公平であることは、人を大事にすることではない、ということでしたね。
p120第3パラグラフ。
しかしながら、ここで大事な問いが出てきます。社会的組織、経済的組織全体がそのそれぞれの組織自体の利益を求める事に基づいているとするなら、そのそれぞれが、公平の原理だけが調整した利己主義によって治められているなら、ビジネスはどうやったらいいのでしょうか? 既存の社会の枠組みの中でどのように活動しながら、人を大事にするのでしょうか? 公平の原理だけなら、最も貧しい人たちの暮らしに対する世俗的な関心や分かち合いすべてをあきらめることを意味するのではないのかな? こういった問いが、根源的なやり方で、問われ、答えが与えられたのは、、キリスト教の修道士やら、トルストイ、アルベルト・シュヴァイツェル、シモーヌ・ヴェイユのような人たちによってでした。
公平の原理だけだと、そこから出てくるのは、「自己責任」という話くらいでしょうね。貧乏でも、自殺しても、子どもが「悪い子」でも、「自己責任」。「あの人たちがいけないんで、私には何のかかわりもございません」「ご近所には来ないでね」くらいでしょうね。
公平の原理で対処できるのは、人間の生活のごく一部。それは市場で取引されるものが、ごく一部であるのと一緒です。宇沢弘文教授がかねてから主張しているように、社会的公共資本、教育、福祉、医療などは市場原理に任せてはならないんですね。それらは、人間らしい暮らしにはなくてはならないからです。
ですから、公平の原理は、それが適応可能な狭い領域に限定しないといけない。そうでないと、人間らしい暮らしが壊されるばかりではなく、人間らしい暮らしを支える基本的視点、人権の視点や、他者感覚までも、失うことになっちゃうからですね。
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