「そんなことをやっている場合なのか?」先月末の朝日新聞(2014,9,25 12版▲13ページ)の論壇時評の横に、小熊英二が「そんなことをしている場合か?」と題する評論を載せています。小熊...
私事から始めます。ゴメンナサイね。私は生まれも育ち国立市谷保です。野暮ったいの語源になっている谷保(通常、「やほ」と読ませていますが、地元では、あるいは、本来は、「やぼ」と、「ほ」を濁らせて読みます)生まれ、谷保育ち。お寺は、鎌倉建長寺の流れにある、永福寺(ようふくじ)です。建長寺派の臨済宗になります。臨済宗は、道元禅師が開いた福井県は永平寺(えいへいじ)の曹洞宗、などと同じ、禅宗です。
先日のブログでも、東洋大学総長の武村牧夫先生の6回シリーズ「信と行」も、非常に優れた仏教の学びの機会であったことを、ご報告しましたよね(自由がなければ、人間ではない!)。ブログのタイトルにもなった、鈴木大拙の「自由がなければ、人間ではない」という言葉が、非常に印象的でしたね。
また、こころの時代で、禅僧で、花園大学教授の安永祖堂(やすなが そどう)さんのお話を伺いまして、深い教えを戴きました。まさに「禅とは、臨床心理学(ユング心理学、あるいは、エリクソンが教えてくれているライフサイクルの心理学)の実習だなぁ」と感じましたので、その所を皆さんにシェアしたいと考えました。
鈴木大拙が「自由」を大事にしていた話を、前のブログでも記しました。「自由」とは「自らを由って来る所とする」、あるいは、「自らに由る」ということだそうですね。安永祖堂さんも、同様に、そのように指摘します。しかし、この自由とは、もともと禅の言葉だと言います。私は知りませんでしたね。さらに、「本当の自分を拠り所として生きていく、それが、真の自由だ」とするのが、禅の教えているところだそうです。これはまさに、アイデンティティと呼ばれている「自分を確かにする」ことと全く同じだと感じますね。河合隼雄先生が、「自分が仏教徒だと分かった」と言ったことの本当の意味を初めて理解できた感じもしましたね。
安永祖堂さんは、「神仏を頼りにする人は、弱い人と思われがちですね」と言います。そして、言葉を重ねます。「でも、どうでしょう? ... 私たちは何かを拠り所として、生きているのではないはないでしょうか?」と。そうですよね、お金だったり、会社での地位だったり、学歴だったり、あるいは、家族だったり、仕事だったり…。人によって、何を拠り所に生きるのか? は、いろいろですね。安永祖堂さんは、「仏教は、自由、本当の自分を拠り所にして生きて生きましょうよ」と呼びかけます、と仰せです。私は、家こそ臨済宗ですが、仏教徒ではありません。しかし、安永祖堂さんとご一緒に、「自由に、本当の自分を拠り所にして生きて生きましょうよ」と静かに唱えたいと感じましたね。
最後に、安永祖堂さんがご紹介下すった、盤珪和尚(盤珪永琢[ばんけい ようたく、あるいは、ばんけい えいたく])のエヒソードを一つ。
お江戸の昔、姫路の龍門寺(りょうもんじ)に盤珪和尚という人がおった。その寺の近くに眼が不自由な爺さんがおったとさ。その爺さんはよく言っとった。「わしゃぁ、眼が見えんから、人の言葉を耳で聴く、人の言葉は不思議なもので、言っている響きと言葉が同じじゃない場合がある。隣の家に目出度いことがあると、たいていの人は『良かったねぇ』と言うが、その言葉の響きが嫉妬に聞こえることがある。隣の家に不幸があれば、『お気の毒に』と言うが、その言葉の響きが『自分じゃなくて良かった』という安心に聞こえることがある。人間とは、言ってることと本音が裏腹なもんだが、あの盤珪和尚は、不思議なお方、『良かったねぇ』と言えば、『良かったねぇ』としか聞こえず、『お気の毒に』と言やぁ、『お気の毒に』としか聞こえない。不思議なお方」
本当の自分に生きていると、自己一致、共感的理解、無条件の肯定的配慮が行き届く「無」を実現します。現成公案(げんじょうこうあん、日常生活そのものが公案になる、というのがおおよその意味)、日常生活の≪いまここ≫で、セラピーが可能になります。
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