内村鑑三。1861年、江戸時代末期に、東京小石川で生まれ、1930年、東京は柏木、今の地番で言えば、新宿北新宿一丁目で亡くなっています。70才でした(詳しくは、鈴木範久2012『内村鑑三の人と思想』岩波書店、特に巻末の年譜をご参照あれ)。
内村と教育の関わりは、1885年、知的障害児施設、エルウィンで、知的障害児の支援員としての関わりに始まります。1991年に、今の滝乃川学園の前身の「聖三一弧女学院」を創設した石井亮一よりも早いわけですね。
しかし、内村は、「不敬事件」に象徴されるように、学校とはよっぽどご縁がなかったようですね。第一高等中学校(今の東京大学駒場キャンパス)を、事実上解雇されましたし、その後もいくつかの学校で教員として勤めましたが、長続きしたためしはありません。
ただ、1900年『聖書之研究』で筆一本で独立した後に、東京帝国大学の学生をはじめとする青年も、その集会に参加していましたし、1889年には、東京の角筈、今の地番で申し上げれば、新宿区西新宿にあった「女子独立学校」の校長になっています。ちなみに、この「女子独立学校」は、内村の弟子で、戦後、東海大学を創立した松前重義によって、その付属校、「東海大学付属望洋高等学校」となっています。
いま、内村鑑三の精神を受け継いでいる学校として、山形県小国町叶水の「基督教独立学園高等学校」、島根県江津の「キリスト教愛真高等学校」、三重県伊賀市の「愛農学園農業高等学校」があります。
これは、歴史を少し振り返ったものですが、最後に内村の教育観についても、その一部をご紹介したいと思います。
「教育は、…1人の教師が1人の生徒と信頼をもって相対する所に行われる」
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