小澤征爾64歳の挑戦 1/2 ~Autumnsnake おぉたむすねィく
小澤征爾さん復活!気迫のタクトに喝采
小澤征爾氏の1年間指揮活動中止の案内が、所属事務所から発信されました。
この本に関しましては、後ほど書きます。
《追記》
……と、書いたものの、この本は非常に楽しかったのですが、まとめるのは難しいことがわかりました。
簡単なメモでお許しくだされ。
若き指揮者時代(かわいい。)。バーンスタインとともに、初めての帰国を果たした小沢氏。
この著書のご本人の「あとがき」は「昭和37(1960)年2月」となっています。
ですからこれは小澤征爾(1935年9月1日生まれ)がまだ無名の若き日、貨物船に乗って日本を出て、ヨーロッパに渡り、
さまざまな国際音楽コンクールに優勝し、ニューヨーク・フィルの副指揮者に就任するまでの3年間の記録です。
フランス、ドイツ、アメリカが舞台です。その後の大いなる指揮者としての記録はありません。
しかし、その自然児のような、日々の疾走ぶりはわくわくします。
貨物船に同行した「スクーター」は、ヨーロッパの陸地を疾走します。
日本の旗(スクーター・メーカーからの無料提供&その宣伝を兼ねて。修理方法まで学んで。)を翻しつつ。
彼の天性の性格のせいなのか?ご家族のあたたかな、そして大らかな包容力のなせることなのか?
なによりも「西洋音楽」に触れたいという強い願いのなせることなのでしょう。
この後、彼は車を買います。簡単な運転免許証も取得します。
彼の行動範囲を広げるために欠かせないものだったと思います。
それでも日本を出て、10か月ほどでホームシックに。
幸せな小澤一族を離れて、1人で外国に暮らせば、それはごく自然の出来事かもしれない。
そしてドクターは、お金のない患者を病院ではなくて修道院に入れた。パリの毒気を抜くため。
寒いが、規則的な日常の仕事と食事、賛美歌を聴いた時の感動などなど…少し痩せたが元気になったとか。
この3年間を音楽家が文章にまとめるのは、小澤さんとはいえ困難なことに違いない。
日記代わりになったものは、家族宛てに小澤さんが書いた手紙を弟さんがすべてまとめて保存しておいたことによる。
(昭和55年7月発行 平成20年6月43刷・新潮文庫)
小澤征爾さん復活!気迫のタクトに喝采
小澤征爾氏の1年間指揮活動中止の案内が、所属事務所から発信されました。
この本に関しましては、後ほど書きます。
《追記》
……と、書いたものの、この本は非常に楽しかったのですが、まとめるのは難しいことがわかりました。
簡単なメモでお許しくだされ。
若き指揮者時代(かわいい。)。バーンスタインとともに、初めての帰国を果たした小沢氏。
この著書のご本人の「あとがき」は「昭和37(1960)年2月」となっています。
ですからこれは小澤征爾(1935年9月1日生まれ)がまだ無名の若き日、貨物船に乗って日本を出て、ヨーロッパに渡り、
さまざまな国際音楽コンクールに優勝し、ニューヨーク・フィルの副指揮者に就任するまでの3年間の記録です。
フランス、ドイツ、アメリカが舞台です。その後の大いなる指揮者としての記録はありません。
しかし、その自然児のような、日々の疾走ぶりはわくわくします。
貨物船に同行した「スクーター」は、ヨーロッパの陸地を疾走します。
日本の旗(スクーター・メーカーからの無料提供&その宣伝を兼ねて。修理方法まで学んで。)を翻しつつ。
彼の天性の性格のせいなのか?ご家族のあたたかな、そして大らかな包容力のなせることなのか?
なによりも「西洋音楽」に触れたいという強い願いのなせることなのでしょう。
この後、彼は車を買います。簡単な運転免許証も取得します。
彼の行動範囲を広げるために欠かせないものだったと思います。
それでも日本を出て、10か月ほどでホームシックに。
幸せな小澤一族を離れて、1人で外国に暮らせば、それはごく自然の出来事かもしれない。
そしてドクターは、お金のない患者を病院ではなくて修道院に入れた。パリの毒気を抜くため。
寒いが、規則的な日常の仕事と食事、賛美歌を聴いた時の感動などなど…少し痩せたが元気になったとか。
この3年間を音楽家が文章にまとめるのは、小澤さんとはいえ困難なことに違いない。
日記代わりになったものは、家族宛てに小澤さんが書いた手紙を弟さんがすべてまとめて保存しておいたことによる。
(昭和55年7月発行 平成20年6月43刷・新潮文庫)