根源的信頼感は、赤ちゃんの時の発達危機で、良い音色が響きあう時空を経験すると、身に着けることができます。今の日本では、赤ちゃんの時の、この発達危機が乗り越えられていないケースが、余りにも多い、ということが、日本が非常に貧しい社会であることをハッキリ私どもに示してくれるものです。それは、もう個人の危機と言うレベルをはるかに超えています。社会の根源的危機ですね。図体だけは大きくなりますが(愛着障害が強いと、図体まで小さくなる)、心は、中身は、魂は、いつまでも赤ちゃんです。今の日本は、内閣総理大臣(あの方は、各方面に「ご理解を得られるように努力してまいりたい」と言うけれども、弱い立場の各方面を自分からは、一向に理解しようとしませんでしょ。これは赤ちゃんの特徴です。)を含めて、赤ちゃんだらけの社会です。そのことを、そのことの危険性を、そのことがいかに危機的であるかということを、自覚して私どもは暮らしていかなくちゃあ、なりませんね。
今日はp37後半。
8歳半から10歳になる以前の、ほとんどの子どもたちにとって、アンテナを立てているのは、自分が≪真の関係≫の中で大事にされているかどうか、ってことだけです。このくらいの年齢になるまでの子どもは、まだ≪真の関係≫の中で人を大事にすることなどありません。その子どもが「ありがとう」という気持ちで、楽しそうに応えるのは、自分が≪真の関係≫の中で大事にされることに対してだけなんですね。子どもの発達の視点から申し上げれば、新しい要素が子どものイメージに加わります。つまりそれは、自分の活動によって、≪真の関係≫の中で自分が大事にされることができる、という新たな気持ちです。初めてその子どもは、なにがしかのものをお母さんに(あるいは、お父さんに)与えることを考えるようになりますし、なにがしかの、詩や絵や何かを作り出すことを考えるようになります。この時期の子どもにとって、はじめて、≪真の関係≫の中で大事にされるという考えが、自分が大事にされることから、人を大事にすることへ、人を育てるために、人を大事にすることへと、変わります。≪真の関係≫の中で大事にすることが、最初の段階から円熟味を帯びるまではなるには、何年も何年もかかります。結局その子どもが、青年にでもなれば、自己中心を克服できます。つまり、他の人は、もはや、自分のニーズを満たしてくれる単なる手段ではなくなります。この段になってようやく、他の人たちのニーズは、自分自身のニーズと同様に大事になります。いいえ、実際には、他の人たちは自分よりも大事になります。与えることが 自分が貰ったり、自分が大事にされるよりも、満足なことになりますし、より楽しいことになります。≪真の関係≫の中で自分が他者を大事にすることによって、一人ぼっちで、相手にされないという牢獄から抜け出せるのです。この牢獄は、自己愛と自己中の状態ですと、いつまで経っても、抜け出すこともままなりません。その(牢獄を抜け出した)子どもは、新たな連帯、分かち合い、一体感を感じます。それだけじゃなくて、≪真の関係≫の中で他者を大事にすることによって、≪真の関係≫を作り出す可能性まで感じます。しかも、相手を大事にするのは、相手の人がちっちゃくて、寄る辺なく、病んでいるか、あるいは≪素敵≫だからなんです。もはや、≪真の関係≫中で大事にされることによって、受け入れてもらうことになど、頼らなくなります。ヨチヨチ歩きの≪人を大事にする≫が従う原理は、「私が≪真の関係≫で、人を大事にするのは、自分が≪真の関係≫に中で大事にされたから」ということです。大人になった≪人を大事のする≫が従う原理は、「私が≪真の関係≫の中で自分が大事にされるのは、私が≪真の関係≫で大事にするから」ということです。未熟な状態で人を大事にしている人は「私が≪真の関係≫であなたを大事にするのは、あなたが必要だから」と言うのです。酸いも甘いも知る人は、「私があなたが必要なのは、私が≪真の関係≫」の中であなたを大事に思っているからなんです」と言います。
人は満たされて初めて、人を大事にすることができますし、周りを見ることもできるようになるんですね。満たされないうちは、ルールを守ることも、クラスの中で授業を聴くことも、行事予定を共有することも、思い出を共に語り合うことも、できません。
人は大事にされた分しか、人を大事にすることなどできません。これが、決して一人の例外もない、人生の黄金律なんです。
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