今晩は、ユング(Jung, C.G.)の第3夜。
昨日は、「本当の自分」を育てることは、内なる声≪天の声≫に耳を澄ませて、それに忠実に従うことだ言いますね。でも、「本当の自分」を育てる人はまれらしい。なぜなら、シキタリに従っていたのでは、「本当の自分」を育てることにならないから。≪天の声≫は、シキタリとは異なる、「新しい、素晴らしい道をおいきなさい」と薦めるから。同調主義が猛烈な日本の組織では、組織のシキタリが、猛烈でしょ。それとは別のことをしようとすれば、「出る杭は打たれる」、「村八分」、イジメられますね。多くの人は、同調することによって、自分の利益を貰いながら生きるパターンになりやすい。イジメられながら、「本当の自分」を育てるのは、損を覚悟で、しかし、その≪天の声≫の良さを信頼すればこそですね。ですから、「本当の自分」を育てるのは、意識的で、倫理的な態度だと言えますね。
でも、これは日本人のような同調主義が猛烈な組織がある社会ばかりのことじゃないらしい。なんせ、ユングは次のように言うくらいですからね。
「本当の自分を、かすかに気付いているところから、ハッキリ意識するところまで、育てることは、恵みであると同時に、呪いです」((The collected Works of C.G.Jung, Vol.17, p173)と。
何故なんでしょうか?
ユング自身がいいます。
「なぜならば、本当の自分になる、ということの最初の果実は、同調的で無意識的な人の群れから、一人の人が、意識的に離れる他ない、ということになることですから。つまり、単独になることです…本当の自分を育てることはね、大きな犠牲を払わくちゃならない賜物なんです」(同上、p.173)とね。
続けてユングは言います。
「でもね、本当の自分を育てることは、恐る恐るマムシの卵を孵したり、怖々と単独になることだけじゃぁないんですよね。それは、自分が≪いまここ≫で生きる法則に忠実に従うことなんですね。」(同上、p.173)と。
しかも、ユングは、この「忠実に従う」と今しがた訳したfidelityは、ギリシア語のピスティス πιστις 「信頼」だと言うんですね。しかも、「この言葉は、faith『信仰』と誤訳されますが、実際はtrust『信頼』、『忠実に従う』という意味なんです」(同上、p.173)と言います。ですから、ユングは続けます。
「一人の人が自分自身の道を歩もうという倫理的な決心が出来るのは、その道が一番いい道だと思う場合です。もしも、他の道の方がもっといいと思えば、その人は、自分自身になる代わりに、別の人を生き、育てることになります」。
あなたは、自分自身になる道を歩みたいですか?
それとも、自分じゃない誰かになりたいですか?
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