心の根っこにある傾向は変えられるの?
鋭い政治学者ハンナ・アーレントならではの、鋭い現実認識がエリクソンによって紹介されました。それを受けて、今度はエリクソンの鋭い現実認識が示されます。それでは翻訳です。...
ウソとゴマカシが、想像力を源にしていること、特に物語(シナリオ)を想像することに基づいている、という、ハンナ・アーレントの指摘は見事ですね。しかも、この物語を想像することは、人間の心の根っこにある傾向だとも。それじゃあ、人間が生きている限り、ウソとゴマカシはなくならないのか?
昨年の今日のエリクソンは、ニューヨークタイムズ誌の政治記者トム・ウィッカーの言葉も紹介していますね。それは、「戦争の仕掛け人たちは、(戦争を)もはや戦争として見るのではなく、外国に行ってやるゲームとして見ている感じです。彼らにとっては、戦争で使う爆弾は、単なる合図であり、戦争がもたらす死は、人の命とは何の関係もありません。」というものでした。これを読むと、この戦争の仕掛け人たちには、想像力が欠けている、という感じがひどくしますね。
一方で、ウソとゴマカシは、想像力の産物であるはずなのに、トム・ウィッカーが指摘する戦争を仕掛けるものの、安倍晋三首相もその一人でしょうけれども、ウソとゴマカシが想像力の欠如の産物にもなっている。それはいったいどういうことなのか?
想像力は、妄想にもなりますね。ありもしないことを、自分に都合よくあれこれ考えていくことですね。まさに集団自衛権を行使するケースとして最近話題になったことなど、この種の妄想の典型でしょう。そこにはリアリティがありません。「これはほんとだな」という感じがないのです。それは、眼の前の現実から目をそらし、無視しているだけではなくて、腰が引け、逃げている感じがあります。腰が引け、逃げているのですから、眼の前の現実とその人の関係が、不誠実そのものですね。ですから、「ウソくさい」!
他方、想像力には、眼には見えないけれども、相手の立場に立ってみたり、相手の身になって考える、という要素もありますね。これはまさに、フロムが、≪真の関係≫と呼んでいることにほかなりませんね。その時の想像力は、現実をハッキリ見て知ると同時に、相手に対する慈しみ、思いやりに満ちた感じが強くしますよね。ですから、そのような想像力とそれに基づく発言と行動は、「これは本物だ」という感じが必ずいたします。
もうお分かりだと思います。前者は「私とは関わり合いございません」というような、相手の横を通り過ぎるような「傍観者的」な想像力だとすれば、後者は、「他人事とは思えません」というような、相手に関わりあう、相手の現実に参加する想像力ですね。こう書いてくると、「よきサマリア人」のたとえに出てくる、道に倒れている人を見捨てた、宗教的・政治的指導者である祭司や、名門であるレビ人の想像力が前者で、道に倒れている人を助けたサマリア人の想像力が後者だ、ということになるでしょう。
私どもは、いつでも、人の身になる、弱い立場の人の味方になる、想像力を、意識して、働かせていたいものです。
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