パレーシアにおいては、あるいは、パレーシアステスは、本当のことを話し言葉にするのは、誰に指図されたり、強要されたりしたものではなく、自発的にそうしたい、という自由においてそうするのです。それは同時に、本当のことを話し言葉にすることは、そうせずにはおられない、という意味では義務でもあるのです。自由であり義務である、というのは、表面的には二律背反・矛盾です。しかし、実践哲学と臨床心理は、常に二律背反の緊張と調和の産物ですから、このパレーシアにおいても、それは妥当性があるものになっています。
今まで申しあげてきたことをまとめますと、「パレーシア」は一種の言語活動ですが、そこでは、話し手は、率直さを通して、本当のことに対する特別な関係を手に入れ、損するかもしれない危険を通して、自分自身の人生に対して特定の関わりを手に入れ、批判(自己批判と他者批判)を通して、自分自身に対して、あるいは、他者に対して、ある種特別な関係を手に入れ、自由と義務を通して、道徳体系に対する特定の関わりを手に入れるのです。もっと正確に申し上げれば、「パレーシア」とは、1つの言語活動であって、そこでは、話し手が自分と本当のこととの関係を表現し、自分の人生を危険な目に合わせるのは、その話し手が、本当のことを話し言葉にすることが、他の人たちの暮らしを(ついでに自分の暮らしも)良くし、あるいは、支援することになる1つの義務である、ということをハッキリ理解しているからなのです。「パレーシア」においては、話し手は自分のゆとりを用いますし、くどくど説明するのではなくて、率直に語ることを、ウソと沈黙ではなくて本当のことを、暮らしと安全ではなくて死の危険を、ペチャクチャおしゃべりするよりも批判を、自分が得することや「バレなきゃ、いいや」ということではなく、「良心に従ったら、こうせずにはおれない」という方を選択するのです。
フーコーも、気持ちいいくらい頭が明晰です。パレーシアとは、毎日の生活の具体的な選択であることが、今日の件から、ハッキリとわかります。これは、エリクソンの「日常生活の儀式化」を、エリクソンとは別の角度から光をあてているのだな、と感じるほどです。
つまり、自分が手にしているゆとり(自由)を、何を選択するために用いるのか、ということと深く関わります。やり取りと人間らしい暮らしを実現するために、そのゆとり(自由)を活用したいものですね。
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