「超然」という言葉の意味は……
①かけはなれているさま。高くぬきんでているさま。
②世俗にこだわらず、そこから抜け出ているさま。
この本には「妻の超然」「下戸の超然」「作家の超然」の3作品が収められています。
読後のわが第一声は「なにが超然なんだ?こんなもので超然と言えるのだろうか?」というものであった。
自分ではどうしても言葉に出来なくて、それでも抱えこんでいるものが常にある。
そういうものを見事に言葉にできる著書に出会うこと。それが読書の唯一の期待であるからして、
読み終えて、うすいコーヒーを飲んだほどの気分だけでは困る。読みごたえがあったのは「作家の超然」だった。
《妻の超然》
中流サラリーマンの妻、専業主婦、子供はいない。
その夫は、月額の決まったお小遣いの範囲で、別の女性と交際している。
妻は気付いていても、嫉妬しない。追及もしない。
見慣れないブランド物のパンツが洗濯物にあったとしてもそれを追及しないで洗うだけ。
そうして暮らしてゆくうちに、夫の浮気は自然に終わる。
別々の部屋のベッドでお互いに寝ていたはずだったが、夫は「眠れない」と妻のベッドに入る。
その時、夫の科白が奇妙だ。「いつの世も夫が得するようにできているんだよ。」と……。
我が生活では考えられない夫婦関係に驚愕というか?奇妙というか?
「嫉妬」が皆無の夫婦関係というものが「超然」と名付けられるのは、とても奇妙だ。
それが夫婦間の徹底した無関心だとすればこれが「超然」というものか?
共に暮らす意味すらない夫婦ではないのか?つまらない妻だ。
《下戸の超然》
茨城県のつくば学園都市に暮らす下戸のサラリーマンと、同僚の上戸の女性との恋と別れ。
下戸は酔わない。下戸はお酒を飲んだ時の開放感やら後悔やら、口を滑らせることもない。
上戸の女性は、男の部屋で一人飲んでいても寂しい。
下戸はいつでも冷静であり、誠実でもあるのだが、恋人との関係にのめりこまない。
それは下戸と上戸との違いではないようだ。
「生きる」とか「愛する」とか「奉仕する」ということへの温度差の違いに過ぎない。
とりあえず、恋人同士という時間を共有しながら、やはり別れがくる。
温度は急上昇することもなく、よって下降も深い悲しみにはならない。これが超然???
《作家の超然》
これは自画像だろうか?この作品だけが奇妙な存在感をもっている。前記の2編とは趣が異なる。
東京を離れ、友人が住んでいる地方都市が気に入って、そこで暮らすことになった「おまえ」と称するヒロイン。
首に腫瘍がみつかったが、悪性ではない。手術すれば「飲み込み」と「声嗄れ」に支障が出るかもしれない。
しかし、物書きとしては大きな障害ではない、それ以上に腫瘍を抱えこんでいる状況を打破する方を選ぶ。
ドクターの話は物語のようだと「おまえ」は感じる。手術の結果は良好、支障はでない。
超然と死んでゆくはずだった「おまえ」は、またこの町で生きてゆくことになる。
身籠って、子宮の話ばかりする友人はもういらない。ネットワークがあればいい、と思う超然。
以下、引用。
『だが、文学がなんであっても、化け物だったとしても、おまえは超然とするほかないではないか。』
『文学は長い移動を終えて、ついに星のように滅亡するだろう。』
『すべてが滅んだ後、消えていった音のまわりに世にも美しい夕映えが現れるのを、おまえは待っている。ただ待っている。』
この「作家の超然」には、しばしば「ソール・ベロー」の「黄色い家」のヒロイン「ハティー」の言葉が引用されている。
『コレカラ何年自分デ自分ノ面倒ヲミナケレバイケナイノカシラ』
(2010年・新潮社刊)
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「辻原 登×絲山秋子のこの著書についての対談」
「YOMIURI ONLINE・堀内佑二による」