神を信頼する西洋に対して、東洋は、神と一体といることを重視します。
p75の第2パラグラフ。
私どもはここで、両親を≪大事にする≫思いと、神を≪大事にする≫思いの間に重要な類似点があることに立ち返ることができます。子どもは、自分の母親に、「あらゆることの基盤」として触り続けることができるから、一歩を踏み出すんですね。その子は、頼りなく感じたら、母親からすべてを包み込むように大事にされたいと感じます。その次に、子どもは父親を、自分の好意の新しい対象にします。その父親は、自分の考え方や振る舞い方に対する指針です。この段階では、子どもは父親に褒めてもらいたいと思うことと、父親を不快にすることは止めておこうと思うことが動機になります。この段階が十分に満ちると、子どもは、母親は自分を守ってくれる人で、父親は自分に指示する人、ということから自分自身を自由にします。すなわち、この子どもは自分自身の中に、母やる指針と父なる指針を確立します。その子は自分自身の父親、自分自身の母親になります。「自分」が父親であり、母親であるんですね。人類の歴史において、同じ発達があることが分かります(し、期待します)。はじめは、1人の母やる女神に対して寄る辺なき愛着として、神を≪大事にする≫段階から始まり、1人の父なる神に従順に従う段階を経て、神が外側にいることを止めて、「愛と義」の指針を自分自身に取り込む大人の段階に至るまで、そして、最後は、神は、詩的に、象徴的な意味でしか語りえない段階に至ります。
神に対する姿勢は、一人の人の発達と、人類史の中の発達は同じです。進化論で言う、「個体発生は、系統発生を繰り返す」っていう、あれですね。この視点でも、フロムはエリクソンと同じなんですね。面白い。
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