ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

特別対談・詩を読む、時を眺める

2009-12-19 23:51:53 | Book
 2010年1月号の「新潮」に掲載された「大江健三郎」「古井由吉」との、20ページの対談を読みました。全文引用したいような充実した対談でした。老齢になるということは、なんと素晴らしいことだろう。しかしこのお2人がただ単に老齢を迎えたわけではありません。

 対談は「古井由吉」が2005年に出された「詩への小路・書肆山田刊」の内容に沿って展開されています。この本はすべてドイツの詩人についての作品の翻訳とエッセーです。そして後半は「ドゥイノ・エレギー訳文1~10」全文について書かれています。これらは同時に「古井由吉」が生涯に読んできた道筋を辿りなおすようなものではないかと「大江健三郎」は指摘しています。

 この「詩への小路」に沿うように、お2人の対談は進んでいました。すでに50年間の歳月を「文学」の世界で生きていらして、書き、読み、翻訳されて、それから「病」も通過され、ほぼ「老年」に入られたお2人の対談は、何1つ無駄もなく、すべての言葉がわたくしの胸に、実った果実のように落ちてくるのでした。あるいはあたたかな光のように、惑うわたくしの路を照らしてくださいました。
 
 この「詩への小路」は、この半年くらいわたくしを「ドイツ詩」に向かわせる発端となった本であり、これほどの力でわたくしの方向を決めて下さった本も稀有な事件でした。

 「古井由吉」は作家が「外国の詩」を読み、翻訳することは危険なことだと考えていらしたようでした。ご自分の日本語を失うかもしれないと思っていらしたようです。ようやく束(つか)ね束(つか)ね小説を書いてきたご自分の日本語が崩れて、指のあいだからこぼれおちてしまう恐れを感じていたようでした。
 しかし束ねるも崩れるも同時のこと、そう思われた時に「外国の詩を読んだ方が小説家としての驕りはなくなるだろう。」とお考えになったようです。

 ここで「束(つか)ね」「束(たば)ね」との違いについて、大江健三郎がその違いに気づきお話していました。「たばね」は単に集めたものを括ることであり、「つかね」は、拡散しようとしているものをこの手でひととき、留め捕まえることでしょう。そして詩人や作家の仕事というものは「壊すこと」と「構築されること」との繰り返しではないでしょうか?
 また「翻訳詩」の困難さについて「古井由吉」は、意味を理解し、それを伝えることは可能かもしれないが、「調べ」を伝えることは決してできないと、おっしゃっていました。そして多くの先達の翻訳者の仕事に向き合うことをなさったようです。


 今日はこれを中断して、午後から夜まで出かけてしまいましたので、今夜はここまでに致します。続きは数日後に。

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