪城天守閣の見物を終えた私は、天守の北側の一段低くなっている山里丸へ…。

山里丸には、去年の大阪城公園のLOVE BEBOPな散策のときに気づかなかった スポットがありまして、今回はそちらを拝見することを、目的の一つにしていました。

そのスポットというのが、こちら

「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」と彫られた石碑です。

「石碑」というよりも「墓」っぽいつくりですが、傍らの説明板には、

慶長20年(元和元年、1615)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。
それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。

とありますから、「墓」ではなく「記念碑」なんです。

これまで、私のとしたイメージでは、徳川軍の砲撃が続く中、秀頼と淀殿らは、立て籠もる大坂城天守の中で自刃した、だったのですが、実際はそうではなくて、天守の裏側にある山里丸終焉の地だったんですな…

考えてみれば、徳川軍の主力は南側から大坂城を攻めていたわけで、その攻撃に耐えるのならば、徳川軍から丸見えの天守に立て籠もるのは危険が大きすぎます。
その点、こののある場所は、豊臣期の天守北側一段低くなっている場所で、立て籠もるのなら天守にできるこの辺りしかないでしょ って感じ…

現在、山里丸(下の写真は去年1月に撮ったもの)

「刻印石広場」になっていますが、説明板によれば、

天守から一段下がったこのあたり一帯を山里丸と呼ぶ。
豊臣時代には、山里の風情を保つ松林や、桜、藤などの木々が繁り、いくつもの茶室が建っていた。豊臣秀吉や、その家族が茶会や花見を楽しむくつろぎの場所であった。

だそうです。
それが徳川時代になると、

寛永元年(1624年)の再築後は構造も建物もすっかり変わり、石垣を取り囲むのほか大坂城を守衛した山里加番(城役人)建物が建ちならんでいた。

だそうで、説明板に描かれていた配置図徳川時代のものなんでしょうな。

そんなことを考えながら、私は極楽橋を渡って本丸から二の丸に出て、

「THE SUPER TOUR OF MISIA」グッズを購入するべく、一旦、大阪城ホールに向かいました。

おぉ、ツアートラックの群れ

ということで、大阪城公園散策記第2部はここまで、「#2-10」以降第3部突入します。

つづき:2018/06/03 2018年最初の関西旅行 #2-10

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