新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

2018年最初の関西旅行 #2-11

2018-06-04 22:33:05 | 旅行記

「2018年最初の関西旅行 #2-10」のつづきです。

大阪城外堀を越えて内側に入る「口」は、北東から時計回りで、「青屋口」「玉造口」「大手口」「京橋口」4つあります。

あれだけ広い本丸・二の丸・西の丸に入る「口」が4つしかないというのは、意外な気がしますな。
で、今回の「第3部」にして初めて京橋口から入城しました。

説明板によれば、

大坂城の西北の出入口。北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから「京橋口」あるいは「京口」と呼ばれた。戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り、枡形には大手口と同様に多聞櫓もあって、大阪城の名所となっていたが、昭和20年(1945)の空襲によって全焼した

だそうで、高麗門多門櫓なく石垣が残るだけです。

でも、ここには大坂城No2巨石があります

でかぁ~い
まさしく「これ見よがしの巨石」です。

「肥後石」と呼ばれるこの巨石、その+主要な城郭の石垣ということからすれば、当然の様に城普請の名手として誉れ高い加藤清正公が思い浮かぶところですが、、、、

京橋口枡形の内、京橋口を入って正面に見えるのが、表面積が畳約33畳敷(54.17㎡)にもなる城内第2の巨石「肥後石」である。
築城の名手加藤肥後守清正が運んできたと伝えられてきたが、実際は徳川幕府による大坂城再築時に、この区画の石垣築造を担当した備前岡山藩主池田忠雄によって運ばれた。

だそうな。

冷静に考えれば、清正大坂の陣(1614年 & 1615年)に先立つ1611年亡くなっていますし、徳川幕府は、大坂の陣の前後を通じて豊臣期の大坂城徹底的破壊&埋設して、新たな大坂城を築いたわけで、京橋口だけ豊臣期の石垣が残っているとは考えづらい

それにつけてもかわいそうなのは、この「肥後石」を据え付けた池田忠雄公です。
お手柄を他人に持って行かれた気分かも…
でも、清正公がズルをしたわけではありませんから、忠雄公としては、清正公に負けない実績を積み重ね名声を得るしかない ということなんでしょ。

それはともかく、私はこれで大阪城外堀4つの門コンプできました

   

石垣しか残っていない京橋口の枡形を抜けると、、、、

なぜか阿形獅子

神社があるわけでもないのにどうして獅子がいる?
しかも、ちょいと見慣れない風情の獅子で、なんとなくよだれを垂らしているみたいです

獅子・狛犬にひとかたならぬ関心を寄せている私(たとえばこちらの記事をご参照方)としては、かなりの違和感を覚えたわけですが、傍らに石碑がありました。

中日友好萬古長青
 謹贈 大阪市
 中華人民共和国大使館

と刻まれています。
さらに、説明板もありました。

転記しますと、

こま犬
この一対の「こま犬」は中国・時代の文化遺産で、それぞれ高さ3m、重さ約2.9tある。日中戦争の最中に日本へ運ばれ、当時陸軍第四師団司令部のあった大阪城内に置かれた。戦後も長らく山里口枡形の東付近に置かれていたが、昭和59年(1984)、中国政府により改めて大阪市に寄贈されることとなり、現在の場所に移された。以来この「こま犬」は、両国人民の友好関係を促進し、友誼を深める象徴になっている。脇に建立された記念碑には、変わらぬ中日友好への願いを表した「中日友好 萬古長青」の文字が刻まれており、これは当時の宋之光中華人民共和国駐日本特命全権大使の筆になる。

だとか…。

「両国人民の友好関係を促進し、友誼を深める象徴になっている」と書かれてはいますけど、結構、ドロドロした、いわく付き「こま犬」のようで…

というか、これは「こま犬(狛犬)」ではなく「獅子」だと思うんですけど…

それはともかく、この付近から眺める大阪城天守、かなり見栄えがしました

内堀沿いに、大阪城天守を眺めながら歩き、私はこの日2度目青屋門を通って大阪城ホール方面へ…。

この青屋門大坂城の鬼門・艮(うしとら=北東)にあたる門なのですが、

青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入口で、青屋門はその枡形の内側に建つ。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)ごろと考えられ、明治維新の大火によって被災し、その後陸軍によって改築されたものの、昭和20年(1945)の空襲で再び大破した。昭和44年(1969)、大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。
現状は上部に櫓を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画のことで、青屋口の枡形は、二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出枡形だった。さらにその外側は水堀となっていて、橋が架かっていた。この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆる算盤橋で、非常時以外は引き入れたままになっていた。
「青屋」の名については、戦国時代この地にあった大坂(石山)本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられている。

だそうです。

非常時以外には使われなかったというのがキモでしょうな
青屋門と同様、鬼門であるにある熊本城不開門(あかずのもん)が、

「死人や不浄物の搬出時にだけ用いられていた」のと相通じるものがあると思うわけで…
ちなみに熊本城の不開門は、2年前の地震完全崩落してしまった由

   

さて、私が青屋門から外堀の外に出たのは15:30頃大阪城ホールでの「THE SUPER TOUR OF MISIA」の開場まで30分の段階でした。

このまま大阪城ホールに入る(列に並ぶ)にはまだ早すぎたわけでして、私は、JO-TERRACE OSAKAで、遅い昼食早い夕食を摂りました。
「#2-6」で書いたように、まともな昼食を摂れず、豚まん1回目の青屋口イカ焼きを食べただけでしたから

そして、MISIAの曲の流れるレストランで食事をした私は、いよいよ「THE SUPER TOUR OF MISIA」2日目出撃

この日のLIVEについては、当日のダイジェスト「THE SUPER TOUR OF MISIAをふり返る」シリーズで書きましたので、関西旅行記2日目編はここで完結とさせていただきます。

つづき:2018/06/05 2018年最初の関西旅行 #3-1

コメント
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