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桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

余命一年

2024年12月09日 13時29分00秒 | つぶやき

 久しぶりのブログの更新がこんなタイトルになってしまいました。

 咽頭がんが気管から肺、胃へと転移していて、すでに手術は不可能。ステージⅣの末期がんであると診断されたのです。

 このような余命宣告を受けるまでのいきさつとこれからは、ブログを続ける気力と体力があれば、おいおいと。


2024年六月の薬師詣で・中野区

2024年06月08日 22時24分38秒 | 薬師詣で

 六月の薬師詣では東京都中野区を歩いてきました。歩いてきました、などというと、まるで長距離をものともせず歩いたかのように思われるかもしれませんが、かつては一万歩はおろか、二万歩でもものともせずに歩いた我が身からすると、情けないほどに歩けなくなっていて、新井薬師前という西武新宿線の駅を起点に、往復一時間足らず歩いたのに過ぎませんでした。
 出発前の腹づもりでは、最初に同じ西武新宿線の少し手前、下落合で降りて薬王院というお寺に参拝し、次に新井薬師前へ行って、今回巡ってきた二つのお寺に参拝する予定を立てていたのですが、西武線に乗る高田馬場へ向かう地下鉄に乗っている間に ― 座席に腰掛けていたのですが ― 今日の腰の具合ではどうもそれほど歩けない、という予感がしてきて、薬王院参拝はいつか別の日に回してしまったのでした。



 というわけで、新井薬師前駅で下車。



 徒歩九分で新井薬師こと梅照院に着きました。



 山門です。



 梅照院本堂。真言宗豊山派の寺院。山号は新井山、寺号は薬師寺。
「新編武蔵風土記稿」には「本尊薬師坐像の石佛にて、長一寸八分(約5・4センチ)、厨子に入。開山を快儀と云。正保三年(1647年)四月五日示寂す。又云天正年中(1573年-92年)行春と云僧開基せしと。其後第六世朝曇を中興とす。此僧の頃より本尊の霊験世にあらはる。子育薬師と称して遠近こぞって歩を運ぶ者多し」と記されています。



 梅照院から新井薬師前駅前を通り過ぎ、駅から八分で東光寺(真言宗豊山派)に着きました。



 山門を入ってすぐ左手には如意寳蔵大龍神を祀る祠があり、石橋の下は祠をぐるりと巡る池になっていて、鯉がたくさん泳いでいましたが、資料が何もなく、現地には説明板もなかったので、如意寳蔵大龍神がいかなる神でおわすのかわかりません。



 東光寺本堂。
「新編武蔵風土記稿」には「本尊薬師の立像長一尺五寸(約45センチ)なるを安ず。開山開基は詳ならず」と記されています。

 梅照院から新井薬師前駅を素通りして東光寺に向かう間、腰の状態がよければ薬王院に寄ろうと考えていましたが、陽射しが夏を思わせるように暑かったことも災いしたのか、東光寺をあとにするころには、寄り道どころか駅に戻るのも危ぶまれるような状態になってしまいました。
 なんとか駅に辿り着いて乗った電車では、腰の痛みを騙すために、高田馬場までの三駅の間でもでき得ることなら坐りたいと願ったのですが、あいにく空席はありませんでした。
 今日は薬師如来の御加護はないのかと思いながら、地下鉄東西線に乗り換えると、幸いにして空席あり。やれやれとひと息ついて大手町まで行き、千代田線に乗り換えるとき、何を思ったのか自分でも不思議なのですが、「→千代田線」という案内に従って進むべきであるのに、エスカレーターを上ったところで「→東西線」という標識を目にして、間違えたと思い、クルリとUターン。東西線のホームに戻ってしまうというチョンボ。
 ところが、そのチョンボが幸いして千代田線のホームに着いたときには、二本に一本の割でしかこない常磐線直通電車に乗ることができ、けっこう混んでいたのにもかかわらず、空席を見つけて坐ることができて、やはり薬師如来のご加護はあったのだと思いを新たにしたのに、またもや「ところが」。

 電車が金町を出るころ、新松戸で信号確認を行なっている関係で、松戸駅でしばらく停車するとの車内アナウンスが流れました。

 結果は、しばらくどころか一時間二十分も待ちぼうけを食わされてしまいました。車内アナウンスは通常どおりに運行している常磐線快速で柏まで行き、これも通常どおり運行している上り電車で折り返してくるよう勧めていましたが、元気なころならいざ知らず、腰痛をこらえている身体だし、慌てる乞食はなんとやらともいうし、と思ってじっと座席に坐ったまま我慢していました。こうして坐り過ぎたおかげで、電車が下車駅の新松戸に着いたときには腰痛と膝のあたりのしびれで、歩くのもやっとというありさまでした。

 せっかく薬師詣でに出かけたのに、薬師如来のご利益をいただくどころか、飛ばしてしまった薬王院の薬師如来のお怒りを買ってしまったのであろう、と反省しながら我が庵に帰り着きました。


2024年五月の薬師詣で・豊島区

2024年05月12日 22時36分42秒 | 薬師詣で

 五月の薬師詣では、八日の縁日は所用があって行けなかったので、十二日に日延べ。豊島区高田を歩いてきました。



 西日暮里で山手線に乗り換えて大塚駅で下車。

 


 大塚駅前から何年ぶり、いや、何十年ぶりかの都電に乗って六駅。面影橋で降りました。
 二十代前半、東京に出てきた(戻ってきた)ころ、六文銭(及川恒平)の「面影橋から」を聴きながら、神田川に架かる橋のことだとはわかっていながら、全体どんなところだろうと想像を逞しくしていましたが、感受性も想像力も豊かだったそのころから、じつに半世紀という歳を隔てて訪れることになりました。
 独り電停に降り立ってみると、案の定というかなんというか、特段感じることは何もなく、そさくさと道路を渡りました。



 その面影橋で神田川を渡ります。



 高田氷川神社前を通って行きます。
「豊島区教育委員会の掲示」によると、この神社の創建は武蔵国一宮の氷川神社(さいたま市大宮区)を当地に分霊したことに始まるとありました。祭神は、素盞嗚命・奇稲田姫命・大巳貴命(大国主命)の三柱で、平安時代の歌人、在原業平(六歌仙の一人)も参拝したと伝えらています。
 主神が素盞嗚命であることから、俗に「男体の宮」といわれ、奇稲田姫命を主神とする落合村(新宿区下落合)の下落合氷川神社の「女体の宮」と合わせて、「夫婦の宮」と呼ばれていたということです。



 面影橋の電停から五分で今日最初の目的地・南蔵院に着きました。
「新編武蔵風土記稿」には「開山圓成比丘と云、本尊薬師は聖徳太子の作長三尺(約90センチ)、或云此像は奥州(藤原)秀衡の持佛たりしか、圓成比丘回國のをり夢の告ありて笈にうつして此高田の里に至るに、笈俄に重りて盤石の如し、此地有縁の地なればとて草堂をいとなみ安置すと云」と記されています。



 境内の六地蔵。



 南蔵院から四分で金乗院山門前に着きました。



 金乗院は別名・目白不動とも呼ばれています。
「豊島区教育委員会の掲示」によると、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創、とされており、創建は天正年間(1573年-92年)と考えられています。
 昭和二十年四月の戦災で本堂は焼失しました。現在の本堂は昭和4四十六年に再建され、平成十五年に全面改修されましたものです。
 祀られている不動明王は、かつて関口駒井町(文京区)にあったものですが、昭和二十年五月の戦災によって寺院が焼失したため、金乗院に合併され、本尊の目白不動明王像も移されました。江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高く、目白という土地の名は三代将軍・徳川家光の命による、といわれています。

 金乗院に参拝したあとは道を間違えてしまいました。実際は金乗院前の交差点を右折すればよかったのですが、直進してしまいました。宿坂という長い上り坂を上り詰めると目白通りで、その交差点が鬼子母神の表参道入口になっています。ここで初めて道を間違えていることに気づいて引き返したのですが、上りよりは楽だったとはいえ、長い下り坂に、脊柱菅狭窄症で痛めた腰とパーキンソン病でままならぬ脚の運びがもどかしくなってしまいました。



 金乗院前から実際は二~三分で着くところ、十七分も費やしてやっと根生院山門にやってきました。



 根生院は春日局の猶子・榮春法印が開山となり、寛永十二年(1636年)、徳川幕府西の丸祈願所として神田白壁町に建立されました。正保二年(1645年)、下谷長者町へ移転。元禄元年(1688年)、本郷切通坂知足院跡へ移転。明治二十二年(1889年)、上野池端七軒町へ移転、明治三十六年(1903年)、現在地へ移転しました。

 根生院参拝を終えたあとは、やはり薬師如来を祀る護国寺に向かうつもりでしたが、激しくなってきた腰痛が先の宿坂の上り下りですっかり悪化。
 グーグルマップでシミュレーションを試みると、根生院から護国寺まで二十一分! と出たところですっかり行く気をなくし、護国寺から最寄りの都電・東池袋四丁目電停まではさらに十八分、都合約四十分を歩き通さねばならぬと思うと、気力はすっかり削がれてしまいました。よって、
 今月の薬師詣では根生院で打ち止め。面影橋電停へ引き返して帰ることにしました。


新坂川残桜と花いかだ

2024年04月13日 16時39分10秒 | 風物詩

 新坂川の残桜を見に行きました。好天で暖かいせいもありましたが、近距離とはいえ、腰痛を抱える身で、買い物以外に出かけようという気になったのは久しぶりです。



 ソメイヨシノに較べると白っぽい山桜(?)。

 

 満開からほぼ一週間。桜はまだ見ごたえがありました。



 近くに寄ってみると、ほとんど葉桜でした。



 風に吹かれて舞い落ちる無数の花びらも、花いかだをつくるまでにはなかなかまとまらぬようで……。



 鳩も花いかだができるのを待っているようです。



 地面にはたくさんの花びらが落ちて、吹き溜まりができていましたが、流れる川に落ちてしまうと大した量ではないのでしょうか。



 近くのゆりのき通りではユリノキの芽吹きが始まっていました。


2024年四月の薬師詣で・練馬区

2024年04月08日 19時47分32秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣では練馬区の石神井公園近くを歩きました。
 私が初めて所帯を持って住んだのはその石神井公園に近い上石神井というところ。石神井公園にはしょっちゅう行っていて、勝手知ったる我が庭同然……と油断をしていました。
 初めて所帯を持ったのはちょうど半世紀も前のことです。かつては地上にあった石神井公園の駅が高架になっている、ということをテレビで視たのか、知ってはいましたが、実際に降りてみると、様相がまったく変わっていました。高い建物はなく、見晴らしのよかった駅前はビルが建て込んでいて見晴らしが効かない。
 それでも公園がある方角はわかっているつもりで歩き始めましたが、公園から駅の間にはなかったはずの、区役所の分庁舎があり、石神井警察署があったりして、半世紀もの間があるのだから、移転してきたりしても不思議はないと歩いていましたが、スマートフォンの地図を見て間違った道を歩いていたことに気づきました。



 今日、最初に目指すのは道場寺ですが、途中に石神井公園があるので、花見をして行きます。

 

 休み明けの月曜日でしたが、結構な数の花見客がいました。

 

 石神井池に映える桜と池面を飾る花びら。



 道を間違えながらも、石神井公園駅から十六分で道場寺に着きました。いまから七百年以上も前の文中元年(1372年)に創建された曹洞宗のお寺です。
 当時の石神井城主だった豊島景村の養子・輝時(北条高時の孫)が、大覚禅師を招いて建てたもので、輝時は自分の土地を寺に寄附して、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられています。



 我が宗派のお寺なので、慣例に従って歴住の墓所を参拝、香華を手向けたいと考えましたが、このような触れ書きがあったので、参拝することは断念。



 三重塔。



 隣に三宝寺(真言宗智山派)があるので、寄って行きます。
 ここは先の道場寺より古く、応永元年(1394年)、鎌倉・大楽寺の大徳権大僧都・幸尊法印が現在地周辺に創建しましたが、文明九年(1477年)、太田道灌によって現在地へ移転、



 三宝寺から十三分の禅定院は照光山無量寺といい、真言宗智山派の寺で、本尊は阿弥陀如来です。豊島八十八箇所霊場第七十番札所でもあります。
「新編武蔵風土記稿」はいまから約六百年前、願行上人によって開かれた寺であると伝えています。文政年間(1818年~30年)の火災で、建物・記録などことごとく焼失しました。



 禅定院から二十一分で、今日二つ目の目的地・観蔵院に着きました。
「新編武蔵風土記稿」には「宝蔵院 新義真言宗。上石神井村三宝寺門徒慈雲山ト号ス。本尊不動」と記されています。元々は三宝寺の塔頭寺院の一つとして建立されたもので、文明九年(1477年)、三宝寺が現在の場所へ移転した折、この地に移ったといわれています。



 今日四月八日は降誕会でもあります。本堂前には花御堂が設けられていました。



 観蔵院境内の桜。



 帰り途、名前につられて寄ってみました。石神井川に架かる、その名も薬師堂橋ですが、周辺に薬師堂を思わせるような建物はなく、掲示もないので、なぜこのような名がつけられたのかは不明です。



 薬師堂橋から眺めた石神井川の桜。



 帰りは石神井公園駅の一つ池袋寄り・練馬高野台駅から。

 この日、歩いたところ。