「攻撃性」の賜物とやり取りの範囲とルールなど子どもの時期が厳しく苛酷な時期になりやすいことを意識して、子どもと関わることが大事であることが分かりました。また、遊びの目的が、やり取りをするためであるこ...
イマドキの日本のシキタリ。今日のエリクソンに学ぶのなら、子どもの手を振り払うのがイマドキなのでしょうか?
というのも、今の日本では、極端に “あそび“ と言う名のゆとりが足りないからです。ですから、子どもが手を伸ばしている時にも、家庭では、母親も父親も、その子どもが伸ばした手をにぎる者がおりません。学校では、学校の先生が大車輪で大忙し。トイレに行く時間さえない。ですから、子どもが手を伸ばしても、その手を取るものがいません。
「aggredere(「攻撃」を意味するラテン語)の、まず第一の意味は、楽しく陽気なやり取りを求めて、物や人に歩み寄ること」なのに。手を伸ばしているだけなのに。その手を取る大人がいないんです。
大人に “あそび” がないからです。その手を伸ばすと、子どもは、「心の中では、欲求不満と激しい怒り、恥と「自分は悪い」という気持ちをすぐに経験すること」になります。
私ども大人は、何のために、この “あそび” と言う名のゆとりをなくしているんでしょうか? こどもが伸ばした手よりも大事なものが、この世の中にあるのでしょうか?
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