ルターのような宗教的人間は、人生の酸いも甘いも汲み尽す意味に気付く、人智を超えた恵みを人類にプレゼントしてくれる存在みたい。
今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.261の、下から4行目途中から。
思春期の終盤の質の悪い混乱は、大人びた分別臭さや無理無理小さくまとまった感じになることが、よくあります。神様に選ばれた若者(だけ)が、自分を確かにさせる課題を森羅万象全てに広げます。他の人達は、地元やちっちゃな集団にある、バラバラな形で自分を確かにさせることでしかないものに、何とか馴染もう、嫌われないように上手くやろう、と努力することになります。神様に選ばれた青年は、信頼の課題こそ、永遠の課題だと思って、正面から取り組むのに対して、その他大勢の人達は、信頼の課題に上手く対処できませんから、「どうせ、人は当てにならないものですよ」などと否認してみたり、「信じらんな~い」と絶望してみたり、心がビョーキになったりしますね。
皆さまも、神様に選ばれた青年でありたいと思いませんか? 信頼感が豊かですから、心響く関係を様々な形で育むことができますし、人間皆兄弟と、異性や次世代や外国人や立場を異にする人達とも、なかよくやれます。
それに対して、その他もろもろは、仲間内だけ優先ですから、そこのお山のボス猿にはペコペコするけど、異性や次世代や外国人や立場を異にする人達には、「よそ者」「外人」「変人」などと言って、排除し、仲間外れにし、万里の長城を内外に作り出し、「お代はメキシコに払わせろ!」などとほざくのですね。
貴方は、どっち??
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