ルターは博士号をとっても、司祭に叙階されても、その実存的不安を解消することにはならなかったのでした。聖歌隊での発作の話を戻ります。
聖歌隊での発作の話は、繰り返されるたびに否定されることが今まで多かったのでした。しかし、聖歌隊での発作のことを否定する人にとっても、それに対する関心は非常に大きなものであるようです。ドイツの神学者、オットー・シェールは、ルターの生涯に関する初期の諸資料を、最も徹底的に編纂した人物ですが、この話をにべもなく否定しています。それは、1549年にヨハネス・オッホレウスが書いた、ルターに関する憎悪に満ちた伝記まで辿って、編纂しています。ところが、シェールは、発作の話を排除することができなかったようです。シェールにとってさえ、この発作の話を軽く扱ったというまさにその行為において、彼は、この発作が宗教的に大きな意味がある、と認めるのに十分だったわけです。次のように書いています。「ニコラウス・トレンチノも、祭壇で跪き、祈る時、悪魔に襲われました。しかし、まさに、悪魔と戦ったハッキリした意義のある戦いにおいてこそ、ニコラウスは自分が神の武具であることを証明したのでした。ルターが同じように大切なやり方で、悪魔と戦わなければならないとしたら、その発作をルターに対する天罰と考えなくてはなりません」。シェールは、カトリックの中傷者たちに訴えています。「なぜ、(ニコラウスと)同じ物差しで測らないのだろうか?」と。脚注において、彼は古くからある問いを問うています。「あるいは、パウロの奇跡的な回心も、病気だったのだろうか?」と。シェールは、たまたま、ルターの育ちの資料を集めた有名なコレクションの中に、それは、オッホレウス版を責任感からコピーしたものでしたが、彼にしては非常に珍しい誤りを犯ました。それは、かの聖書の話が、マルコによる福音書第一章23節であるといったことでした。マルコによる福音書第一章23節は、「汚れた霊に憑かれた1人の男が、・・・叫んでいると、イエスによって静かになった」と言うものです。ところが、この「耳が聞こえず」、「口がきけないようにする悪魔」は、マルコによる福音書の最初の件にはないのです。
聖歌隊での発作は、ほとんどの伝記記者が否定しているものなのに、抜き難い魅力があって、現在まで伝わったわけですね。しかも、これは、パウロの回心の場面、つまり、復活したイエスとの出会いと言う、妄想のような出来事とも、似ているものでした。ですから、
ルターが「頭が変」なら、パウロも「頭が変」ということになってしまうほどだったわけです。
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