制作年:1975年
監督:黒澤明
原作:ウラジミール・アルセーニエフ「シベリアの密林を行く」&「「デルス・ウザーラ」
脚本:黒澤明&ユーリー・ナギービン
協力監督:野上照代&ウラジミール・ワシリーエフ
製作:ニコライ・シゾフ&松江陽一
撮影:中井朝一&ユーリー・ガントマン&ヒョードル・ドブロヌラーボフ
音楽:イサーク・シュワルツ
美術:ユーリー・ラクシヤ
通訳:レフ・コルシコフ
キャスト:
デルス・ウザーラ:マキシム・ムンズク
ウラジミール・アルセーニエフ:ユーリー・サローミン
1902年から数回にわたって地誌調査のためにシベリアを探検したウラジミール・アルセーニエフの著書「シベリアの密林を行く」と「デルス・ウザーラ」を基にしたソ連映画です。久しぶりに見ごたえのある映画でした。多分これは決して手に入れることはできないであろうが、わたくしが何度も夢見た生き方だったのです。
「デルス・ウザーラ」はシャーマンではない。一人の猟師なのです。密林の虎と言葉を交わしあい、天の営みを読み、風と水の恐怖を知り、金銭を求めず、密林で生きる知恵を地誌調査の軍人たちに惜しみなく与えた友人である。彼は「詩」のように生きたのではない。もちろん哲学でもない。彼の存在そのものが「詩」だったのではないか。
《第一部》
1902年秋の夜、地誌調査のためにコサック兵六名を率いてウスリー地方に入った「アルセーニエフ」ははじめて「デルス」に会った。熊と見まちがえたくらい動作が敏捷だった。
鹿のナメシ皮の上着とズボンをつけたゴリド人のデルスは、天然痘で妻子をなくした天涯狐独の猟師で、家を持たず密林の中で自然と共に暮らしていた。語彙の少ない人間だが、あたたかな心情が隊員にはすぐに伝わるのだった。翌日からデルスは一行の案内人として同行することになった。
最もこの映画のなかで「デルス」の知恵が生かされたのは、アルセーニエフとデルスがハンカ湖付近の踏査に出かけた時のこと。気候は突如として急変し、横なぐりの吹雪が襲ってきた。デルスは、アルセーニエフに草を刈り取ることを命じ、二人は厳寒に耐えながら草を刈り続けた。過労で気を失ったアルセーニエフが気づくと、吹雪がおさまりもとの静けさをとり戻していた。デルスが草で作った急造の野営小屋のおかげで凍死をまぬがれた。この小屋の支柱となったものは測量用の三脚だった。
シベリヤの短い秋が終わり、やがて厳しい冬がやってきた。寒さの他に飢餓が彼らを苦しめた。この時もデルスの知恵が一行を救った。第一次の地誌調査の目的を達したアルセーニエフの一行は帰ることになり、彼はデルスを自分の家に誘ったがデルスは弾丸を少し貰うと、一行に別れを告げて密林に帰っていった。
《第二部》
1907年。再度ウスリー地方を訪れたアルセーニエフはデルスと再会した。その頃から、老いと孤独が次第にデルスを苦しめていた。さらに視力が衰えたデルスは、アンバ(ウスリーの虎)を恐れるようになっていた。猟ができなくなったデルスは既に密林に住むことは許されない。あれほど都市の生活を嫌っていたデルスはアルセーニエフの誘いに応じ彼の家(ハバロフスク)に住むことになった。デルスはアルセーニエフの息子(8歳くらい?)と祖父と孫のように仲良しになった。そしてデルスは密林の話を夜毎話してあげたのだった。
しかし、デルスにとって都会生活は、彼の肉体と精神をむしばむことになる。そのデルスの苦悩を、アルセーニエフやその妻も癒すことができなかった。密林に帰ることになったデルスに、アルセーニエフは最新式の銃を贈った。その銃ならば視力の衰えたデルスを助けるだろうとの思いからだった。その好意がとりかえしのつかない災いを招くことになった。デルスは行きずりの強盗にその銃を奪われ、他殺死体として発見されたのだ。アルセーニエフは、冷たい土の中に埋められていくデルスのたった一人の立会い人だった。
* * *
この映画のあとで、しきりに思い出される1冊の本があります。それは「小川は川へ、川は海へ・スコット・オデール」です。こちらはアメリカが舞台です。
監督:黒澤明
原作:ウラジミール・アルセーニエフ「シベリアの密林を行く」&「「デルス・ウザーラ」
脚本:黒澤明&ユーリー・ナギービン
協力監督:野上照代&ウラジミール・ワシリーエフ
製作:ニコライ・シゾフ&松江陽一
撮影:中井朝一&ユーリー・ガントマン&ヒョードル・ドブロヌラーボフ
音楽:イサーク・シュワルツ
美術:ユーリー・ラクシヤ
通訳:レフ・コルシコフ
キャスト:
デルス・ウザーラ:マキシム・ムンズク
ウラジミール・アルセーニエフ:ユーリー・サローミン
1902年から数回にわたって地誌調査のためにシベリアを探検したウラジミール・アルセーニエフの著書「シベリアの密林を行く」と「デルス・ウザーラ」を基にしたソ連映画です。久しぶりに見ごたえのある映画でした。多分これは決して手に入れることはできないであろうが、わたくしが何度も夢見た生き方だったのです。
「デルス・ウザーラ」はシャーマンではない。一人の猟師なのです。密林の虎と言葉を交わしあい、天の営みを読み、風と水の恐怖を知り、金銭を求めず、密林で生きる知恵を地誌調査の軍人たちに惜しみなく与えた友人である。彼は「詩」のように生きたのではない。もちろん哲学でもない。彼の存在そのものが「詩」だったのではないか。
《第一部》
1902年秋の夜、地誌調査のためにコサック兵六名を率いてウスリー地方に入った「アルセーニエフ」ははじめて「デルス」に会った。熊と見まちがえたくらい動作が敏捷だった。
鹿のナメシ皮の上着とズボンをつけたゴリド人のデルスは、天然痘で妻子をなくした天涯狐独の猟師で、家を持たず密林の中で自然と共に暮らしていた。語彙の少ない人間だが、あたたかな心情が隊員にはすぐに伝わるのだった。翌日からデルスは一行の案内人として同行することになった。
最もこの映画のなかで「デルス」の知恵が生かされたのは、アルセーニエフとデルスがハンカ湖付近の踏査に出かけた時のこと。気候は突如として急変し、横なぐりの吹雪が襲ってきた。デルスは、アルセーニエフに草を刈り取ることを命じ、二人は厳寒に耐えながら草を刈り続けた。過労で気を失ったアルセーニエフが気づくと、吹雪がおさまりもとの静けさをとり戻していた。デルスが草で作った急造の野営小屋のおかげで凍死をまぬがれた。この小屋の支柱となったものは測量用の三脚だった。
シベリヤの短い秋が終わり、やがて厳しい冬がやってきた。寒さの他に飢餓が彼らを苦しめた。この時もデルスの知恵が一行を救った。第一次の地誌調査の目的を達したアルセーニエフの一行は帰ることになり、彼はデルスを自分の家に誘ったがデルスは弾丸を少し貰うと、一行に別れを告げて密林に帰っていった。
《第二部》
1907年。再度ウスリー地方を訪れたアルセーニエフはデルスと再会した。その頃から、老いと孤独が次第にデルスを苦しめていた。さらに視力が衰えたデルスは、アンバ(ウスリーの虎)を恐れるようになっていた。猟ができなくなったデルスは既に密林に住むことは許されない。あれほど都市の生活を嫌っていたデルスはアルセーニエフの誘いに応じ彼の家(ハバロフスク)に住むことになった。デルスはアルセーニエフの息子(8歳くらい?)と祖父と孫のように仲良しになった。そしてデルスは密林の話を夜毎話してあげたのだった。
しかし、デルスにとって都会生活は、彼の肉体と精神をむしばむことになる。そのデルスの苦悩を、アルセーニエフやその妻も癒すことができなかった。密林に帰ることになったデルスに、アルセーニエフは最新式の銃を贈った。その銃ならば視力の衰えたデルスを助けるだろうとの思いからだった。その好意がとりかえしのつかない災いを招くことになった。デルスは行きずりの強盗にその銃を奪われ、他殺死体として発見されたのだ。アルセーニエフは、冷たい土の中に埋められていくデルスのたった一人の立会い人だった。
* * *
この映画のあとで、しきりに思い出される1冊の本があります。それは「小川は川へ、川は海へ・スコット・オデール」です。こちらはアメリカが舞台です。
映像が素晴らしかったという記憶があります。
今でも時折、思い出すことがあります。
黒澤明という監督は素晴らしい監督だなあと思います。その他の映画作品のことを思っても。
リンクを貼ってあるインディアンの少女の話。アメリカは原住民を殺戮して成り立った国家だということをあらためて思い直しました。この事実から眼を背けることで、アメリカという国家は成り立っているのだと思います。その政治的、経済的な行動は、そこに原因があるのだと思う。これはこの国の深い病ではないかと思います。
デルスが夜毎アルセーニエフの息子に語った話は、母親の読みきかせより楽しい思い出だったと思います。
「アメリカは今でも黒髪の亡霊に苦しんでいるのだ。だから殺戮は続く。」と言ったのは誰だったかな?この言葉を今でも忘れません。