自分を確かにできていない人に限って、「人間を上下2つに分けるウソ」を盲信するようになるんですね。なぜなら、そのウソにたよって、「上」になる時の気分には、麻薬やドラックのような、怪しい力があるからです。
今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.259の、第3パラグラフから。
すでに3つの危機について簡単に触れてきましたが、自分を確かにさせる危機の後の危機です。この3つの危機は、親しみのある関わり、次の世代を育てること、まとめる力、に関係があります。修道士の親しみのある関わりの危機は、異性愛の核心にゆがみが生じてくる、ということになるのも人情ですね。自分を確かにできずに混乱することが、自分を確かにさせることの、身代わりになったり、自分を確かにさせることが危険にさらされていることになるように、一人ぼっちであることが、親しみのある関わりにとって、身代わりになったり、親しみのある関係が結べない危険であるのと同じです。修道士にあっては、一人ぼっちであることは、特定の決まりの中心テーマでもあります。というのも、修道士は、故意に集団で一人ぼっちになることを求めるものですし、あらゆる親しみのある関係を、祈りと告白に捧げるものですからね。
一人ぼっちであることには、普通人が考える以上の価値がありますよね。一人ぼっちは、猛毒にもなれば、宝の塊にもなるからですね。宝の塊の方は、意外に忘れられがちです。修道院は、その宝の塊の方を意図的に願った、宗教的組織と言えるでしょう。
ナゾナゾの答え= 一人ぼっち
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