≪私≫は、ゆとり、遊びから生まれます。
Young Man Luther 『青年ルター』p216の第2パラグラフの 下から13行目途中から。
良心の「ねばならない」ことは、少しくらい犠牲を払ったり、罪滅ぼしをしたりしたって、満足させることなどできません。それは、いつでも全人格的な行為のままでなくてはならないんですね。ルターはこのようにして、自分の言葉で、フロイトが心理学的に定式化したことを言っています。すなわち、衝動に駆られたり、「あるいは」、正しかったりするのは、表向きだけで、心の深いところで私どもが空しくなるのは、私どもが一番正しい時ですし、悪い良心は、いつだって、まさに働いてるのが分かるのは、私どもが一番、性欲や欲に駆られている時です。しかし、(神学的に申し上げれば)同じ内側の心の状態によって、神様は、ありえない性格であることを免れました。その神様の性格の故に、マルティンは、自分自身をずっと許せませんでした。すなわち、父なる神は、立派な瞬間にしかいないという性質でしたから。永遠に父なる神は存在すべきだとはなりませんでした。自我にとっては、永遠とはいつでも≪いまここ≫のことなんですね。
これは、よくあるパターンなんですね。人は自分が立派な時にだけ許されると感じやすい。手柄を自分の物としたいからですね。しかし、それでは、心からの安心できません。人が自分を立派に思える瞬間は、文字通り瞬間で、瞬く間に終わりになってしまうからですね。しかし、マルティンは、いつでも神様は、すぐ近くにおられることに気付けました。それで心からの「あんし~ん」を手に入れることができた、という訳ですね。
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