眼の光を失っても、心の中に光があることを発見した時の悦び、どれほど飛上がらんばかりの悦びであったろうと思います。
p330の第2パラグラフ。
しかし、このヌミノースの光がなくなったように見えるのは、このヌミノースの光が自分自身のためにだけ熱心に集中する場合です。それはまるで、一つの光がお互いに照らすように頼まれているかのようです。道理で、辞書にこのことは載っていない。私の眼の前に一冊の心理学辞典がありますが、それには≪私≫さえ載ってない。その代わりに、私の類語辞典には、まず、「一人称代名詞」とあり、次に、「スピリチュアルな人格」となって、その間のことにはまったく触れていません。
≪私≫って、実に不思議ですね。一番ハッキリしているようで、それでいて、掴み処がない。二律背反であるのは、それだけ臨床的、実存的だからです。でも辞書にさえ載ってない。当たり前すぎて、意識の対象になりにくいからですね。
エリクソンは、第一に、父親を知らなかったこと、第2に、デンマーク語からドイツ語、ドイツ語から英語と言葉を換えたこと、第3に、ユダヤ教からキリスト教に変わったこと、第4に、ユダヤ人であるがゆえに、ナチスに追われたことなどから、≪私≫=自分を確かにすることが、他の人と比べられないくらい、大事になったからこそ、≪私≫に対する意識が非常に高かったのだ、と考えられます。
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