エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

インターメッツォ : 彼岸の倫理  此岸の倫理

2016-06-17 06:05:09 | 聖書の言葉から

 

 

 

 
高橋三郎先生の「真」
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  1年前のブログの高橋三郎先生。今宵は高橋三郎先生に学ぶ倫理です。『十字架の言葉』2003年6月号、№495 第42巻第6号より。

 

 

 

 

 

パウロは注目すべき根本原則を、こう語りました。

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神のみ心であるか、何が善いことで、また完全なことであるかを、わきまえるようになりなさい」(ロマ十二2)

多くの徳目を列挙するのではなく、個々の場面に即していかに行動すべきかという判断を、各人の良心にゆだねている点が、旧約律法の場合と根本的に違っています。

 これに反して「この世」の姿は、善悪についての道徳的判断を利害得失の打算に置き換え、バレなければ何でもするという無責任な自己追及を、手放しで容認することになるのですから、貪欲と高ぶりが野放しとなり、…。

 

 

 

 

 

 キリスト教倫理は、従って、各個人が、祈りの中で神のみ心を確かめながら、主体的に判断することが、真っ当なことになりますね。それに反して、この世では、倫理は利害得失の打算に化けてしまいますから、倫理ではなくなります。バレなければ、何でも自分が仕切れる、と自分が「得」することを、傍若無人にやるようになります。それは神をも畏れぬ高ぶりです。

 あの無知無恥のすれっからしも、ご多分の漏れず、その典型です。しかし、バレちゃったから、お仕舞いです。

 

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