新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

2018年最初の関西旅行 #2-10

2018-06-03 15:52:45 | 旅行記

「2018年最初の関西旅行 #2-9」のつづきは、大阪城公園の散策の第3部の始まりです。

「#2-4」に載せた散策マップの一部を再掲しますと、黄色の線で示したのが「第3部」のルートで、この辺りを歩いたのは、大阪城ホール周辺を除けば、今回が初めてでした。

「THE SUPER TOUR OF MISIA」ツアーグッズを買うべく(結局、マフラータオルしか買いませんでした)立ち寄った大阪城ホール前でミー友さんたちとちょいと会話を楽しんだのち、第二寝屋川(変な名前)沿いに散策を再開。

八重桜見頃でした

大阪八重桜、というかサクラといえば、造幣局「通り抜け」が有名です。
時期が合えば「通り抜け」を楽しんでみたかったところですが、今年の開催は4月11~17日で、1週間ズレていたぁ~

サクラ開花が全国的に早かった今年(万博記念公園でも大阪城西の丸庭園でも一部の八重桜を除いてサクラの季節は終わっていた)、きっと八重桜の見頃この週だったろうにねぇ…

そんなわけで、今回はの花を楽しむことにして、第二寝屋川寝屋川との合流地点と北外堀に挟まれた場所にある「桃園」へ行ってみることにしたのでした。

その「桃園」の手前、というより、大阪城ホールのちょい先にトンネルのようなものがありました。

Google Mapをみると、

Google Map

 

「砲兵工廠荷揚門」とありますから、で運んできた資材を、この門から砲兵工廠に納品したんでしょうな。
この門は1871年(砲兵工廠設置の翌年)に造られたそうで、かなぁ~い古い
へぇ~、で運搬したんだぁ~、と思ったのですが、考えてみればダイムラーベンツガソリン自動車を作ったのは1885年のことですから、明治初年には荷物の運搬は荷馬車が主流だったのでしょう。

さて、

ひやぁ~、きれい
純白ですな
「照手」という品種だとか。
同じ「照手」の色違いも。

ウメサクラもいいけれど、もいいなぁ

   

桃園を見物したあとは、北外堀沿いに歩いて京橋口を目指しました。

と、メチャクチャ古そうな建物

古い上に、使われている気配もなく、そして説明板もなく、ほとんど廃屋っぽい…。

大阪砲兵工廠化学分析場

案内図をみると「旧大阪砲兵工廠化学分析場」とあります。
Wikipediaによれば、

1919年(大正8年)に竣工、ネオ・ルネサンス様式の煉瓦造地上2階・地下1階の建物。建築家砲兵工廠建築部置塩章の設計、延面積1887平方メートルで、大阪橋下組の施工による。第二次世界大戦後、阪大工学部校舎、さらに1964年から1998年まで自衛隊大阪地方連絡部として利用されていたが、現在は放置されており、荒廃が進んでいる。

だとか。
来年で築100年を迎える建物、このまま放置しとくってのはもったいないと思うなぁ。

ちなみにこの建物を設計した置塩章さん、当時は砲兵工廠の職員(陸軍技師)だったそうで、その作品は、旧茨城県庁舎(現茨城県三の丸庁舎)、現宮崎県庁舎など、けっこう残存しているようです。

ここでちょいと寄り道
Wikipediaによれば、宮崎県庁舎1932年竣工で、現役の都道府県庁舎としては4番目に古いのだそうで、じゃ、1~3番はどこ? ですよね。

1位は、なんとなんと大阪城のお隣、大阪府庁舎(1926年竣工)で、

2位神奈川県庁舎(1928年竣工)、そして3位愛媛県庁舎(1929年竣工)だそうな。

TOP 3は実際に観ましたなぁ…
実際に中に入ったことがあるのは神奈川県庁だけですけど…。

ちなみに、現存する都道府県庁舎の最古参はといえば、やはりダントツで、1888年竣工北海道庁旧本庁舎です。

さて、旧大阪砲兵工廠化学分析場の前を通り過ぎると、旧科学分析場よりもっと鄙びた建物があり、そして、門の土台

この建物は、正確なところは判りませんがこちらのサイトによれば、

この建物は、明治初期に建設されたものだそうで、守衛所トイレなどに使用されたそうです。

だとか。
そして、この「門の土台」には説明板がありまして、

筋鉄門(すじがねもん)
元和6年(1620)に開始された徳川幕府による大坂城再築工事では、同年の第1期工事により二の丸の北外側北外曲輪(三の丸)が築かれた。筋鉄門はその西の入口で、門扉は筋状の鉄板で補強されていた。ここは鴫野方面への通路にあたることから一般の通行が許され、特に鴫野の弁才天の縁日には多数の市民がここを通った。門は明治維新後も残り、北外曲輪跡に設置された軍事工場(大阪砲兵工廠)の正門とされたが、現在は左右の石組だけが残る。

だそうです。
へぇ~、ここが砲兵工廠の正門だったんですか…。
広大砲兵工廠の正門が、こんな狭い場所にあったとは…

そして、明治天皇が行幸されたっぽい石碑も立っています。

この石碑、「明治天皇聖躅」と彫られていますが、「聖躅」何と読むのでしょうか?
そして、その意味は…?

「躅」の字は、こちらによると「ちょく」と読み、その意味は、

ふむ。あしぶみする。たたずむ。

なるほど、「聖躅」で、「聖上(天皇)が足を運ばれた」という意味なんですな。
そして、こちらのサイトによれば、

明治天皇は大阪に6回 行幸されました。
そのことを末永く後世に伝えようと、
大阪市青年聨合團市内30箇所に碑を建てました。
実際の建立は昭和3~6年です。

だそうですが、私が「明治天皇聖躅」碑を見たのはこれが初めてかも…。

ここでまたまた寄り道

「躅」の字、よくよく見れば、ツツジ超難しい漢字表記「躑躅」に出てくる
どうして「躑(てき)=たちもとおる。たちどまる。ためらう。」+「躅(ちょく)=ふむ。あしぶみする。たたずむ。」ツツジなんだろ?

こちらのサイトによれば、

漢字の「躑躅」は漢名からで、「てきちょく」と読む。
「躑躅(てきちょく)」には「行っては止まる」「躊躇」という意味があり、見る人の足を引き止める美しさから、この漢字が使われたといわれる。
本来は「羊躑躅」で、葉を食べたヒツジが躑躅して死ぬことからという説もある。

ですって

寄り道ついでにもう一ネタ

上に載せた「筋鉄門」の説明に「鴫野の弁才天」という言葉が出てきます。
この「鴫野の弁才天」を調べると、生國魂神社の摂末社の一つ、鴫野神社のことらしいのですが、鴫野神社があるのは天王寺区で、ここにお参りする人たち(江戸時代に「市民」はないだろ と思う)がここを通ったというのは、地理的理解できない

調べると、

鴫野神社は、生國魂神社の境内にある8つの末社のうちのひとつ。江戸時代に大阪城に異変が起こった際、淀殿の崇りと考えられ、鴫野の弁天島(現大阪ビジネスパーク辺り:ここに淀殿が信仰していた弁天堂があったとされる)に淀殿を祀る祠を建てたのが始まりとされる。
明治10年(1877)、同地は砲兵工廠の建設用地となり、現在の場所に移転した。

なんだそうで、これなら十分に理解できます

ということで、京橋口からの再入城のことは「#2-11」で。

つづき:2018/06/04 2018年最初の関西旅行 #2-11

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2018年最初の関西旅行 #2-9

2018-06-01 21:59:06 | 旅行記

「2018年最初の関西旅行 #2-8」のつづきです。

大阪城天守閣の見物を終えた私は、天守の北側の一段低くなっている山里丸へ…。

山里丸には、去年の大阪城公園のLOVE BEBOPな散策のときに気づかなかった スポットがありまして、今回はそちらを拝見することを、目的の一つにしていました。

そのスポットというのが、こちら

「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」と彫られた石碑です。

「石碑」というよりも「墓」っぽいつくりですが、傍らの説明板には、

慶長20年(元和元年、1615)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。
それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。

とありますから、「墓」ではなく「記念碑」なんです。

これまで、私のとしたイメージでは、徳川軍の砲撃が続く中、秀頼と淀殿らは、立て籠もる大坂城天守の中で自刃した、だったのですが、実際はそうではなくて、天守の裏側にある山里丸終焉の地だったんですな…

考えてみれば、徳川軍の主力は南側から大坂城を攻めていたわけで、その攻撃に耐えるのならば、徳川軍から丸見えの天守に立て籠もるのは危険が大きすぎます。
その点、こののある場所は、豊臣期の天守北側一段低くなっている場所で、立て籠もるのなら天守にできるこの辺りしかないでしょ って感じ…

現在、山里丸(下の写真は去年1月に撮ったもの)

「刻印石広場」になっていますが、説明板によれば、

天守から一段下がったこのあたり一帯を山里丸と呼ぶ。
豊臣時代には、山里の風情を保つ松林や、桜、藤などの木々が繁り、いくつもの茶室が建っていた。豊臣秀吉や、その家族が茶会や花見を楽しむくつろぎの場所であった。

だそうです。
それが徳川時代になると、

寛永元年(1624年)の再築後は構造も建物もすっかり変わり、石垣を取り囲むのほか大坂城を守衛した山里加番(城役人)建物が建ちならんでいた。

だそうで、説明板に描かれていた配置図徳川時代のものなんでしょうな。

そんなことを考えながら、私は極楽橋を渡って本丸から二の丸に出て、

「THE SUPER TOUR OF MISIA」グッズを購入するべく、一旦、大阪城ホールに向かいました。

おぉ、ツアートラックの群れ

ということで、大阪城公園散策記第2部はここまで、「#2-10」以降第3部突入します。

つづき:2018/06/03 2018年最初の関西旅行 #2-10

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