エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

光の約束

2013-08-24 02:05:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 イメージ、視覚的な記憶が癒しを試みるも同然だということは、グッドニュースでしたね。視覚、見る力は、いろいろな感覚情報や概念、理念を統合する力があるようですね。

 今日はそういった議論の続きです。

 

 

 

 

 

 結局、私どもの関心を引き付けずにおかないのは、この夢が2枚の「壁にかかったヴィジョン」に、特に、私どもが見てきた「受胎告知」と同じ宗教的文脈に属する1枚の絵に導いてくれたことです。この2つの絵は、どこか同じ美術館に展示されれば、とても良いでしょうね。夢が導いてくれた2つのヴィジョンの中に、私どもが見て知ることができるのは、ここで私どもの関心を引き付ける、自我にある特別な傾向が働いている、ということです。つまり、それは、世の中に対するものの見方とやり取りするなかで、自分を自分の時空の中に方向付ける力です。この力があればこそ、様々な経験を組立て、意味付けることができるのです。まぎれもなく明らかなことですが、この患者が「割礼」の絵という極端なイメージに対して、トラウマ反応を示したことは、この女性が子どものキリストに自分を一体化しがちなことを同時に示す、ということです。しかも、それは、キリストの子どもの頃の苦境においてと、それから実際に、キリストが生と死によって示された、苦難に対する完全なヴィジョンとにおいて、彼女は子どものキリストと一体化しがちだったことになります。この女性が不安障害になったことも、この一体化が、不合理な面を持ちながらも、ひどく自分を痛めつけるヴィジョンになっていた、という事実を同時に示していたのです。彼女は、青年期も終わりになるころ、このヴィジョンパリ市民の雰囲気に開花したもう1つのヴィジョンと強烈にぶつかり合ったのです。つまり、性的に誘惑することに、体を露わにし、体をのぞき見して、満足するヴィジョンとの葛藤が強くなったのでした。こういった共存するヴィジョンが、代わり番こに、2つの相容れない自分を確かにする道(アイデンティティ)を示すことによって、彼女の混乱を強めていたのです。彼女の広場恐怖症は、彼女を患者にすることによって、この葛藤を解消していたのです。しかし、精神分析の治療を約束することによって、第3のヴィジョン、すなわち、の約束に、性と魂を取り持つものとして、道を開くことになったのでした。この夢のスクリーンの上でこのように遊んだことに含まれたユーモアと芸術的効果によって明らかになったことは、無意識の手強い力だけではなくて、この夢を見た人が特別に豊かに言語能力を持っていることでしたし、また、ハッキリ示させたのは、この新しい女性が、子どもの頃に縛られていたものから、精神分析によって、自由になって、誕生するでしょう(を見るでしょう)ということですし、自由に行動して、自分の周りを見ることができるようになって、自分のいろいろな才能を活用できるでしょう、ということです。このようにして、古くからのキリスト教のヴィジョンと現代的なフランスのヴィジョンに、さらにフロイト版の光が付け加えられたのでした。

 

 

 

 

 ほんの短い夢から、これだけのことが明らかになるのですから、心理面接は実に奥が深いといわねばならないでしょう。この女性の患者は、自分が幼いときに、小児科医の父親から尿道にカテーテルを入れられたことがトラウマになっていただけではなかったのでした。それがトラウマになったことには、キリスト教の苦難の神義論(苦しみを受けるのは、単なる罰を受けるのではなくて、人の価値を認めることに繋がるものと見なす、物の見方)のイメージと結びつけばこそ、トラウマになった、と考えられるのでした。また、女性性を開放するパリ市民のヴィジョンが、この患者の夢に読み取れました。彼女はこの2つのヴィジョンが矛盾しているように見えたので、無意識裏に広場恐怖症になって、この葛藤があらわになりやすいところには、出かけられなくなったわけです。精神分析をする約束が、まさに、この葛藤していたヴィジョンを統合する、光の役割を果たしたのでした。

 約束こそ、ヴィジョンなのです。

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