とくに発達とウラマの子どもたちからは、悪い良心の大人は遠ざけたい。でもこれが結構いるから困ります。
今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.263の、第2パラグラフ、下から12行目途中から。
この定式では、すべての人が、自然の力や悪霊に対して抱いてきた昔ながら怖れは、人間の心の中にある力と、内なる子ども、とに再び投影されています。その眠れるエネルギーは、悪事になったり、天使みたいにロマンチックなものになったりします。人は訓練して身に着けた良心が必要ですから、自分は悪い良心に違いないと思ったり、時にお手軽に良心が身につくと思うときには、良い良心だと思う訳ですね。こういったすべてに対する答えは、あれやこれやの悪の感じを、子ども等から失くしたり、子ども等に「ダメダァ」と言って否定したりしようとしても、ダメですよ。避けられないことを否定したって、秘密やら、手に負えない悪がいや増すだけですよ。この答えは、人間が秩序を作る力にこそあんですね。秩序を作る力があれば、子どもたちは、訓練された、しかも、我慢強い良心と、確信をもって活動できる場を手に入れることが出来ますからね。
子どもに、寛容に、忍耐強く関わることが、子どもにも、寛容で、忍耐強く関わることが出来る、素敵な良い良心をプレゼントできます。
司馬遼太郎さんが『二十一世紀にいきる君たちへ』で言っていることと同じです。
子どもが、良い良心がプレゼントされれば、神様以外は、何物も恐れずに、確信をもって活動できる場も出来ますからね。
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