「2018年最初の関西旅行 #2-9」のつづきは、大阪城公園の散策の第3部の始まりです。
「#2-4」に載せた散策マップの一部を再掲しますと、黄色の線で示したのが「第3部」のルートで、この辺りを歩いたのは、大阪城ホール周辺を除けば、今回が初めてでした。
「THE SUPER TOUR OF MISIA」のツアーグッズを買うべく(結局、マフラータオルしか買いませんでした)立ち寄った大阪城ホール前でミー友さん
たちとちょいと会話を楽しんだのち、第二寝屋川(変な名前
)沿いに散策
を再開。
八重桜が見頃
でした
大阪で八重桜、というかサクラといえば、造幣局の「通り抜け」が有名です。
時期が合えば「通り抜け」を楽しんでみたかったところですが、今年の開催は4月11~17日で、1週間ズレていたぁ~
サクラの開花が全国的に早かった
今年(万博記念公園でも大阪城西の丸庭園でも一部の八重桜を除いてサクラの季節は終わっていた
)、きっと八重桜の見頃
はこの週だったろうにねぇ…
そんなわけで、今回は桃の花を楽しむことにして、第二寝屋川と寝屋川との合流地点と北外堀に挟まれた場所にある「桃園」へ行ってみることにしたのでした。
その「桃園」の手前、というより、大阪城ホールのちょい先にトンネルのようなものがありました。
「砲兵工廠荷揚門」とありますから、船で運んできた資材を、この門から砲兵工廠に納品したんでしょうな。
この門は1871年(砲兵工廠設置の翌年)に造られたそうで、かなぁ~い古い。
へぇ~、船で運搬したんだぁ~、と思ったのですが、考えてみればダイムラーやベンツがガソリン自動車を作ったのは1885年のことですから、明治初年には荷物の運搬は荷馬車か船が主流だったのでしょう。
さて、桃。
ひやぁ~、きれい
純白ですな
「照手」という品種だとか。
同じ「照手」の色違いも。
ウメもサクラもいいけれど、桃もいいなぁ
桃園を見物したあとは、北外堀沿いに歩いて京橋口を目指しました。
と、メチャクチャ古そうな建物
古い上に、使われている気配もなく、そして説明板もなく、ほとんど廃屋っぽい…。
案内図をみると「旧大阪砲兵工廠化学分析場」とあります。
Wikipediaによれば、
1919年(大正8年)に竣工、ネオ・ルネサンス様式の煉瓦造地上2階・地下1階の建物。建築家砲兵工廠建築部置塩章の設計、延面積1887平方メートルで、大阪橋下組の施工による。第二次世界大戦後、阪大工学部校舎、さらに1964年から1998年まで自衛隊大阪地方連絡部として利用されていたが、現在は放置されており、荒廃が進んでいる。
だとか。
来年で築100年を迎える建物、このまま放置しとくってのはもったいないと思うなぁ。
ちなみにこの建物を設計した置塩章さん、当時は砲兵工廠の職員(陸軍技師)だったそうで、その作品は、旧茨城県庁舎(現茨城県三の丸庁舎)、現宮崎県庁舎など、けっこう残存しているようです。
ここでちょいと寄り道。
Wikipediaによれば、宮崎県庁舎は1932年竣工で、現役の都道府県庁舎としては4番目に古いのだそうで、じゃ、1~3番はどこ? ですよね。
1位は、なんとなんと大阪城のお隣、大阪府庁舎(1926年竣工)で、
2位は神奈川県庁舎(1928年竣工)、そして3位は愛媛県庁舎(1929年竣工)だそうな。
TOP 3は実際に観ましたなぁ…
実際に中に入ったことがあるのは神奈川県庁だけですけど…。
ちなみに、現存する都道府県庁舎の最古参はといえば、やはりダントツで、1888年竣工の北海道庁旧本庁舎です。
さて、旧大阪砲兵工廠化学分析場の前を通り過ぎると、旧科学分析場よりもっと鄙びた建物があり、そして、門の土台。
この建物は、正確なところは判りませんが、こちらのサイトによれば、
この建物は、明治初期に建設されたものだそうで、守衛所やトイレなどに使用されたそうです。
だとか。
そして、この「門の土台」には説明板がありまして、
筋鉄門(すじがねもん)跡
元和6年(1620)に開始された徳川幕府による大坂城再築工事では、同年の第1期工事により二の丸の北外側に北外曲輪(三の丸)が築かれた。筋鉄門はその西の入口で、門扉は筋状の鉄板で補強されていた。ここは鴫野方面への通路にあたることから一般の通行が許され、特に鴫野の弁才天の縁日には多数の市民がここを通った。門は明治維新後も残り、北外曲輪跡に設置された軍事工場(大阪砲兵工廠)の正門とされたが、現在は左右の石組だけが残る。
だそうです。へぇ~、ここが砲兵工廠の正門だったんですか…。
広大な砲兵工廠の正門が、こんな狭い場所にあったとは…
そして、明治天皇が行幸されたっぽい石碑も立っています。
この石碑、「明治天皇聖躅」と彫られていますが、「聖躅」は何と読むのでしょうか?
そして、その意味は…?
「躅」の字は、こちらによると「ちょく」と読み、その意味は、
ふむ。あしぶみする。たたずむ。
なるほど、「聖躅」で、「聖上(天皇)が足を運ばれた」という意味なんですな。
そして、こちらのサイトによれば、
明治天皇は大阪に6回 行幸されました。
そのことを末永く後世に伝えようと、
大阪市青年聨合團が市内30箇所に碑を建てました。
実際の建立は昭和3~6年です。
だそうですが、私が「明治天皇聖躅」碑を見たのはこれが初めてかも…。
ここでまたまた寄り道。
「躅」の字、よくよく見れば、ツツジの超難しい漢字表記「躑躅」に出てくる
どうして「躑(てき)=たちもとおる。たちどまる。ためらう。」+「躅(ちょく)=ふむ。あしぶみする。たたずむ。」でツツジなんだろ?
こちらのサイトによれば、
漢字の「躑躅」は漢名からで、「てきちょく」と読む。
「躑躅(てきちょく)」には「行っては止まる」「躊躇」という意味があり、見る人の足を引き止める美しさから、この漢字が使われたといわれる。
本来は「羊躑躅」で、葉を食べたヒツジが躑躅して死ぬことからという説もある。
ですって
寄り道ついでにもう一ネタ
上に載せた「筋鉄門」の説明に「鴫野の弁才天」という言葉が出てきます。
この「鴫野の弁才天」を調べると、生國魂神社の摂末社の一つ、鴫野神社のことらしいのですが、鴫野神社があるのは天王寺区で、ここにお参りする人たち(江戸時代に「市民」はないだろ と思う)がここを通ったというのは、地理的に理解できない…
調べると、
鴫野神社は、生國魂神社の境内にある8つの末社のうちのひとつ。江戸時代に大阪城に異変が起こった際、淀殿の崇りと考えられ、鴫野の弁天島(現大阪ビジネスパーク辺り:ここに淀殿が信仰していた弁天堂があったとされる)に淀殿を祀る祠を建てたのが始まりとされる。
明治10年(1877)、同地は砲兵工廠の建設用地となり、現在の場所に移転した。
なんだそうで、これなら十分に理解できます
ということで、京橋口からの再入城のことは「#2-11」で。
つづき:2018/06/04 2018年最初の関西旅行 #2-11