まともな礼拝、人類を超えた、≪超越≫の価値に開かれた、やり取りのある人間関係にこそ、組織に対する偶像崇拝とお役所仕事と安倍政権の偏屈を打ち破ります。
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このような条件下では、本物の礼拝をすることを通して、創造性豊かに生きることが、ある場所では、強迫的なほど几帳面さに支配された、儀式的に細々したことに心奪われてしまうことになることがよくあります。強迫的なほどに几帳面ですと、新鮮さと若々しさが死んでしまいがちですが、この新鮮さと若々しさこそが、発見が習慣になる、イキイキした生活には不可欠のものなのです。ここで、偉大なる民族の中の創造性豊かな生き方が、ヤーウェの神のお名前においては、どれだけ完全に宗教の体系の中に、1つにされてきたのか、という方がおられるかもわかりません。ヤーウェの神が聖なる方だいうことが、あらゆる礼拝のテーマと共に、どんだけ表現芸術の主題をすぐにでも禁じてしまうことになるのか、という事実だけでも考えていただきたい。そして、他の民族の芸術が、まさに神のイメージに花を咲かせる時に、これを禁じるんですね。同様に、音楽の演奏や詩や物語までもが、宗教的な主題に限定されます。毎日の礼拝や、年に一度の礼拝は、この時、その言葉が聖書の記述にあるのかを確かめることと、その言葉の解釈をああでもないこうでもないと細々と求めることが、主たる関心になってしまいます。
発見が習慣の、イキイキ、キラキラした生活も、「それをしなくちゃならない」ことと強迫的に思うと、堅苦しいものになってしまいます。陽気で楽しいが死にます。そうすると最初に委縮するのが、芸術です。芸術の主題が、絵画や音楽や詩や物語の主題が、宗教的なものに限定されてしまう。まるで、第二次世界大戦の時に、日本では、戦争協力、天皇崇拝のみが、映画や物語や音楽や詩(まど・みちおさんまでもが、戦争協力詩を…)のテーマとして強制されたのと同じです。
スピリチュアルで満たされると、嬉しくて嬉しくて、「そうしたくてたまらないこと」も、いったん形が決まると、そのスピリチュアルな命は失われがちで、形ばかりが「そうせねばならないこと」になってしまいがち。
ですから、私どもは、形よりも、スピリチュアルな精神を何よりも大事にしたいものですね。
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