先日、旧友と連れだって、秋田城趾に行ってきました。
秋田城趾に行くのは2015年5月(訪問記)以来9年ぶり、秋田城跡歴史資料館は2016年のオープン以来初めての訪問でした。
地元民である友人が運転するクルマで現地に行き、まずは秋田城跡歴史資料館を見学。
15年前にも、秋田城趾からの出土品などを展示する施設がありましたが、この施設(秋田城跡出土品収蔵庫)は、基本的に「収蔵庫」だったらしく、展示はなんともこぢんまりした寂しいものだった記憶があります(確か観覧無料だったはず)。
それが、いまや、見違えるような立派な展示施設に生まれ変わっていましたしかも、観覧料310円
が安く感じられる充実した展示
資料館では、「秋麻呂くん」という秋田城趾イメージキャラクターがお出迎えしてくれました
漆紙文書は、一見すると「丸く黒い板」ですが、土中から出土した「漆が付着し染み込んだ古代の文書」。
漆紙文書は、役所で使用済みの紙や不要になった文書を漆職人に払い下げ、職人がそれを漆の入った容器の蓋紙として使用し、付着し染み込んだ漆の保存力によって、捨てられた後も土の中でも紙と文字が残ったものです。
だそうで、いわば当時貴重だった紙のリユース品が、漆の力で文字と共に残ったというヤツ。この資料館で一番の目玉
だと思われたのが、「赤外線カメラコーナー」で、真っ黒な漆紙文書
や墨が薄れた木簡(もちろんレプリカ)が、赤外線カメラを通して見ると、あら不思議
、文字が読める
という画期的な展示でした
肉眼ではほとんど見えないものが、赤外線カメラを使えば見えるようになるというのは、知識としては知っていても、目の前で、しかも自分が選んだ資料から文字がクッキリ
と映し出されるのには感動
すら覚えました。
驚くべき漆の威力 驚くべき赤外線カメラ
の威力
です。
その他にも興味深い展示があって、「へぇ~、初めて知った」のが、和同開珎に銀銭と銅銭があったということ。
続日本紀
に書かれているという、
慶雲5(708)年1月11日に武蔵国から「和銅」が朝廷に献上された。元明天皇はこれを大いに喜ばれ、この慶事を祝して慶雲5年を和銅元年と改元され、「和同開珎」が鋳造された。
ということから勝手に「和同開珎は銅銭」と思い込んでいた私でしたが、Wikipediaからの受け売りによれば、続日本紀には、前記の改元の話に続けて、
和銅元年5月11日(708年6月3日)には銀銭が発行され、7月26日(708年8月16日)には銅銭の鋳造が始まり、8月10日(708年8月29日)に発行された
とあります。
これは自分の無知と思い込みを恥じるしかなさそうです
なお、銀・銅の和同開珎と一緒に展示されていた「富寿神寶」銭は、皇朝十二銭の5番目で、弘仁9(818)年から鋳造・発行された貨幣です。
この他にも、出土品や復元品などの展示とともに、充実したパネル展示が行われていました。
最後の情報コーナーには、市民が秋田城跡史跡公園で撮った写真が飾られていたんですが、動物の写真としては、キジとカモシカが多い多い…
私も9年前に来たときはキジを目撃しましたが、今回は出会えませんでした。
ここで、秋田城跡歴史資料館や秋田城趾付近のマップをご覧くださいませ。
秋田城の政庁跡の南西角を道路が貫いています。
この道路は「旧国道」と呼ばれる旧・旧国道7号線でして(ちなみに秋田市で「新国道」といえば、旧国道7号線の県道56号線を指します)、平城宮跡を横切る近鉄奈良線みたいです
こちらの「秋麻呂くん通信」によると、
明治時代になり、明治天皇の秋田ご巡行に合わせ、明治9(1876)年に街道の政庁付近の開削、切り通し工事が行われました。その際に残念ながら政庁跡の西側1/3が失われたと考えられます。道路の開削により、かつては同じ高さでつながっていた地面が大きく削られて地形が変わり、城跡の東西が分断されることになりました。
たそうで、実際、旧羽州街道のルートをみると、
旧羽州街道は、高清水地区を西に迂回していました。
現在、秋田城跡歴史資料館から秋田城趾に行こうとすれば、坂を下って登る
必要がありますが、今年4月に開通
した「史跡公園連絡橋」を通ればほぼ平坦(のはず
私はまだ通っていない
)です。
私は、友人のクルマで秋田城跡史跡公園に移動し、しばし散策しました。
史跡公園内は、15年前と変わらず(前述の収蔵庫がなくなったくらい)、緩やかな起伏の中に、復元された築地塀と赤い柱が目に鮮やかな門(どちらも瓦葺き)が立っていました。
一緒に行った友人が卒業した小学校のグラウンドがあったという場所には、石柱が立っていました。
石柱に彫られていたのは「紀元二千六百年記念運動場」の文字でした。
そして、揮毫したのは、「厚生省 體育局長 佐々木芳遠」なる人。
この人はどんな人? 中央省庁の所管局長が秋田のグラウンドの碑を揮毫する?
とちょっと不思議に思って調べたところ、佐々木芳遠さんは、1894年生まれで宮城県出身の内務官僚で、埼玉県を振り出しに岐阜県、徳島県、神奈川県、復興局、岩手県、茨城県、山口県、東京府を転勤しまくって要職を務めたあと、1938年6月に秋田県知事(官選)に就任されています。
そして、わずか半年後の1939年1月にはくだんの「厚生省体育局長」に転任。
その後、1941年8月に最後のポストである山口県知事(官選)に転任し、1943年7月に「依願免本官(=辞職)」してリタイアされていますから、「紀元2600年」の1940年当時は、厚生省体育局長だったわけですな。
国を挙げての「紀元2600年記念行事」の一つとして、秋田県がこの場所を「紀元二千六百年記念運動場」にするにあたって、「知らない人じゃないし、厚生省体育局長ならうってつけだ」と、佐々木さんに記念柱の揮毫を依頼するのは、自然なことかもしれません。
もしかすると、佐々木さんが秋田県知事在任中に、県の記念事業として運動場を整備して、ここで県の奉祝行事を挙行することを、思いついたか承認(国の「紀元二千六百年祝典準備委員会」発足は1935年10月)した縁で、自ら買って出た可能性もあるかも…
この石柱を間近で見たとき、石柱の根元右側に小さな石柱が横にして置かれているのに気づいて、「これはなんだろ?」と思ったんですが、写真を見ると、石柱は右に傾いていて、小さな石柱は転倒防止策なのかもしれないと思ったりして…
知らんけど…
こんな想像をもかき立てる久しぶりの秋田城趾でした(とってつけたような…)
ところで、この記事、いつもに比べて写真が少ないことにお気づきの方がいらっしゃるかもしれません。
先日の関西旅行の際、SDカードを入れていないデジカメを持っていったのに続いて、今回の帰省では、デジカメ
を本宅に忘れてきたのでした
望遠レンズと予備のバッテリー & SDカードは持ってきたのに、なんとも情けないことです。