子どもの面接をしていると、「子どもは不思議」と思うことによく出会います。子どもは誰に教えられずとも、人間の真実を知っている、ということに繰り返し出会うからかもしれません。
先日も小学校一年生とコラージュ療法(切り貼り絵遊び)をしている時に、「子どもは不思議」と感じたんですね。というのも、この時のコラージュは、「魚や生き物を探す」というタイトルで、「自分探し」がテーマだったんですが、 その自分は「2人で探す」とこの一年生が言ったからでした。
日本人にとって馴染み深い自分探しの旅、と言えば、四国の巡礼、遍路旅でしょうか? お遍路さんがよく被る菅笠にあしらった言葉がいろいろあるそうですね。その一つに「同行二人」(どうぎょうににん)という言葉がありますね。それはお遍路さんが一人旅でも、「弘法大師さんと一緒」に巡礼をしていることを言う言葉だそうですね。この自分探しは、弘法大師さんと自分が2人一緒にする、ということでしょう。
また、何度かこのブログで取り上げていることですが、「良心」とか「意識」という言葉は、ギリシャ語を始め、ラテン語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリヤ語、ロシア語、スウェーデン語などで、「2人で共に見通す・見る」ことを意味します。つまり、良心や意識は、「2人で探す」ものだと言えるでしょう。
また、赤ちゃんの中に「私」「自分」がどうやって生成するのかを考えてみましょうね。赤ちゃんの中に「私」が生成するのは、お母さんが一年以上、昼夜を分かたぬ献身、赤ちゃんのニーズに無条件で応え続ける、という生業があって初めて可能になってくるんですね。臨床的に申し上げても、「私」はお母さんと一緒に「2人で探す」ものだと言えます。
子どもは、四国巡礼に行ったわけでもないし、ヨーロッパ諸語を習ったためしはないはずですし、ましてや臨床心理学の研鑽を積んだこともないでしょう。誰から教えられずとも、「自分」は「2人で探す」ものだ、と分かっているわけですね。そして、それができる子どもは特殊、というよりも、普通であるからこそ、その普通の子どもが自分探しは2人でするものだと分かっていることに、私どもは、繰り返し驚嘆するんですね。
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