企画&脚本:宮崎駿
原作:メアリー・ノートン
脚本:丹羽圭子
監督:米林宏昌
音楽:セシル・コルベル
スタジオジブリ映画の「借りぐらしのアリエッティ」を近所のMOVIXで観てきてしまいました。メアリー・ノートンの原作の「小人の冒険シリーズ・5巻」の最後の「小人たちの新しい家」を半分までしか読めませんでしたが。。。でもアニメ映画は第1巻の「床下の小人たち」と第3巻の「川をくだる小人たち」を繋げたかたちで、人間の少年「翔」と小人の少女の「アリエッティ」との出会いと別れと友情を描いていました。原作には少年はたしかに出てきますが、原作では健康な少年。「翔」は重い心臓病の手術を控えた少年という設定です。
そして「翔」は、父親は不在、母親は仕事で海外に行ったために祖母の家にあずけられます。この家は「ターシャおばさん」の家のようです。ポピーの咲く広い庭、蔦のからまる家(←これは、15センチの小人のアリエッティには都合のよいもので、翔のいる部屋の高窓まで登れるのです。)
宮崎アニメの特徴と人気の要素はどこにあるのか?と思う時に、ソ連の映画監督のセルゲイ・エイゼンシュテイン」の言葉を思い出します。彼はディズニー・アニメを批判した時、その背景画の貧しさが映画全体を殺しているのだと言ったそうです。
それを思い出しつつ・・・・・・宮崎アニメはこの作品に限らず、背景画、建物の内部の様子、もちろん床下の構造、庭や自然界の描写、光、雨、水の流れなどが生き生きと丁寧に描かれていることです。物語を生き生きとさせるものとは、実はヒロインやヒーローではなくその背景が大きな要素であることが理解できます。この背景の見事さや精密さなどは言葉で伝えることは無理ですね。観てみないとわかりません。
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さて、この「借りぐらし」と「人間」いう言葉について、原作と映画での「アリエッティ」と「少年」との会話が興味深い。原作では「床下」に暮らしていた頃に、その家の少年に見つかりましたが、食べ物やらドールハウス用の小さな品々をプレゼントしてくれました。しかし少年は「借りるではなく盗んでいたんだろう?」とアリエッティに言いました。その時アリエッティはこう言ったのでした。
『パンのためにバターがあり、牛のために草があり、人間のために牛がいる。人間はなんのためにいるの?それは借りぐらしの小人のためにいるのよ。』たった15センチの小人の少女の言葉です。
アニメに登場する少年は重い心臓の病をかかえ、手術を待っているのですが生きる確率は非常に低いという状況にありましたが、曾祖母、祖父母から母へ、そしてその少年へと「小人の存在」を信じて語り続けられてきました。そして祖母の家には、少女時代の母のために祖母が与えたという、「アリエッティ」が思わず息をのむほどに精巧なドールハウスがありました。そして少年は「アリエッティ」に出会ってそれを信じました。しかし少年と「アリエッティ」との会話は「小人は今何人いるのだろう?やがて絶滅するのではないか?」たしかに彼女の知る限りにおいては父母とスピラーともう1家族だけでした。でも知らないところにはまだ存在しているのだと信じています。
しかし少年は「世界人口」の数を「アリエッティ」に伝えて驚かせます。これは自らの「死」を意識した少年の発言でしょうが、「アリエッティ」は涙を流しながら答えます。「小人は絶対にどこかにいる!」と・・・。そうです。小人たちの行動半径、移動手段を考えてみた時、それは絶対にいるのです。
そして、「アリエッティ」一家は、その少年の家を出なければならなくなりました。少年は「君は僕の心臓だよ。きっと生きていくよ。」そして小人たちはスピラーの待つやかんの舟に乗って川を下ってゆきました。そこにはまた新たな世界が待っているのでした。
「小人」の存在を信じること。ともに人間と生きてゆけること。ああ。やっと元気になった(^^)。