不安をハッキリ言葉にすることの恵みvs悪いことを平気でやりだす呪い(エディプスの呪い)ロバートの危機が、幼児後期の「遊びの時期」の危機、「自発性(自分から物事を始めていいという感じ)」と「自分は悪い子という感じ」のどちらが勝るのか、という危機にあります。...
悪いことを平気でやる子どもに対して、どうしたらいいのでしょうか? お友達を打ったり、授業中聞いてなかったり、忘れ物が多かったり、机の中がごちゃごちゃだったり…。それに対して、私どもはどう接すればいいのでしょうか?
一番多いのは、「正しいことを教える」。なぜそのようにするのか? それは、その子どもが「『正しいこと』を知らないから、できないんだ」と言う大人の側の考えに基づいています。確かに、「どうすればいいのか分からなければ、『正しいこと』が分かれば助かる」ということもあるでしょう。食事や挨拶などマナーに関することなどは、マナーとして「正しいこと」を教えてもらえば、「正しいこと」ができる。
しかし、今の日本では、この「正しいこと」を教えても、できない子どもが、ビックリするほど多いのです。そして、その子どもは「正しいこと」は教えられる前から知っていることの方がはるかに多い。なぜでしょうか? 「『正しいこと』を知っているなら、それをやればいいじゃないの?」という声が聞こえてきそうですね。でもね、それじゃあ、伺いますが、電車の座席に座っている時に、お年寄りや赤ちゃんを抱えたり、お腹が大きい女性が居たりする場合、私どもはどうするでしょうか? 席を譲ることが「正しいこと」だとするならば、私どもはいつでもその「正しいこと」をしているでしょうか? もしできてないとするなら、どうして子どもにだけ、「正しいこと」を押し付けることができるでしょうか?
「正しいこと」を知っていても、人間はできない。倫理や心理の知識があっても、倫理的にふるまえるわけでも、子どもの心理に応える関わりができるわけでは、必ずしもないのは、なぜですか? それは、心の栄養、心的エネルギーが足りない時に、「正しいこと」を知っていても、それを行動・実践・実態化することは難しいのですね。むしろ、その方が「正しいこと」をできない場合のほとんどではないですか?
いま日本の学校でやってることは、「正しいこと」を教えるだけの段階のとどまっていることがはるかに多いですね。残念でなりません。しかし、それではあまりにも不十分! むしろ、心の栄養、心的エネルギーをプレゼントすることです。それは、その子どものことを「肯定」することなんです。「悪いこと」をしているのに、どうして「肯定」などできるかって? できますよ。doingを評価するのではなくて、beingを評価するのですね。フロムの著作でも、To Have or To Be? がありましたよね? 少なくとも、doingで子どものことを裁かない。これが大事です。
そして、最も「正しいこと」、その子どもと≪楽しむ≫ことですよ。≪楽しむ≫、楽しく遊ぶこと。≪楽しむ≫、≪楽しい≫は不思議の国のアリスちゃん。計り知れないエネルギーの源なんですね。≪楽し≫んでると、≪楽しい≫と、その子どものことを肯定してくれますし、それによって、その子どもが「正しいこと」をするだけの心の栄養ももらえるんですからね。
ですから、私は繰り返し、繰り返し次のように申し上げます。
「楽しい ≫ 正しい」
(「『楽しい』ことは、『正しい』よりも、はるかに優って正しい!!」)
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