受け身のなることは、女性が赤ちゃんを授かるのと、似ています。
Young Man Luther 『青年ルター』p207の第3パラグラフ下から4行目途中から。
しかし、男性が受け身の態度や受け身の感じ方を女性的だと呼ぶのは、男性中心主義の緊張のために、受け身の態度や感じ方を、遠ざけてきたからなんですね。というのも、このような受け身の感じ方は、どんな人間でも、生まれながらに持っているものですし、私どもの、部分的な、あるいは、全体的な働きがよって立つのは、受け身であることと能動的であることを受けとめ受け入れることなんですね。男性的な人の常として、自分はたたき上げだ、という格好をしたがります。あるいは、とにかく、優しい女性から自分が生まれたとは思いたがりません。たくさんな思春期の儀式(アメリカの南西部の、キヴァ[地下聖堂での儀式]からの再生を考えてみてください)は、スピリチュアルな母親から、男性だけが理解できる種類の人間が、新たに生まれることを演劇化するものです。
人間が心の病から回復する時、あるいは、ルターのように宗教的回心を経験する時、それは、スビリチャアルな母親から、自分が新たに生まれ変わることとして経験されます。自分が自分を生み出すのではありません。英語でははっきりしますが、生まれるのは常に受動態、私は命を授かった、I was born.... という訳ですね。
逆に言うと、受け身のなることなしには、心の病気からの快復も、宗教的な回心も、ない、ということです。
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