ヌミノースの光は人智を超える時に、本物になる≪私≫の基にヌミノースがあるのですから、人間の基本は、飛び上るほどの、心からの悦び、ということになります。まるで ”子ども” でしょ。...
内村鑑三の弟子で、高級官僚を辞して、無教会の独立伝道者になった藤井武。野村實先生も、藤井武の集会に出ていた、と聞いています。内村鑑三が1930年に69歳で亡くなって数か月後、藤井武も42歳に亡くなっています。
その藤井武は、「信仰と真実」のどちらかを選ばなければならないとしたら真実を選ぶ、と言ったそうです。私は信仰と真実はおなじこと、ビスティスだと信じて疑いませんね。
私は、ギリシア語で一番好きな言葉は、ビスティス πίστις です。「信仰」と誤訳されていますけれども、「信頼」という意味です。そのくだりを説いた山浦玄嗣さんの言葉から(『イエスの言葉 ケセン語訳』から)。婦人病で長年苦しんだ「長血の女」と言われた人が、全財産を医者に搾り取られた後に、この人なら自分を救ってくれるはずだと信頼して、イエスの服に触った。エリクソンも、「エール・レヴュウ」の論文に取り上げている聖書のエピソードです。その時、イエスは「あなたの信頼(ピスティス)があなたを救ったんですよ」と言ったと言われます。山浦玄嗣さんがこの聖書の言葉をピスティスについて、教えて下さっているところです。
ビスティスのさまざまの意味の大本は「信頼」です。…「信仰」という訳語は聖書独特の訳語だということです。聖書独特の訳語というものを私はあまり信用しません。それは聖書学者という、日本ではごく限られた小さなグループの人々が便宜上考え出した訳語であることが多くしばしば一般社会には通用しないからです。…おさな子が母親の胸にあまえるような、穏やかで、安らかで、暖かい情愛に満ちた気持ちが満ちあふれています。…イエスがいいたかったことは、この「やすらかで、安心に満ちた、身も心もゆだねる心、信頼」なのだとわたしは思います。
素晴らしいと思います。この「信頼」こそ、すべての人の、クリスチャンでも、クリスチャンでなくても、すべての人の人生と、≪本当の自分≫を支えてくれるものなんですね。エリクソンは、≪根源的信頼≫と言います。人生と≪本当の自分≫を根源的に、生死を超えて支えてくれるものだからです。
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