自分のことはいったん脇に置いとくと、見えてくるもの他者の「声なき声」に応えるためには、日ごろから自分自身の「声なき声」である、静かな小さい声に聴き従っていることが必要です。今日はp27 L4から。...
人は自己中心的になりやすい。でも、自分の心の傷に気付かないで過ごしているから、いつの間にか、その心の傷にくっ付いている、悲しみや怒りや憎しみなんかが、知らないうちに悪さをするんですね。そんな気持ちに、いつの間にか心が支配されているから、自己中心の罠から自由になれない。
逆に言ったら、自分の心の傷に気付いて、その手当をしてもらうと良い。それにはいろんな方法があります。カウンセリングや心理療法、あるいは、念仏や座禅もいいでしょう。瞑想やお祈りもいい。でもね、自分一人じゃぁ出来ないところが不思議なところですね。と同時に、心の底からの悦びの源でもあります。
えっ、と思う人もいるかもしれませんよね。カウンセリングや心理療法なら、カウンセラーやセラピストがいるから分かる。でもね、念仏や座禅、瞑想やお祈りは1人でやるんじゃないのかしらね、と思うかもわかりません。でもね、果たして本当にそうでしょうか?
たとえば、瞑想やお祈り。でも、その本当の姿を知らない人は、それが、「家族が健康でいられますように」だとか、「東大に合格しますように」だとか、「年末ジャンボが当たりますように」だとか、自分や人のお願いを言うものだ、と思っているかもしれません。そういう場合が0とは言いません。でもね、そういうのは、ホントの瞑想でも、ホントのお祈りでもない。
ユダヤの最も身近なお祈りは、ヘブライ語で「シェマー・イスラエル」、すなわち、「聴け、イスラエルよ」です。「旧約聖書」の「申命記」第6章4節に出てきます。本当に瞑想やお祈りをしていますとね、小さな声が聴こえてきます。別に幻聴ではないんですよ。語りかけて下さる存在が、心の、静かな、深いところにおられる。人間はそういう風にできているみたい。それはね、特別なことじゃない。そして、それは、日々の生活を、平安と深い喜びに満ちたものにする源です。
そして、私はまた、ハタと思うんですね。
「この小さな声は、誰にも 聴こえる声ではないかと思う」(『後世への最大遺物』のヴァリエーションです)。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます