小学校の校則が、小学生の自由を認めない、厳罰主義ですと、自ずから、刑法においても、市民の自由を認めない、厳罰主義になります。別に「風が吹くと、桶屋が儲かる」話じゃぁ、ない。
The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p47の下から7行目途中から。
これに対応する儀式は、刑法制度だと分かります。刑法制度は、それぞれひとりびとりが、自分の心の中で馴染んでいるお芝居を、法廷という公の舞台で、眼に見える形にしたものです。なぜならば、法律とは、私どもはそのように思い込んでいますけれども、用心深いものだからですね。そして、あぁ、なんたることでしょうか、私どもの良心も用心深いのと同じなんですね。刑法制度と良心は、共に、私どもが自由であると宣言はしますけれども、それは、罪をとがめだてしている限りは、の話なんですね。このようにして、分別を付ける要素が、人間が心理社会的に適応することに本来備わっている要素だとなるわけですね。そして、この要素は、人間の生育歴に根差すものでもあるんですね。しかしながら、形ばかりのおざなりになる危険も、ここにある訳です。それは、お役所仕事の形ばかりのおざなりのことです。それはザル法になるか、厳罰主義になるか、のどちらかで、人が強迫的になるのに対応するお役所仕事なんですね。
お見事でしょ。実にエリクソンは深いでしょ。一人の人の心の動きと、公の刑法の制度を、文字通り、1つの舞台で展開できる人って、他に果たしているのかしらね、いないでしょ。
ここは、今の日本人の心理と、法制度を見事に言葉にしているものでもありますよね。かたや犯罪に対する厳罰主義、かたや、東電の勝俣恒久元会長らが、ドバイの高級マンションでのうのうとしてられるような、権力に対するザル法がありますもんね。それは、日本人の良心が、自罰他罰の悪い良心に侵されているけれども、情報統制が効いているので、権力に都合の悪い事実は隠ぺいされ、情報公開が遅れているので、権力が犯す犯罪がうやむやのされているから、悪い良心の他罰的態度が、権力に向かうのではなくて、マンマと、弱い犯罪者に向いている訳ですね。
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