6日午後、上野の東京藝術大学美術館にて観てまいりました。
快晴の上野公園をぶらぶらと歩くのも、噴水を見るのも、初秋の微風のなかではなにもかも清々しい。
こんな日に「愛の画家」と言われた「シャガール」の絵画を観られるのは、なんとも幸福なことでした。
次の3連休が最終日となりますので、その前にと思いましたが予想以上に混んでいました。
しかし、行列になるほどのことはありませんでした。
「マルク・シャガール(1887~1985)」は帝政ロシア領ヴィテブスク(現ベラルーシ共和国)に生まれる。
ロシア名は「マルク・ザハロヴィチ・シャガル」。べラルーシ名は「モイシャ・ザハラヴィチ・シャガラウ 」。「モイシャ」=「モーゼ」。
故郷ヴィテブスクは人口の大部分をユダヤ人が占めているシュテトル(ユダヤ人居住区)で、シャガール自身もユダヤ系(東欧系ユダヤ人)である。
1881年~1883年、ユダヤ人に対する最初のポグロム(虐殺)がすでに始まッていました。
1907年、当時の首都サンクトペテルブルクの美術学校に入るが、同校のアカデミックな教育に満足しなかったシャガールは
やがて「レオン・バクスト」の美術学校で学ぶことになる。バクストは当時のロシア・バレエ団の衣装デザインなどを担当していた人物である。
1910年、23才でロシアからパリに出たシャガールは、モンパルナスの共同アトリエ「ラ・リッシュ(蜂の巣)」に居を定め、
そこで、画家や詩人たちとの交友を深めた。同地に集まった異国人作家たちとともに「エコール・ド・パリ」と称されることもある。
1915年に「ベラ・ローゼンフェルト」と結婚。彼女はシャガールに画家としての大きな幸福をもたらした。
第一次世界大戦中はロシアに戻り、10月革命(1917年)後のロシアでしばらく生活する。
1923年には、ベルリンを経由してふたたびパリへ戻る。
ロシア時代のシャガールの作品は「ロシア・アバンギャルド」の影響の濃いものであったが、
出国後の作品は「愛」の方への傾斜が認められる。
1941年、第二次世界大戦の勃発を受け、ナチスの迫害を避けてアメリカへ亡命した。
なお、同郷人で最初の妻ベラ・ローゼンフェルトはアメリカで病死。
1947年にパリへ戻ったシャガールは、1950年から南フランスに永住することを決意し、フランス国籍を取得している。
1952年、60歳のシャガールはユダヤ人女性「ヴァランティーヌ・ブロツキー」と再婚した。
1960年、エラスムス賞受賞。
同年、パリの新オペラ座(オペラ・ガルニエ)の天井画の依頼を受ける。これは1964年に完成している。
1967年、メトロポリタン・オペラハウスでの「魔笛」の舞台と衣裳デザイン、オペラハウスのロビーの壁画を依頼される。
これに関する作品はほとんど展示されているようです。これもポイント!
1985逝去。墓はニースに近いサン・ポール(Saint Paul)のユダヤ人墓地にある。
* * *
美術館の展示室の一角では50分ほどの、シャガールのドキュメンタリー映画が観られる。
シャガールの最初の科白がおもしろい。「私のドキュメントがおもしろいかね?」
これは、老年のシャガールの元気で辛辣な毒舌家の姿ではあるが、
その長い画家としての人生を総括してみると、多才でありたゆみない追及の繰り返しであったと思える。
我が撓んだ日々を改心した次第であります。それにしても「シャガール」って、もろもろの意味でとってもハンサム♪