したくてしたくてたまらないことも、しなくちゃいけないことになると、それは、精神が死んで、形ばかりが残ることになっちゃう。そうなると、中身や気持ちは二の次になって、形を整えることのみが残ってしまう。
p340の第2パラグラフ。
エルサレム神殿で、1年で最大の聖日がお祝いされるのは、まぎれもなく、人口の2倍の巡礼者たちが、礼拝で自分を≪超越≫することですし、民族が新たになる機会となることです。しかし、国中に広がったシナゴーグでの礼拝は、聖書の文字にますます囚われてしまって、日々のお祈りも、週ごとのお祈りも、「自分が正しい」と言い建てる機会に(イエスが指摘していたように)なっていました。そういった条件下では、「〇〇主義」が、みんながやる振る舞い方になります。実際に、「安息日」主義があります。おしなべてこういったことすべては、習慣で厳格に決められていることに対する関心が、その大本では何が価値があったのか、ということよりも長く生き延びた、あらゆる習慣に潜在的に見当たるものなんですね。
精神、何が大事か、ということが忘れられて、形式だけが生き延びるとき、その形骸化した習慣のことを、エリクソンは述べているんですね。
昔、『日本の思想』の中で、丸山眞男教授が、口角泡を飛ばすかのように、述べていたことがありました。それは、
「問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度に対する人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば、日本国家の認識論的構造にある」
と。
丸山眞男教授のこの言葉は、日本社会にとって、今でも非常に大事な御指摘です。
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