儀式の再生が求められる時代「正しい行為」によって「良し」とするのは、なにも中世のキリスト教の専売特許じゃぁありませんね。今の日本の学校でも「正しい行為」によって、「良し」とする傾向が甚...
ここでは、まだ、ヴァン・デ・コーク教授は、はっきりとは言ってませんけれども、発達トラウマがあると、依存症の人みたいに、脳が変化して元に戻りませんから、発達トラウマを完全に治療することはできません。かなり良くなるケースは現実に、ありますから、そんなに心配せずとも大丈夫ですけどね。
でもよく考えたら、慢性の病はおしなべて、100%の回復は望めないものですけれども、かなり善い状態にすることはできますもんね。発達トラウマも、慢性期の病と同じです。
ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第14章 Languare : Miracle and Tyranny「言葉 :奇跡も残虐も(、もたらすもの)」p.239のブランク後の、第2パラグラフ。
自分自身ではない気持ちを言葉にすることは、死ぬほど難しい。「眼の前にあるもの」を分かち合うことに最初に関わる言葉は、心の中の気持ち、すなわち内省を伝えるものじゃないですね(脳の言語野は、また、自分自身を体験する中枢からかなり離れているけれども、地理的にはつながるかも、です)。私どもはたいてい、他の人のことを描く方が、自分を描くよりも、難しいものですね。私はその昔、バーヴァード大学の心理学者のジェローム・ケーガン先生が仰ったことを聴いたことがあります。「自分の一番個人的な経験を描く、という仕事は、薄皮のミトンを手に付けながら、小さな壊れやすい結晶を拾い出すために、深井戸に手を深く入れるようなものです」と。
内省する言葉は、眼の前にあることを言葉にすることと違うらしい。内省には内省に相応しい言葉があります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます