私は、加藤周一さんの文書が好きなので、今宵も、加藤周一さんの言葉から学びます。
いま、朝の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」で、第二次世界大戦下の東京目黒の様子が出てきます。みんなが家族や自分などの「死」が身近なものとなり、追い詰められ、人にもつらく当たらざるを得ない様子の一端が出てきますでしょ。すると、それじゃなくても、「口開けば、唇寒し」の事情がある日本人の在り方が、より一層、「言わない方が、得」ということになりがちになってますね。
加藤周一さんは、医者としてたまたま兵役を逃れて、東大病院で医者をしながら、フランス文学なども学んでいたころを回想した文書からです。『羊の歌 我が回想』(岩波新書)から。
しかし私が一番強い影響を受けたのは、おそらく、戦争中の日本国に天から降ってきたような渡辺一夫助教授からであったにちがいない。渡辺先生は、軍国主義的な周囲に反発して遠いフランスの文化をあまりによく知りすぎていたし、また日本の社会にあまりに深く関わっていた。日本の社会の、そのみにくさの一切のさらけ出された中で、生きながら、同時にそのことの意味を、より大きな世界と歴史のなかで、見定めようとしていたのであり、自分自身と周囲を、内側からと同時に外側から、「天狼星の高みから」さえも、眺めようとしていたのであろう。それはほとんど幕末の先覚者たちに似ていた。攘夷の不可能を見抜き、鎖国の時代錯誤を熟知し、わが国の「遅れ」を単に技術の面だけではなく、伝統的な教育とものの考え方そのものに認めて、その淵源を日本国の歴史のなかにもとめ…もしその抜くべからざる精神が、私たちの側にあって、絶えず「狂気」を『狂気」とよび、「時代錯誤」を「時代錯誤」とよびつづけるということがなかったら、果たして私が、ながいいくさの間を通して、とにかく正気をたもちつづけることがてきたかどうか、大いに疑わしい。
あんなに明晰な頭脳の持ち主である加藤周一さんをして「正気をたもちつづけることがてきたかどうか、大いに疑わしい」と言わしめた、戦争の狂気を思います。しかし、渡辺一夫助教授のような、透徹した「覚めた精神」の持ち主に接することの幸いも思う訳ですね。
その戦争前夜の様な日本でも、そのような透徹した「覚めた精神」に触れ続けることの意味を噛みしめていたいものです。
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