ルターは悪魔の仕業をさまざまに想像して、疑い深い人だったようですね。それに、すぐに「他人のせいにする」タイプだったようですね。ちょっと、キリスト者として最低の部類でしょう。
こういったことすべては、とても便利なのは、あなたの良心と理性がまだ幼稚で「ウソ」まみれで、何でも見て見ぬふりができるのです。良心や理性が育ちすぎても、ルターを煩わせる、良心の呵責が出ます。すなわち、自分が良心的できないときに、いや、それほど良心的ではないときに、どうしたら自分を悩ませていることを自分が願ったり、唆されたりしていることが分かるだろうか、ということです。あるいは、逆に、とっても良心的な場合がまれにある時、強烈に警戒して、良い良心に満ち満ちている時、この善良すぎることが、幻、すなわち、悪魔の蜃気楼でないと、どうやって分かるのだろうか、ということです。
良心がないのは困ります。今の日本のように、これだけ「ウソとゴマカシ」が蔓延すれば、何を信じていいのかわかりません。文字通り、食べるのも怖い、泊まるのも怖い、乗り物に乗るのも怖い、という状況になりますでしょう。しかし、善良すぎるのも問題です。ちょっと生きた心地がしないくらい、息苦しいでしょうね。どっちにしても、生きづらい、窒息するでしょう。
ちょうどいい加減とは、どの当たりなのでしょうか?
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