エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

≪夢幻の神≫と≪語りかける神≫

2014-08-18 12:13:57 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 神様のお名前は、ウソとゴマカシがちょっともない、真実を示すお名前であることが分かりますね。

 p65の第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 明々白々なことですが、擬人化の原理から純粋に一神教の原理へのこの進歩によって、神の≪真の関係≫の性質は全く別物になります。アブラハムの神は、父親のように、大事にされるかもしれませんし、恐れられるかもしれません。また、ときには許してくれることもあれば、時のは怒られることもあります。それは支配の側面です。神が父親である限りは、私は子ども、ということになります。そこでは私は、全知・全能を自閉的に願う願いから十分には抜け出てしませんね。それでは、私はまだ、人間として自分の限界や、自分の無知や、自分のどうしようもなさを理解するという客観性を手に入れてはいません。私はまだ、子どものように、「助けて」、『ちゃんと見てて」、「叱ってね」とお願いをする父親を求めています。それは、従った時には「いいぞ」と言ってくれ、拍手で褒められけど、逆らうと怒る父親なんですね。自明なことですが、大多数の人は、その人個人の発達において、この幼い段階を克服していません。ですから、神に対する信頼は、ほとんどの人にとっては、助けに来てくれる父親を信頼するようなものです。それは子どもっぽい夢幻です。こういった宗教的な考えは、偉大な人類の教師によって、すなわち、少数の者によって、克服されているんですが、この考え方がいまだに宗教を支配しています。

 

 

 

 擬人化の神は、フロムは子どもっぽい段階だと否定的ですね。それはここでフロムが言う擬人化の神が、勧善懲悪の神だからだと考えます。水戸黄門と一緒だからですね。TBSさん、ごめんなさい。

 でも擬人化の神は、必ずしも、勧善懲悪の神であるとは限りませんね。≪いまここ≫を生きている神である場合もあります。「≪いまここ≫を生きている神」は、「≪いっていること≫を≪やっていること≫にする神」と同様、大人の神です。それは偶像の神とは対照的に、「言葉の神」でもあります。

 ヤーウェの神は、何よりも「言葉の神」≪語りかける神≫です。「初めに言葉があった」のですから。ですから、言葉によって、神は人と関わるんですね。でも、口先だけの神じゃぁ全くない。繰り返し申し上げていますように、≪「言ったこと」は必ず「態度で示す」 神≫なんですね。ですから、≪いまここ≫でも、神がひとりびとりの語り掛けてくださっています。それはね、言葉(ダーヴァール)=出来事(ダーヴァール)を通して。

 子どもが示す出来事を通して、大人は語りかけられていることが非常に多いんですね。ですから、≪語りかける神≫は、子どもの出来事を通して、≪語りかける神≫なんですね。

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