桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

桔梗を買いに行く②

2011年12月14日 22時31分21秒 | のんびり散策

 我が地方では今日十二月十四日から日の入りの時刻が遅く転じました。先月二十九日、一年のうちでもっとも早い時刻(十六時二十七分)となってから、ほぼ半月経って……。
 今日からわずか一分に過ぎませんが、遅くなって十六時二十八分となり、十七日には同二十九分、二十日には同三十分……と徐々に遅くなって、大晦日には十六時三十六分になります。

 ただし、日の出が早くなるのは来年の一月十日まで待たなくてはなりません。

 松戸駅近くに所用がありました。気乗りのしない用事だったので、たぶん陰気な顔をして家を出ましたが、電車に乗っている間にふと思いついたことがあって、一転明るい気分になりました。帰りは少し回り道をしてケーヨーデイツーというホームセンターへ行き、桔梗の宿根を買おうと思ったのです。



 松戸から新京成に乗って三つ目-みのり台駅で降りました。
 湯楽の里というスーパー銭湯へ通っていたときは、この駅を頻繁に利用したものですが、行く機会がなくなってから、駅を利用することもなくなりました。



 みのり台駅を背にして200メートル余、ケーヨーデーツーの前に證誠院という真言宗智山派の寺院があります。ちょっと寄らせて貰います。

 

 南大門が仁王門になっていて、阿吽の仁王尊が睨みを効かせています。



 かなり長い参道があります。南大門から本堂前まで目測で200メートルほど。



 本堂に向かって右側に立派な梅林がありました。去年三月十五日のブログを見ると、真言宗豊山派と書いていますが、正しくは智山派でした。



 江戸時代中期、江戸麹町に建てられた寺院が昭和十三年、この松戸の地に移転しました。
 本尊は延命地蔵菩薩。回向柱から五色の紐が結ばれていました。



 證誠院の向かいにケーヨーデーツーがあります。



 桔梗の宿根を手に入れました。私が知る限り、桔梗の宿根が手に入れられるのは、このケーヨーデーツーだけ。我が庵近くにはつくばエクスプレスの流山セントラルパークかみのり台のこの店しかありません。
 去年は二袋(一袋六株)でしたが、今年は三袋買いました。



 さらにビオラも六鉢。


幸田湧水

2011年10月18日 17時26分06秒 | のんびり散策

 三月の大震災以来、あれも地震が原因なのかもしれぬ、と思い当たることがありました。私が棲んでいる本土寺近くは平賀中台と呼ばれる高さ10メートル前後の高台です。東側を富士川が流れ、北から西にかけて坂川が流れています。
 
灯台もと暗し。インターネットで自分の棲む地域の地図を見ていたら、幸田湧水近くに「⛩」マークがあり、「子将神」と名がつけられていました。
「子将神」とは何か? Webで検索してみましたが、何一つヒットしませんでした。一度だけ行ったことのある我孫子の子ノ神大黒天と字面が似ていなくもないので、もしかしたらと思いましたが、こちらは文字どおり大黒様を祀るお寺であり、「子」と書いても、読み方は「ね」です。で、すぐ近くでもあり、見るに如くは無しと見に行ってきました。

 


 狭い
石段を上り詰めると、小さな鳥居があり、こんな祠がありました。
 中を透かし見ると、位牌のような形をした石造物が置かれていて、「子将神」と彫られているのが見えました。なんらかの史跡なら説明板のようなものが建てられていてしくはないのですが、何もありません。つまり、これがなんなのかは皆目わかりません。



 富士川3号橋から西方を眺めると、緑色したぼた餅をドテッと置いたような小丘が見えます。子将神塚はこの丘の中、左のほうにあります。


 


 先の丘の右下、道路の面してあるのがこの幸田湧水です。
 湧水というからには、どこかに水の湧き出ている場所があるはずですが、じっと眺めていても、水が動く様子はありません。水の湧き出るのが微量であれば、素人目に観察してもわからないのかもしれませんが、たとえ微量であっても、水が湧く以上はどこかに流れなければ、池は溢れてしまうはずですが、流れ出しているような箇所はありません。水中深く湧き出して、水中深いところで地下水となっているのでしょうか。



 富士川3号橋で富士川を渡ると、対岸も高台になっています。そこに寶蔵院という無住の寺があります。久しぶりに行ってみました。

 三月の大地震で本堂前の燈籠が倒壊、ずっと倒れたまま放置されていました。久しぶりにきてみたら……ちゃんと建っていました。よかった、よかった。



 境内のイチョウ(公孫樹)の色づきがかすかながらも始まっていました。




 幸田湧水を見に行ってみよう、と思わせたのは、我が庵がある台地下に水が湧き出しているのを見たからでした。右手の覆いかぶさるようになった緑は台地の斜面の林で、斜面の上が平賀中台です。雨の降ったあとは斜面から沁み出した水が道路を濡らします。近くにはあと二か所、湧き水 ― と称するのは少し無理がありますが ― があります。

 画像の左50メートルほど隔てたところを富士川が流れています。
 異常! というほどの一大変化ではありませんが、明らかに異常です。これまで雨の降ったあとに沁み出していることはありましたが、久しく雨の降っていないあとでも地面が濡れているのです。

 松戸市は洪積層の台地と沖積層の低地でできていて、全体の印象としては平坦な土地ですが、烈しいところだと高低差は18~20メートルもあります。その境目は傾斜地が多く。このあたりの高低差は10メートルです。



 これは上の画像の左側 ― 小さなグラウンドを挟んで湧き出している水です。一旦地下に吸い込まれた水が再び湧き出したものと思えます。右下を流れているのは富士川。




 コンクリートで土留めされたところ。以前はとくに思うことはありませんでしたが、大地震を経験して以来、このコンクリートが崩落することはないのだろうかと、ヒヤリとするものを感じながら見上げるようになりました。




 一昨年の暮れ、関西に住む友が贈ってくれた忍者の里・伊賀生まれの石蕗(ツワブキ)です。根づいてくれるかどうか心配でしたが、無事根づいてくれて、蕾も顔を覗かせてくれました。


 今月は十三日から四日連続で雨を記録しましたが、四日間ともほんのお湿り程度の雨で、地下水が沁み出てくるような降水量が記録されたとは考えられません。


朝露

2011年10月11日 22時24分26秒 | のんびり散策

 朝露の降りる季節になりました。



 散策のとき、二日に一回ぐらいの割合で通る羽中橋の欄干です。下を流れるのは富士川。

 羽中橋を渡って、川の右岸を上流に向かって歩く。逆のこともありますが、私のいつもの散策コースです。




 羽中橋から歩いて十分ちょっと。一棟のアパートがあり、そこの一室に棲む老嬢が多数の猫を飼っています。

 今日は生まれて一か月ほどの仔猫三匹のうちの二匹-三毛と茶虎-が外に出ていました。三匹の成猫に取り囲まれていますが、この中に母猫はいません。

 どこかに行ってしまったり、死んでしまったりする猫がいれば、新たな生を受ける猫もおり、いま、老嬢の家で暮らしているのは十一匹、だそうです。



 母猫はこの猫です。
 ワルそうな目つきをしていますが、ミーといって、以前は飼われていたのに、家出をしてしまったそうなのです。ワルそうな目つきになったのは、世間の荒波をくぐっているからかもしれません。

 家出といっても、遠くに去ってしまうことはなく、家出後も付近に出没。老嬢が餌を与えれば食べて、食べ終わるとどこかに姿を隠す。
 子どもを産んでからは再び老嬢の家に寄宿しています。父猫は不明。



 私に限らず、誰とでも仲良しになるマユ(♂)です。
 左だけに眉があるように見えるのでつけられた名です。



 マユが完璧な猫背を見せてくれています。
 体操の採点でいうと、文句のつけようがないフィニッシュなので10・0。人によっては、尻尾を前脚のほうに丸めていたら、なおよかった、とも。



 人なつっこい猫で、初めて会ったときから私の足許に寄ってきて、さかんにマーキングをしていました。十一匹もいる猫の中で、私を認めると「ニャー」と鳴きながら小走りに走ってきてくれるのも、このマユだけです。
 私が車止めに腰を下ろすと、尻尾をピンと立てて、私の靴やスラックスの裾にマーキングしながら私の周囲を一周します。ときには二周三周することもありますが、廻り終わると、近くで箱坐りをします。
 不思議なのは、坐る場所は必ず私とは背中合わせで、真後ろであるということです。



 画像の真ん中-顔を半分だけ覗かせている黒白の猫殿がいます。うさ伎(うさぎ)に似ていますが、うさ伎ではありません。この家の持ち主の苗字から一字をとって、樽吉と名づけました。


白露

2011年09月08日 20時26分32秒 | のんびり散策

 昨日は二十四節気のうち、白露でした。
 朝方は冷え込むようになって、それまで透明だった露が白く見えるようになる、という意ですが、昨朝は暦どおりに涼しい朝でありました。
 涼しいので散策に出ました。朝の散策に出るのは久々です。ブログを更新するのも久々です。



 富士川べり。一週間前に歩いたとき、稲刈りが済んだ田圃は一枚だけでしたが、すでに八枚も終わっていました。



 柿も色づき始めています(近くの柿園で)。

 


 大震災から半年も経ったというのに、土砂崩れを起こした富士川左岸(松戸市側)の土手は修復されないままです。まさかモニュメントとして遺そうというのではありますまいが……。
 下の画像は右岸(流山市側)から見た土砂崩れの現場です。



 特段の注意書きがないところを見ると、このひび割れは地震と関係がないのでしょう。



 去年、名を憶えた薯蕷葵(トロロアオイ)。



 蒲(ガマ)は湿地帯を好むといいます。
 富士川と流山市前ヶ崎の高台に挟まれた土地は川の近くではありますが、雨の直後を除くと湿地と呼べるような土地ではありません。

 


 今年も大きな栗が実りました。



 常磐線のガードをくぐって、猫のたまり場へ行くと、ヒロが仔猫に乳を飲ませているところでした。ヒロは小柄なので、仔猫のほうが大きく見えます。
 身体がひと回り大きくなって、一丁前に飛んだり跳ねたりできるようになった仔猫は、見ていると危なっかしくて仕方がありません。このアパートの前の道は結構交通量が多いのです。



 私が餌を与えると(乳幼児をかかえていると思うので、ヒロには猫一倍多く与えることにしているのですが)、素早く自分の分を食べ終えて、他猫の分を食べにくるのがこのヒロです。
 我が子が危なっかしい行動を繰り返しているというのに、自分が食べることしか眼中にないヒロには、果たして母親としての自覚がありやなしや……と疑った私でした。
 ところが、乳を与えている現場は初めて見たので、ちょっと感動して……疑った自分を恥じて、「あとで食べな」と呟きながら、いつもの餌を置きました。すると―。

 乳を飲みながら、なかば寝ているのかと思った仔猫が起き上がってきて、成猫用の餌を食べたのです。
 おおッ!(いつの間にか仔猫が成長した、と思った私が思わず上げた声です)
 そしてすぐに「ふーむ」とうなり声を漏らしていました。他猫の餌にすぐに首を突っ込んでくるヒロが首を突っ込まず、じっとしていたのです。

 こんな神妙な様子のヒロは初めて見ました。
 またまたちょっと感動しましたが、もしかしたらそんな崇高なことが起きたのではなく、ただたんに食事を終えたばかりで満腹であった、というだけのことであったのかもしれません。


醫王寺と蓮の花

2011年07月22日 22時15分58秒 | のんびり散策

 時期的には少し早いかもしれないと思いながら、手賀沼の蓮の花を見に行ってきました。
 浅草に棲んでいたころ、よく不忍池の蓮を見に行っていました。

 蓮は朝早く咲いて、昼にはほとんど閉じてしまいます。
 手賀沼まで行くのですから、先に鷲野谷という集落にある醫王寺に寄ることにしました。山崎辨榮(べんねい)さんと經譽愚底(きょうよ・ぐてい)さんのお墓参りもすることにします。



 我孫子駅からバスに乗り、いつものように ― といってもまだ二度目ですが ― スポーツ広場前というバス停で降りました。



 バスを降りて田舎道をトコトコと歩くこと十数分。醫王寺に着きました。
 寛正二年(1461年)、經譽愚底上人が開創した浄土宗のお寺です。經譽さんは木曽の洗馬というところから、ここ鷲野谷にきて庵を結び、のちに我が庵の近くにある小金の東漸寺などを開かれた方です。



 醫王寺境内の公孫樹(イチョウ)の古木。
 樹齢等を記した標識はありませんが、なにゆえにこのように垂れたのか。鍾乳洞のような瘤です。



 本堂より一段高いところにある薬師堂。
 安置されている薬師如来は長禄二年(1458年)に彫られたものです。開帳されるのは寅年だけ、十二年に一度です。
 寅年といえば去年ですが、四月十八日に御開帳が行なわれたそうです。私がこのお寺の存在を知って訪ねたのは御開帳に遅れること半年の去年の十月末でした。

 この日は二十二日でした。
 東京・本郷で偶然見つけた本郷薬師堂には八日、十二日、二十二日が薬師如来の縁日と書かれてありました。
 八日以外に十二日と二十二日も縁日という言い伝えは初めて知りましたが、調べてみると、愛媛県東温市にある香積寺というお寺の本尊は薬師如来で、ここでは毎月十二日が縁日だということです。
 この日、この寺では何事もなく、境内はひっそりと静まり返っていました。



 經譽愚底さんのお墓です。薬師堂の左手 ― 墓所へつづく小径を進んで行くとありました。東漸寺その他の寺を開いたあと、最初に開いたこの寺に戻ってきて、永正十四年(1517年)、この寺で示寂。

 中を覗いても、暗過ぎるのとレンズを突っ込むにしても、格子の空き方がちょうど具合が悪いのとで、撮すことができませんでしたが、この中に「經譽愚底上人之墓」と彫られた墓石がありました。



 こちらは前回もお参りした辨榮聖者こと山崎辯榮(1859年-1920年)さんのお墓です。



 鷲野谷の集落をあとにして、將門神社のある岩井集落に向かいます。途中は一面の玉蜀黍(トウモロコシ)畑でした。



 醫王寺から岩井集落の中心にある龍光院までは歩いて十分足らず。

 


 龍光院境内。
 將門の娘・如蔵尼が將門と一門の菩提を弔うために建てたといわれる地蔵堂(上)と將門神社(下)です。



 鷲野谷も岩井も集落は小高い丘の上にあります。といっても、標高は10数メートルに過ぎません。しかし、それだけでも陽気が異なるのか、松戸流山地区ではこの手の紫陽花(アジサイ)はすでに花期を終えてしまっているのに、ここではまだ咲いておりました。

 


 最後に手賀沼の蓮を見に行きました。今年は七月三十日に、蓮を見るボートや遊覧船が出るという催しがあるそうなので、行ってみようかと思っています。

 手賀沼に蓮の群生ができるようになったのは、昭和二十三年ごろ、付近の農家が沼の浅瀬や付近の水田で栽培したのが始まりだといわれています。その当時の手賀沼には、完全な堤防もなかったので、根茎が沼地内へ伸びたり、出荷時に沼の澄んだ水で蓮根を洗った際に不良品として捨てられたものが自生したりして、五十年の歳月を経て10ヘクタールにも及ぶ大群生地となったということです。



 手賀大橋たもとにある道の駅・しょうなん近くに梨園がありました。
 我が庵近くにある梨園と同じようにネットが張られていましたが、入口が開いていました。人がいれば一言断わって見せてもらおうと中を覗きましたが、人の気配はありませんでした。
 そこで無断で足を踏み入れ、何枚か撮影しました。種類が異なるのかもしれませんが、我が庵近くの梨よりふた回りほど大きく、色づきもひと足早いようです。



 道の駅しょうなん。

 

 我孫子駅近くまで戻ってきて、興陽寺に寄りました。画像上が本堂、下が薬師堂です。

 今年の二月八日、ここへ薬師詣でにきています。非常に寒い日だったということもあったのかもしれませんが、その日の私の体調はすこぶるつきの悪さでした。いまから思えば、恐らく胃潰瘍が再発していたのでしょう。


 二十一日の夜、最後のランサップ400錠を服んでヘリコバクター・ピロリ(ピロリ菌)の除菌療法が終わりました。
 薬を服んでいた一週間の間、断酒も達成しました。煙草をやめる前と同じように、優柔不断なワタクシめに断酒ができるのだろうかと危ぶみましたが、枯渇感が極まって発狂するようなこともなく、一週間は淡々と過ぎました。
 その勢いでアルコールをやめられるのではないかというと、これがやめられないのです。

 喫煙は入院したときに絶って、もう一年半以上になります。
 正しくは一年と少しです。去年の初夏、いろいろなことが重なって、生きて行くのはもういいか、と気持ちが切れかかったとき、死ぬ前に何をしたいだろうかと考えて、おもむろに煙草を買ってきて、確か二本……吸いましたので、一年と少しということになるのです。


利根の川風に吹かれて

2011年07月02日 23時36分19秒 | のんびり散策

 昨日、利根川を小船で渡る、小堀(おおほり)の渡しを渡ってきました。
 明治末期まで、この地域を流れる利根川はまるで巾着のように大きく湾曲していたため、しばしば洪水に見舞われていました。
 明治から大正中期にかけて、直線に付け替える改修工事が行なわれましたが、川の流れが変わると、それまでは川の北岸で、取手地区とは地続きだった小堀地区は対岸に取り残される、ということになってしまいました。そこで運航されるようになったのが小堀の渡しです。
 当初は小堀地区住民による自主運航。昭和四十二年から取手市営(当時は町営)となりました。



 五月の末、別の用件で取手にきた帰りに乗ろうとしたのですが、その日は生憎利根川が増水していて欠航でした。

 この日、しばらく雨は降っていないが、群馬県などの上流地域はどうだかわかりません。恐る恐る渡船場に近づくと、幟が風にはためいているのが見え、前回は通せんぼになっていた桟橋の入口も開いていました。



 乗船料100円を払って船の人となります。
 船の名は「とりで」号。十年ほど前までは小堀地区の住民でなければ乗れませんでした。



 定員は十二人とありました。狭い船内を見回しながら、定員いっぱい乗ってきたら、ちょっと窮屈かもしれぬわい、と思っているうち……。
 出発の合図もなく、なんとなく ??? と感じて目を挙げると、船は桟橋を離れていました。出航時刻は十三時三十五分。結局、乗船客は私独り……。



 船室の天井には天窓のような穴が開けられていて、梯子に足をかけ、そこから首を突き出すと、360度の眺めを愉しむことができます。



 利根の川風が心地よいけれども、貸し切り状態というのがちょっと落ち著かない、というか、申し訳ない感じです。乗り慣れない乗り物に乗っているせいでしょうか。

 


 乗船時間わずか十分で小堀渡船場に着きました。乗ろうと待ち構える人の姿はありませんでした。待合所もこのとおり。待っている人はありません。

 船はここに十分ほど停まって取手へ戻って行きます。もう一度乗って引き返すという手もありますが、ときおり陽射しは出るものの、曇りがちで存外涼しそうだったので、成田線の湖北駅まで歩くことにしました。

 最初に目指すのは付け替え工事によって、古利根沼として取り残された旧利根川です。
 途中、恐らくこの地区には一つだけだろうと思われる常圓寺(真言宗)と隣り合わせるように建っていた水神社があったので寄ってみましたが、どちらも無住の上、説明板のたぐいもないので、来歴はわかりませんでした。

 そこを過ぎると、民家はなくなりました。
 地図では、古利根沼畔に出る径があることになっているので、それらしき径があれば入って行こうかと考えるのですが、径があっても、いざ入ってみようかと思うと、先行きがなんとなく怪しく、行き止まりのような気がするので入れません。

 

 釣り堀やら乗馬クラブがありましたが、人の姿はまったく見ませんでした。

 舗装されていない道を歩きながら、最初はいまどきこんな道を歩くのもいいもんだなどと思っていましたが、歩けども歩けども砂利道ばかりだと不安が兆してきます。
 私が進みたい湖北駅の方角には、恐らく旧利根川の土手であったのであろう丘がつづいていて、見晴らしが利かず、向こう側に何があるのかわかりません。
 やがてどこをどう歩いているのかわからなくなってきたぞ、という焦りも出てきて、川風に吹かれた涼しさなどすっかりどこかへ行ってしまいました。

 やっと丘の切れたところがあり、そこを回り込むように進むと、目の前は一面の稲田に変わりました。
 まだ古利根沼を望むことはできませんが、稲田に変わっているところはかつては川が流れていたところであり、茨城県と千葉県の県境でもあります。



 古利根沼です。
 二年前の八月一日、私は將門神社を訪ねて湖北にきていました。神社を訪ねたあと、大体このあたりに立ち、この沼を眺めたのでした。私が立ってカメラを構えている場所は千葉県我孫子市、対岸は茨城県取手市。



 古利根沼畔から十分足らず。やはり二年前に訪問したことのある曹洞宗・法岩院です。

 前回訪れたときはちょうど大施食会の日だったので、境内は檀家の人たちであふれかえっていましたから、境内を歩くのは遠慮したのです。
 しかし、この日は無人。本堂裏に回ると、一段高いところに上って行く石段がありました。歴住の墓所に違いないと思って、しずしずと上ると、思ったとおりでした。



 墓誌によると、このお寺が開かれたのは天文三年(1534年)五月五日、芝原城主だった河村出羽守勝融が創建、開山は雪田眞良大和尚と記されています。
 河村氏は古河公方の家臣だった一族で、古河公方が滅んだあとは後北条氏に従うようになり、秀吉の小田原攻めで滅びることとなります。


 
 このあたりの地名は中峠(なかびょう)台。
「峠」と書いて「びょう」と読ませるとは珍しい、と二年前にきたときには感嘆したものでしたが、そういう地名は千葉県北部の各所にあります。同じ我孫子市内には稲荷峠(とうかんびょう)、柏市には高峠(たかびょう)、大峠台(おおびょうだい)、印西市には小楢峠(こならびょう)、木苅峠(きかりびょう)、榎峠(えのきびょう)……などなど。

 


 湖北駅近くにある龍泉寺です。上野・寛永寺の本堂庫裡を移築した龍泉寺の山門(画像上)と本堂。
 創建は延暦年間、弘法大師がきて、みずから彫った不動尊を安置したのが始まりといわれますが、実際は不詳。

 境内には幼稚園があります。
 二年前にきたときは夏休みの季節だったので、鉄門が閉ざされていて入れませんでした。そういえば、と思い出してきてみたのですが……。
 この日は金曜日、着いたのは午後二時半ごろでしたが、すでに園児たちの姿はなく、前と同じように鉄門が閉ざされていました。
 古利根沼を捜していたときからすでに汗みずくではありましたが、二度きたのに二度とも境内に入れない、とがっかりしたからかどうか、どっと汗が噴き出しました。



 帰りは湖北駅から我孫子行の電車に乗りました。

↓この日の行程です。
http://chizuz.com/map/map93012.html
 


本土寺から天形星神社へ

2011年06月08日 19時29分42秒 | のんびり散策

 梅雨はどこへ行ってしまったのか、と思ってしまうような天気つづきでした。週間天気予報でも土曜日まで雨マークがないと思っていたら、今朝は雨……。
 ところが、夕方には陽射しの出る天気にあと戻りして……。
 五月中の梅雨入りは異例-と華々しく花火を上げたものの、じつは梅雨入りはしていなかった……と、二転三転、菅直人氏や東電のようなことにならなければよいのですが。



 本土寺参道にはこんな幟が立てられるようになりました。日曜日から紫陽花(アジサイ)見物らしき人の姿が多くなってきています。



 境内に一万株もあるという本土寺の紫陽花を見るためには入山料を払わなければならないので、どの程度咲いているものかわかりませんが、椎と楠の並木に陽射しを遮られる参道の紫陽花はまだほとんど咲いていません。



 紫陽花を模した金平糖。
 お手玉ほどの大きさでしかないのに一つ¥400。四色あるのですが、なぜか三つセットで¥1000。
 見物客は少しずつ多くなっても、まだ店の売り上げに寄与する、というところまでは行かないようで……。



 あじさい茄子。このあたりはなんでも「あじさい」。
 買ったことがないので、どんな味がするのかわかりませんが、これは漬物です。
 あじさい葱というものも売られていて、こちらは生野菜。長葱と浅葱の中間ぐらいの太さの葱です。



 今年になって開店した花屋さん。中央奥は喫茶ルームになっていて、幟に書いてあるソフトクリームを売っているようです。



 枇杷(ビワ)の実が少し色づき始めています。
 葉っぱがほしいと思うけれども、枝を折るのは人目があるし、人目がなくても抵抗がある、と思っていたら、運のいいことに一週間か十日置きぐらいに強風の吹く日があり、十枚から二十枚ぐらい葉っぱのついた枝をたたき落としてくれます。
 私は靴の中敷き代わりに枇杷の葉を敷いています。



 昨七日の午後、枇杷の樹を捜しながら、天形星神社まで行きました。



 天形星神社に住まう野良殿です。
 ごくごくたまにしかこられないのに、私のことを忘れずにいてくれるらしいので、黒介(くろすけ)と名づけました。
 できることなら頻繁にきてやりたいのですが、我が庵からこの神社まで片道四十分もかかるので、そうそう気軽にくる、ということはできないのです。



 帰り道、少し遠回りをしたら、途中のアパート前にこんな美人猫がいました。首輪はしていませんが飼い猫のようで、食事を済ませたばかりだったのでしょう。いままでのドライフードのほかに、じゃこ煮干しも持つことにして、早速提供したのですが、一口も食べてくれませんでした。


高源寺と高井城址再訪

2011年05月31日 19時20分55秒 | のんびり散策

 また我孫子に所用ができたので、所用を済ませたあと、利根川を渡り、取手へ足を延ばしてきました。
 取手と下館を結んでいる関東鉄道に「ゆめみ野」という新しい駅ができたので、ちょっと行ってみようかという気になったのです。
 が、その駅を見ることが目的というのではありません。

 二年前、地蔵ケヤキで有名な高源寺と高井城址を訪ねたとき、いまは公園になっている高井城址に桔梗(キキョウ)の群落があるのを知りました。近場でこれほど桔梗が咲いている景色は珍しいので、毎年見に行こうと決めたのに、去年は桔梗が咲く季節の直前、ひどく体調を崩してしまって、見に行くことができませんでした。
 で、今回はまだ花の季節ではないとわかっていながら、新しい駅ができたおかげで、少しは近くなったのかどうか、様子を見ておこうというのと、地蔵ケヤキしかないと思っていた高源寺に、利根運河を拓いた廣瀬誠一郎のお墓があると知ったので、お線香の一本もあげようと考えたからです。

 高井城址は多くの部分が宅地化されてしまっていますが、それでも取手市内に遺されている城址としては最大規模のものです。高井城址も高源寺も四度目の訪問になるので、高源寺で廣瀬誠一郎の墓を探し当てるほかはとくに改めて見るようなものもありません。
 そこで今回はもう少し範囲を拡げて、城址の北西に当たる香取八坂神社、同じく東に当たる妙音寺と東光寺も併せて訪ねることにしました。



 関東鉄道のディーゼルカーに乗るのも二年ぶりです。



 ゆめみ野駅。
 今年三月十二日に開業したばかり。日中だったということもあり、降りたのは私一人。帰りもこの駅を利用しましたが、乗車したのは私一人。



 常総ニュータウン取手ゆめみ野という、面積80ヘクタール、計画人口六千人余の宅地造成に合わせて駅がつくられたのです。駅前はまだこんな状態で、何もありません。
 常総ニュータウンというのは旧日本住宅公団が昭和四十六年から守谷、常総、つくばみらい、取手の四市にまたがる関東鉄道沿線で始めた宅地造成事業で、七地区に分かれ、取手ゆめみ野は常総ニュータウンでは最終となる地区です。
 
 駅前から途中まで立派な道路ができていますが、いまのところはどこにも抜けられないので、工事用車両以外に通る車はありません。その道路は二年前には工事中だった県道251号線のバイパスに繋がっていました。
 途中で見覚えのある道に出たと思ったら、遙か彼方に鳥居が見えてきました。



 香取八坂神社です。由来を記したものがないので、経津主之命(ふつぬしのみこと)を祀っているということがわかるだけ。創建も不詳です。
 参道の右手が高源寺の墓地になっています。



 高源寺の本堂。臨済宗妙心寺派のお寺です。
 永仁元年(1293年)、夢窓正覚が開山と伝えられますが、夢窓正覚とは相国寺と天龍寺の開山・夢窓疎石(1275年-1351年)のことで、相国寺派では夢窓国師疎石と呼び、天龍寺派では夢窓正覚国師と呼ぶと記憶しています。
 この方が開山ということだと、まだ十九歳のときに開山したということになり、ちょっと不自然です。



 本堂前に聳える通称地蔵ケヤキ。
 樹齢千六百年といわれる欅の、火事で焼けてできたと伝えられる空洞に祀られた地蔵です。いまは閉鎖されていますが、地蔵の背のほうにも穴が開いており、女性がこの穴をくぐり抜けると、子が授かり乳がよく出ると信仰を集めてきました。



 地蔵ケヤキを写した画像では、右上に葉っぱだけが写っているのがこのスダジイです。
 こちらも相当な古木のようですが、保護樹木という標示があるだけで、どれほどの樹齢なのかわかりません。



 廣瀬誠一郎の墓です。天保九年(1838年)、この地・下高井に生誕。利根川と江戸川を結ぶ利根運河開削に生涯をかけた人です。
 すぐに見つかるだろうと思っていたのですが、一帯には廣瀬を名乗る家が多いようで、廣瀬家之墓と彫られた墓石が何十と林立しており、随分長いこと捜して見つけました。

 このあとに訪ねる高井城は長治年間(1104年-05年)、相馬小次郎が築城したと伝えられています。
 相馬氏の子孫が高井と姓を変え、天正年間(1573年-92年)までつづきますが、高井胤永が北条氏に味方したため、豊臣氏に滅ぼされました。そのあと、廣瀬と名を変えて帰農したという説と姓はもともと廣瀬で、高井家の重臣であったという説があります。



 高井城址公園の桔梗です。
 去年夏は異様に暑く、冬は異様に寒いという変動気候のあとなので、どうなるかわかりませんが、例年なら満開期は七月十日ごろ。いまの季節は高さも20~30センチというところです。



 高井城址。上ってみたところで、草ぼうぼうの本郭跡があるだけだとわかっているので、外から眺めるだけにしておきました。



 地図で高井城址の東側に鳥居の印を見つけていたので、初めて行ってみると、妙見八幡宮でした。由来を示すようなものは何もないので、詳細はあとで調べたものですが、かつては高井城内にあった相馬家の氏神です。



  初めての場所を訪ねるとき、私はニフティの「いつもNAVI」という地図をプリントして持って行くことにしています。その地図には、妙見八幡宮前の径を右に折れると、突き当たりに東光寺があり、その手前左に妙音寺があることになっていますが、径を曲がってみると、正面にも左手前にもお寺らしき建物はなく、正面にこの二つの御堂があるだけでした。

 近づいてみると、右の御堂には「新四国相馬八十八か所霊場 第五十二番 高井村 本尊 薬師如来」と記された扁額が懸けられていましたが、中に祀られているのは薬師如来ではなく、弘法大師でした。
 左は風雨に晒されて、記されているらしき文字を読むこともできませんが、中におわすのはやはり弘法大師でした。

※庵に帰ったあとで調べてみると、右の御堂に祀られていたのは弘法大師ではなく、新四国相馬八十八か所霊場を定めた観覚光音禅師(1711年-83年)のようです。クローズアップした写真を撮っていないので、なんともいえませんが、両方とも坐像で、右手に独狐を持っていたように記憶しているのですが……。

 手前左には集会所のような建物……と思ったらまさに集会所で、下高井下坪集会所とありました。



 裏に廻ってみると、三基の墓石がありました。
 左から権大僧都法印順慶、大阿闍梨法印泰玄、権大僧都法印義純と、僧階と僧侶の名が読めるだけで、没年などはすっかり摩耗していて読み取ることはできません。

 庵に帰ったあと、新四国相馬霊場八十八か所に触れているサイトを捜してみると、先に見た高源寺が四十九番で、五十番が東光寺、五十二番が明音寺(私が持っている地図では妙音寺)となっています。
 ただし、五十二番という扁額の懸けられていた御堂は、地図の位置関係によれば明音寺ではなく、東光寺のある場所でした。

 Webで他の地図も見てみました。Map Fanにはお寺の記載はなく(確かにあった妙見八幡宮の記載もなく)、下坪集会所があることになっています。
 BIGLOBEとgooはベースとしている地図が同じなのか、私が使ったニフティの地図とまったく同じで、明音寺ではなく妙音寺と記載されています。
 取手市観光協会がWebに載せている観光マップもBIGLOBEやgooと同じです。ZENRINというクレジットがあるので、自前のものではありませんが、観光協会が使っている以上は明音寺という表記は間違いで、妙音寺が正しい、ということになります。ところが、そのお寺は実在しないというのも、お笑いぐさになってしまいますが……。



 取手駅に戻っても、まだ午後の早い時間だったので、ちょっとした風流を味わってから帰ろうと思いました。
 利根川河川敷に降りて見上げた常磐線(手前が緩行線)の利根川橋梁。
 画像の左が下流になりますが、この地域で湾曲していた利根川は明治から大正中期にかけての工事で、直線に付け替えられました。かつて流れていた川の一部は古利根沼として残され、川の北岸だった小堀(おおほり)地区は対岸として孤立することになりました。

 そこを結ぶ連絡手段として取手市営の小堀の渡しがあるので、それに乗ってみようと思ったのです。
 取手駅東口から利根川堤防までは歩いて六分ほど。堤防から広い河川敷を横断して船着き場まではまた六分ほど。



 されど、やんぬる哉……。台風2号のせいで利根川は増水。渡し船は欠航だとさ。
 十五分ほどの風流な船旅……と思っていたのですが。
 取手駅、とはいわないが、せめて堤防の降り口に欠航の知らせでも出しておいてくれれば、河川敷横断の往復十二~十三分は歩かずに済んだのに……。



 桟橋入口が通せんぼされているのを見ながら、もしかしたら……と思いながら近づいて「欠航」と知ると、一気に疲れてしまいました。

この日歩いたところ(ゆめみ野駅から稲戸井駅まで)


本土寺周辺散歩

2011年05月17日 19時20分36秒 | のんびり散策

 亀戸天神前にある老舗葛餅店が春秋の彼岸のころ、紫陽花(アジサイ)のころ、そして紅葉のころ、本土寺の参道入口に臨時の売店を開きます。



 買い物帰りに、
こんな案内が出されていたのを見たので、もう紫陽花の咲く季節か、と思い、待てよ、二十一日といえば今週ではないか、いくらなんでもまだ咲かぬであろう、と思いました。
 本土寺参道に植えられている紫陽花を見ながら帰りましたが、蕾はまだ小さなツブツブができている程度で、とてもあと数日で咲くとは思えません。
 しかし、家に帰ったあと、紫陽花の見物客がこないのに店を開くはずはないのだから、咲きそうもないのに、もしかしたら咲くのかもしれないという気になって、流山前ヶ崎のあじさい通りの様子を見に行くことにしました。



 我が庵からあじさい通りの入口(北端)までは我が庵のある高台を下り、富士川を渡って前ヶ崎の高台を上って下る。歩けば十分ぐらいです。

 
 


 私は普通の紫陽花のほかに萼紫陽花や山紫陽花があることぐらいしか知りませんが、蕾を見ながら歩いて行くと、素人目にも一株ずつ違いのあることがわかります。
 蕾は随分大きくなってはいますが、やはりあと数日で咲くとは思えません。念のため、二十一日にはあじさい通りへきて、実態を確かめることに致しましょう。



 あじさい通りを北から南へ通り抜けて、坂を上るとキウイ畑です。
 キウイの花は大部分が散って、形を実に変えつつあります。

 


 絹莢豌豆(キヌサヤエンドウ)の花と実。富士川沿いの畑で見ましたが、絹莢豌豆と空豆は結構いろんなところで栽培されています。

 


 こちらは本土寺近くの畑で見たトマトの花と実。露地でトマトを栽培するのは珍しいようで、いまのところはこの畑で目にするだけです。



 とっくに季節は終わったと思っていたのですが……。本土寺近くの竹林で。



 庵を出るとき、実に久しぶりにこの猫殿を見かけました。まだ私には親しんでいません。



 こちらは親しみ過ぎといわねばならぬほど慣れている小春。



 同じ家の飼い猫だと思われますが、いつも家の前にいるのは下のペルシャふう潰れ顔のブサ猫殿だけです。私を見ると、必ずニャーと一声鳴いて近づいてきてくれます。
 上の猫殿を見るのはまだ二度目なのに、同僚であるブサ猫殿の友達(私のこと)のようだと親近感を覚えたのか、物怖じせずに近づいてきてくれました。


富士川周辺散歩

2011年05月13日 19時42分22秒 | のんびり散策

 今朝の散歩時、我が庵から富士川に向かって五分ほど歩いたところのクリーニング店脇で、サイベリアンのような猫殿に出会いました。



 今日は夕方近くなってやっと晴れ間が出ましたが、朝のうちは曇。
 雨でない限り散歩に出て、この店の前は一日一度は通るのに、初めて見た猫です。



 今朝の富士川上空です。



 富士川右岸(流山市)の田んぼ。富士山でもあれば逆さ富士……と、なるところですが……。
 田んぼはすべて田植えを終えたようです。あちこちで蛙が鳴いています。



 上の画像の田んぼの後ろに写っている高台に上った眺め。田んぼの向こうが富士川で、その彼方が本土寺があり、我が庵のある平賀の高台です。



 キウイ畑の脇を登校して行く女子中学生。
 右手にカーブしながら下り坂になります。この坂道を下り切ったところから流山市前ヶ崎のあじさい通りが始まります。



 あじさい通りの紫陽花です。蕾は日増しに成長しています。



 前ヶ崎の高台ではジャーマンアイリスを栽培するのがブームでもあるのか、ブルー、黄色、紫と結構いろんなところでお目にかかります。

 ここまでが朝の散歩。以下は夕方近く、再度散歩に出たときです。



 じゃが芋の花です。



 前ヶ崎の香取神社から国道6号線まで、常磐線に沿ってつづく小径。
 雨が上がったばかりだったせいか、朝は姿をみせなかったのに、夕方にはきっちりと姿を見せて、相変わらず食欲旺盛な小春です。



 我が庵から歩いて十五分ほどのアパートの前です。
 小春がいたところからは五分ほど。小春やうさ伎(うさぎ)たちの様子を見に行くついでに、できるだけこのアパートの前も通るように心がけています。



 一所懸命に食べてくれるのをうれしいと思いながら見ていたら、もう一匹のマダラ(中央)がひょっこりと出てきたので、少し場所を移して餌を置きました。
 上の画像の左と右が早速引っ越してきました。



 こちらは我が庵から北小金駅に向かって七分ほど歩いた民家の庭先。
 二日に一度ぐらいですが、私が通るたびに見てくれるので、写真を写すことにしました。通る時間によって、小屋に入っていたり、寝そべっていたりしますが、何度かカメラを構えるうち、寝ていても私のほうに向き直ってポーズをとってくれるようになりました。
 小屋の中にいるときに通ったりすると、ガチャガチャと鎖の音を立てて、わざわざ出てきてくれます。しかし、まだ尻尾は振りません。



 同じ家の庭です。
 上の画像のラブ君を望遠で撮影しているときに、バサバサと音がしたと思ったら、左のほうから出てきたのがこのゴールデン君でした。

 昨日の午後は胃潰瘍の診察で、以前に入院した病院に行ってきました。電車なら一駅。近いので(といっても二十分かかりますが)歩いて行きました。二種類もらっていた薬が一種類だけになりましたが、近いうちにまた内視鏡を飲まなければなりません。
 二週間後は湯島のほうに通院。両方とも木曜日になったのは偶然ですが、しばらくは二つの病院を掛け持ちで通わなくてはなりません。


江戸川堤まで

2011年03月27日 20時55分20秒 | のんびり散策

 昨日、流山市の思井(おもい)というところに薬師堂があるのを地図上で見つけたので、何月の薬師詣でにするかは別として、様子だけ見ておこうと探索に出かけました。
 最寄り駅はつくばエクスプレスの流山セントラルパークですが、ここに到るまでには、南流山経由にせよ柏経由にせよ、二度も乗り換える必要があるので、歩いて行くことにしました。
 地図で最短距離を検索すると、坂川を幸田(こうで)橋で越えて行くのが一番近いようです。途中、あんず通りを横切ることになるので、急ぐ行程でもなし、杏(アンズ)の花を愛でてから、少し坂川沿いを歩いて、幸田橋の一つ下流に架かる大金平橋あたりまで行ってみようと思いました。



 庵を出てすぐ本土寺の参道を横切ります。仁王門前数十メートルは雪柳(ユキヤナギ)の植え込みでした。

 
 


 あんず通り。
 杏の並木が終わると、道は坂川に向かって下り坂になります。
 三日前のブログで最後に辛夷(コブシ)の花を撮った小金北中学校の
先・八木乃橋の手前から坂川左岸を歩き、大金平橋を渡って、今度は右岸を少しだけ引き返します。川沿いに東洋学園大学のキャンパスがあります。
 


 柳も随分緑が目立つようになってきました。



 住宅街の中に忽然と現われた宮園池。
 家に帰ったあとで調べると、もともとは坂川の氾濫に備えた調整池で、立ち入り禁止であったために、野鳥が飛来する池となりました。そのころは坂川の水質が劣悪だったようですが、水質改善が進むと、川のほうが栄養分が豊かなのでしょう。坂川にはたくさんのカルガモがいましたが、この池には一羽もいませんでした。

 碁盤の目に区切られた住宅街を過ぎると、道は高台に分け入って行きます。



 坂を上り詰めると、やや交通量の多い道に出ました。南流山まで地下で進んできたつくばエクスプレスがこのへんから地上に出て高架を走るようになります。

 


 薬師堂?
 私はこのお堂の背後から歩いてきました。「あった!」と思って前に廻り、中を覗くと、安置されていたのは薬師如来ではなく、右手に独狐(とっこ)を持った弘法大師の坐像です。掲げられた扁額には昭和五年という年号があり、風雨に晒されて非常に読みづらいのですが、「新四國江戸川第六十一番薬師院」とありました。
 地図会社が「院」と「堂」を取り違えたのだろうと思いました。が、もしかしたらもう一つ別の祠があるのかもしれない、と考えてなおも進むと、地図では薬師堂の先にある「中」という交差点に出てしまいました。やはり地図会社が取り違えたのでしょう。

 わざわざきたのに……と、本来ならガッカリするところですが、交差点のある場所は高台の端になっていて、前方の視界が開け、意外に近いところに平和台のイトーヨーカドーを望むことができたので、ガッカリすることはありませんでした。
 ここまで随分歩いてきていることはきているけれども、とても歩いて行けるところではないと思っていた流山市の中心部に、いとも簡単に着いてしまうことになるのです。
 イトーヨーカドーが近いということは江戸川も近いということです。江戸川堤まで行ってみようと思い直すと、むしろ元気が出てきました。



 近くに見えたとはいっても、中交差点からイトーヨーカドーまでは十三分かかりました。
 イトーヨーカドーを過ぎると、流山街道の向こうに小山が見えてきます。何度か訪れている赤城神社ですが、初めて裏手から上ることになりました。
 拝殿右奥。何を祀っているのかわかりませんが、超ミニサイズの狛犬がありました。左にスイカを入れたパスケースを置いてみました。



 こちらは本殿前の吽形の狛犬。
 ふーむ、これまで見たことのない面相です。阿形のほうは顔の部分が欠けて補修されていました。

 正面の急な石段を下るのを避けて、女坂を下ると、赤城神社の別当・光明院の境内に出ます。



 去年は工事中だった本堂が完成していました。左は葉裏に文字の書ける多羅葉(タラヨウ)の樹です。



 辛夷の花が満開でした。山門から道路に出て、もう一度赤城神社を訪ねます。

 


 赤城神社の無患子(ムクロジ)です。
 ちょうど一年前、埼玉県上尾の龍山院というお寺へ無患子を見に行き、帰りにこの神社に寄ったのでした。



 流山寺。
 我が宗派のお寺なので、歴住のお墓にお参りして行こうと墓所をくまなく歩きましたが、見つかりません。


 捜すのは諦めて立ち去ろうとしたら、本堂の真ん前にありました。



 流山寺と江戸川堤は指呼の間です。
 堤は今年も一面の菜の花です。ゴールデンウィークが過ぎたころ、種をもらいにきて、いま我が庭で春を咲き誇っている摘み菜と交互に播いてみようかと思います。



 帰りは電車に乗るつもりだったので、流山橋(388メートル)で江戸川を渡りました。自動車専用の橋の下流側に歩行者と自転車専用の橋が架かっています。
 去年の無患子紀行では逆方向から渡っていますが、明確な記憶がありません。つまり、とくに印象に残るようなこともとなく渡っているのです。
 しかし、今回は大違い。途中から高所恐怖症が出たのです。ことに昨日は風速6~8メートルという風の強い一日でした。
 風が強いので帽子が飛ばされそうになります。両手で押さえようとすると無防備な格好になるので、ますますいけない。

 道幅は3メートルぐらいか。
 遙か下を流れる川は見ないように歩くのですが、直下だけを見ていると、いつの間にか道の端っこに寄ってしまうのです。気づくたびにゾッとして、魂までどこかに持って行かれそうです。
 地震の後遺症が残っていたこともあって、もしここで地震がきたらどうしようと突然考えてしまう。
 莫迦! なんでこんなときに地震のことなんか思い出すのだッ! 足も竦みがちで、しゃがみ込みたくなるような心境でありました。
 引き返すか、と思わないでもなかったけれど、高所恐怖症の者にとって、高いところで後ろ向きに姿勢を変えるということには、想像を絶するような勇気が要るのです。

 まあ、とんだ茶番でありました。この写真は渡り終えたあと、やっと人心地ついて埼玉県(三郷市)側から取った画像です。



 三郷駅から武蔵野線に乗りました。

↓この日歩いたところ(あんず通りから三郷駅まで)。
http://chizuz.com/map/map86718.html


啓蟄

2011年03月06日 18時55分30秒 | のんびり散策

 冬がきてから立ち枯れていた竜胆(リンドウ)に芽が出ました。
 乱視の私が眼鏡を外しても緑色の芽ははっきりと見えるのに、我がカメラに収めると、何が映っているのかわからなくなり、さらにブログに取り込むとまったくわからなくなるので、画像は割愛します。

 スノードロップは四輪目が咲きました。地植えにしてしまったので、下を向いたまま顔を見せてくれません。じつに健気で奥ゆかしい花です。

 昨日も今日もいい天気だったので、布団を干しました。
 夜はさすがに冷え込んできますが、お風呂に入って身体を温め、冷えないうちに布団にもぐり込むと、布団はほんのりと暖かさを保っていて、気持ちがいい。
 顎のあたりまで引き寄せると、お日様の匂いがします。
 暑くなればなおのこと、少しでも暖かくなると、こういう楽しみはなくなります。冬は寒さが身体にこたえるので好きではないけれど、陽に当てた布団のぬくもりは寒いときならでは、の極楽です。

 ところが、昼間は暖かくなっても、夜明け前の気温は我が地方ではまだ氷点下です。
 朝日は七時前に出るというのに、昨朝も今朝も十時を過ぎないと暖かいと感じる気温にはなりません。ことに私は体調が以前とは違うので、十時ごろまではできるだけ動かぬようにしています。

 昼になるとようやく暖かくなって、外を歩くか、という気になります。久しぶりに富士川沿いを散歩することにしました。



 庵を出たら沈丁花(ジンチョウゲ)の甘い香りが漂っていました。



 こちらはそろそろ桜と選手交代です。花の少なかった季節に咲いていてくれてありがとう。

 とくにどこを目指す、というアイデアも浮かばなかったので、万歩計が五千歩を示すところ(そこまで行って帰ってくると、一万歩になる)まで行ってみようと歩き出しました。



 今日昼の富士川上空です。夕方には曇ってしまったので、少し雲があります。



 枯れ草色一色だった土手には若草が萌え出て、うっすらとした緑色に変わってきました。
 ただし、川べりは風が冷たい。
 富士川と坂川との合流点に架かる御體橋(おたいばし)で坂川を渡ると、流山市です。しかし、この時点では庵を出てからまだ二十分足らず。二千歩しか歩いていません。

 のんびりと釣り糸を垂れている人と、のんびりと泳ぐカルガモの群れを交互に見ながら、しばし思案ののち、去年暮に訪ねた天形星(てんぎょうせい)神社まで行くことにしました。
 御體橋から二十五分の行程です。ここでようやく五千歩に達しました。

 


 天形星神社の拝殿と拝殿手前にある岩本大明神(右)の祠。

 岩本大明神とは江戸時代の旗本・岩本石見守正倫(まさみち)のことです。正倫の姉・富子が十一代将軍・家斉の母ですから、将軍の叔父ということになります。
 しかし、そういう縁故で出世して、挙げ句、神様として祀られるようになった、というのではありません。軍馬を育てる牧の監督官として指揮をとりながら、この地方の農民たちにとっては善政を敷いたので、農民たちから神と崇められるようになったのです。



 天形星神社前には黒猫殿がいました。前に訪ねたときにも会っています。

 最初、テキは知らんぷりをしていました。私のほうでも被毛も同じ、いる場所も同じですから、前に見た黒猫殿に違いないとは思いながらも、一度見ているだけですから、絶対に同じ猫殿だ、と断言する自信はありません。
 寝そべっている植え込みに近づき、鞄から餌の入ったタッパーウェアを取り出して、カタカタと音をさせると、知らんぷりだったのが一転、ニャーと鳴いて近づいてきました。
 家に帰ってから調べると、前にきたのは去年の十二月四日。三か月前です。よくぞ憶えていてくれました。

 餌を食べるのに一心不乱で、こちらを見向きもしない黒猫殿のために、餌の山をもう一山つくっておいて、天形星神社をあとにすると、かなり急な下り坂があり、すぐ急な上り坂があります。上り詰めたところに墓石が見えました。



 アレ、こんなところにお寺があったかしらん、と訝りつつ足を踏み入れてみたら、近くにあるはずの金乗院(こんじょういん)の墓所でした。お寺は少し離れたところにあって、去年八月に訪ねていました。

 墓所は高台の上にあります。風雨を遮るものが何もないためか、墓石はことのほか風化が烈しいようで、刻まれた文字はほとんど読みとることができません。後ろに回ると、一つだけ「明和二年(1765年)寂 松ヶ崎村云々」と読み取れる卵塔がありました。僧侶の墓ですが、法名は読めません。



 金乗院。真言宗豊山派のお寺。無住です。

 金乗院のある高台を下って行くと、野々下水辺公園脇に出ました。
 坂川の始まるところです。坂川沿いに下って行けば、じきに富士川の合流点に出て、くるときに渡った御體橋を過ぎて、富士川沿いに道を辿ると、やがて我が庵……という段取りですが、セカセカ歩いていると汗をかくほどの暖かさだったので、脇道にそれて見知らぬ道をグニャグニャ、と。
 川に向かって高台を下っているので、川から離れると、また上り坂です。



 わりと交通量の多い道路の向こう側、地図のようなものが見えたので、近づいてみると、「芝崎小鳥の森」とありました。



 流山市が管理していて、十種類ぐらいの鳥が観察できるようですが、この日は何もいないようでした。管理しているといっても、所有者から土地を借りて公園にしているらしいので、いわゆる市立公園とは趣が異なるようです。
 そのせいかどうか、径らしきものがあることはありますが、落ち葉に埋め尽くされていて、径の消えかかっているところもありました。



 正面入口から入りましたが、「→南側入口」という標示に従って歩いて行くと、急な下り階段の先にはこんな入口。この先は畑の中を通る径になっていて、標識は何もないので、知らない人は入ってこれません。



 球春到来。前ヶ崎の野球グラウンドでは少年たちの試合がありました。

↓この日の参考マップです。
http://chizuz.com/map/map85491.html


初雪のち快晴

2011年01月18日 17時38分44秒 | のんびり散策

 十六日、千葉県地方に初雪が降りました。



 目覚めたとき、家の周りがいつもと較べて一段と静かであるように思えたので、もしや、と思って窓を開けたら、このような雪景色でありました。
 一旦は熄んでいた雪が七時ごろにはまた舞いましたが、熄むと陽の光が漏れて、抜群に日当たりのよい我が庭の雪は一時間もしないうちに解けてしまいました。
 あとは快晴……。



 そして昨日も快晴、今日も快晴。富士川上空は雲一つ見えぬ快晴つづきです。

 


 前ヶ崎キャンプ場の下に湧水があったのを初めて知りました。

 キャンプ場を抜けると野球グラウンドがあり、その先に前ヶ崎香取神社があります。
 このところ毎日、猫の小春に会います。散歩に出るのは気が向いたときなので、時間は一定ではありません。それでも、概ね午後一時から三時にかけて、と決まっているので、私がくるのを待ち構えているのかもしれません。
 香取神社の脇を歩いていると、いち早く私を見つけて「ニャー」と鳴いたり、鳥居をくぐった途端にガサゴソと熊笹の葉の鳴る音がしたかと思うと、「ニャー」と鳴きながら姿を現わしたりします。
 首輪をつけているところを見ると、飼い猫なのだろうと思われますが、何も食べさせてもらっていないのか、いつもがっついています。

 


 顔を撮ってやろうと思うのですが、こやつは片時もじっとしていることがないのです。
 じっとしているのはおやつを食べているときだけ。食べ終わると「ニャーニャー」とおやつの追加を催促しながら私に迫ってきます。向かってくるところを撮ってやろうと腰を下ろしても、動きが素早いので、ピントを合わせるいとまがありません。
 で、いまのところ撮影可能なアングルは上か横からしかないのです。尻尾がないので、後ろから見ると茶色の兎みたいです。



 もう一匹の猫・うさ伎(うさぎ)に会いに行くためには、こんな泥の坂道を上って行きます。上り口は窪地になっていて、陽が当たらないので、二日前の雪が氷となって残っていました。

 この方面に散策に出たときは必ず覗いていますが、うさ伎の姿は暮の二十六日から見ていません。この坂道を上り切ると、日当たりのよい梨畑があって、日向ぼっこをしているうさ伎がいたものですが、くる日もくる日もガッカリして帰る日がつづいています。
 そろそろ……もうここにはいないのだ、と考えを改めるころなのかもしれません。

 わずか二度目にして私の膝下に蹲り、顔を洗うなどリラックスした様子を見せていたのですから、もともと人懐っこい猫だったのかもしれません。猫好きな人にもらわれたのならよいのですが……。



 泥道を上ったところは梨畑です。いつもうさ伎が日向ぼっこをしていた場所です。



 県立西部図書館で「徳川實紀」を借りるときに立ち読みした「松戸郷土史談」という本に、東雷神社のことが載っていたので、久しぶりに足を運んでみました。
 その本には、旧水戸街道を往来する旅人たちが落雷に難渋していたのを鎮めるために祀られた、と記されていましたが、「東雷」をどのように読んだらいいのか、書かれていません。

 かつて私が住んでいた新松戸のマンションと流山の東福寺の中間に雷(いかづち)神社という社があります。その社と連関があるのかどうかわかりませんが、その社から見ると東の方角にあるので、私は「ひがしいかづち」と呼ぶことにしています。



 うさ伎のいる梨畑から東雷神社へ行くのには富士川を渡り、この跨線橋で常磐線を越えます。
 この跨線橋は鉄道写真マニアの間では有名撮影地なのだそうです。この日も三人の若者が電車のくるのを待ち構えていました。

 北小金駅近くの花屋さんに秋桜(コスモス)の種が出ているのを見ました。買おうかと思ったら、早咲きも含めて五種類もあったので、播き時まではまだ二か月以上もあることもあって、しばらく逡巡することにしました。



 北小金駅北口に慶林寺という曹洞宗のお寺があります。
 駅から近いのですが、私が帰るのとは反対方向なので、滅多に立ち寄ることはありません。二、三度寄ったことがありますが、いつも門が閉じられていたのでなおさらでした。
 昨日、散策ついでに気まぐれを起こして通りかかったら門が開いていました。



 門前にある河津桜です。早ければ今月下旬にも花が見られるかもしれません。
 春の兆しを見つけたせいか、朝晩は厳しい寒さがつづく中でも、私の心の中に暖かい火が灯ったような感じがしています。
 日の出は少しずつ早くなり、日の入りも遅くなっています。



 門が開いていたので境内に入らせてもらいました。
 前々から見てみたいと思っていた高城胤吉夫人・月菴珪琳(げったん・けいりん)尼の墓です。
 慶林寺は胤吉の嫡男・胤辰(たねとき)が母の菩提を弔うために永禄八年(1565年)、桂林寺として建立したお寺です。
 高城氏は秀吉の小田原征伐によって没落しますが、それは天正十八年(1590年)のことです。お寺を建てた当時は小金周辺を支配する領主でした。そのわりには質素な墓石です。

 高城氏の没落後、家康から朱印を与えられたのを機に、名を桂林寺から慶林寺へと改めます。
 本尊は大福薬師瑠璃光如来、祀られている寺院を追々捜しながら詣でようと思っていた薬師如来です。想像もしてみなかった近いところでお会いすることができました。ただ、お姿は外からではまったく見えません。



 こちらは小金牧の野馬奉行だった綿貫夏右衛門の墓。
 これも先の「松戸郷土史談」で読んだ話です。

 夏右衛門は元の名を山梨十(重)右衛門といい、馬術の名手だったそうです。秀吉の小田原征伐のときは北条方に味方して小田原城に籠城しました。しかし、城はあえなく落城。慶林寺の住職を頼って落ち延びました。

 北条氏に替わって関東を支配することになった徳川家康は小金牧を再興しようと考えます。そこで事情に通じた者に訊ねたところ、奉行役と牧士支配は夏右衛門がよいということになり、早速引見することになりました。
 夏右衛門が招かれたのは四月といいますから、いまでいうと五月。そろそろ暑くなるころなのに、没落して以降、貧乏暮らしをしていた夏右衛門が持っていた外出着は綿入れしかありません。やむなくその着物から綿を抜いて出かけました。
 その姿を見て、家康は腹を抱えて笑い、向後、綿貫夏右衛門と名を改めてはどうか、といったので、山梨十右衛門が綿貫夏右衛門となった次第です。
 ここには「山梨」と記されていますが、北小金には「月見里」と書いて「やまなし」と読ませる家が残っているので、恐らくは月見里十右衛門であったのだろうと思います。



 一度家に帰ったあと、湯屋に行きました。
 電気風呂というものに初めて入りました。入っていると、ときどきピリピリッときます。それほど強い刺激ではありませんが、どんなときにくるのか、と考えていると落ち著かない。一回入ったら、もういいか、という感じです。
 出たあとに気づきました。入ってはいけない人に、高血圧症、心臓疾患などと並んで、老人、潰瘍、とありました。
 電気風呂のほかにはサウナと水風呂、露天、ジェットバス、それに白湯、とありますが、サウナ、水風呂、露天はまだ試していません。

 湯屋に行ったときの私のパターンは大体決まっています。
 足と下半身にお湯をかけて洗ったあと、一回目の入浴。いまの季節、冷え切った身体で、いきなりザブリとは行かないので、数分間半身浴。下半身と手が暖まるのを待って、ようやく全身を湯船に沈めます。スーパー銭湯と違って、街の湯屋の良さはなんといっても熱めの湯温です。

 額にうっすらと汗が滲むようになったら、湯から出て身体を洗います。そして二度目の入浴。今度は頭髪と顔を洗って三度目の入浴。最後にもう一度身体を洗って四度目にして最後の入浴。
 このころには、目に入るほどの汗が額から噴き出していますが、両肩だけは暖まっていない。
 両肩も暖かいと感じるまで入ったことはありませんが、そんなことをしたら恐らく逆上せあがってしまうほうが先でしょう。



 湯上がりに牛乳を飲みました。ここでもスーパー銭湯とは違って、硝子張りの冷蔵ショーケースに入っているのを自分で取り出し、番台に¥120也を払う昔ながらのシステムです。



 湯屋を出るときにはすでに陽は沈んでいます。
 これは行きに湯屋の近くで撮った写真。右のブロック塀の家の飼い猫殿です。三匹いますが、この猫殿だけ私を憶えていてくれるようです。市立図書館の小金分館へ行くときもこの道を通ります。立ち止まって「やあ」と声をかけると、「ニャー」と鳴いて近寄ってきてくれます。

 湯屋を出たあと、北小金駅のコンコースを通り抜け、本土寺参道入口までスタスタと急ぎ足で歩いても十一~十二分かかります。
 
寒々とした参道の並木道に差しかかるころ、少しずつ冷え始めていた身体が、覿面に寒さを感じるようになります。そこから我が庵まではさらに六~七分。
 汗をかくほど温まったはずの身体は完全に冷え切っています。


育苗圃から祖光院へ

2011年01月13日 20時12分00秒 | のんびり散策

 常盤平に半日の仕事ができたので行ってきました。
 ハローワークは相変わらず空振り三振つづき。半日の仕事ではヘタを打つと足が出て、三振ゲッツーということにもなりかねませんが、打ってみなければゲッツーになるかどうかはわからないので、家にいて寒さを我慢しているよりはマシかと思い直して出かけました。
 九時に家を出たのですが、太陽は燦々と輝いているのに、ピューピューと北風。今冬は例年にない寒さではあっても曇の日が少なく、何よりかにより、風の強い日がほとんどないのが救い、と思っていた矢先の寒さです。おまけにひいたばかりの風邪は完全に治っていません。

 我が庵の最寄り駅である北小金から常盤平へ行くためには、次の新松戸で武蔵野線に乗り換えて、また次の新八柱で新京成電鉄に乗り換えると、次が常盤平です。わずか三駅ぶん行くのに、一駅乗っては乗り換え、また一駅乗っては乗り換えというように、非常に面倒です。
 都会の電車のように、プラットホームに立てば、待つほどもなく電車がやってくるというわけではなく、乗り換えるたびに数分待たなければならない。その間、ピューピュー北風。プラットホームには屋根があるせいで、陽は当たらない。

 二時半過ぎに仕事が終わったので、松戸市の育苗圃というところへ行ってきました。昼休みの雑談中、仕事をしていた場所のすぐ近くにあると教わったのです。


 


 正しくは松戸市営金ヶ作育苗圃というようです。広大な土地にいろいろな樹木、草花や野菜の苗に混じって、八十種類ものハーブが植えられているそうです。
 広さはどの程度あるのか、入口に左の画像のような地図があるだけで、パンフレットのたぐいはないので、しかとはわかりません。家に帰ったあと、インターネットで調べてみましたが、詳しく説明したページはないようでした。

 松戸地方はクリスマスイヴの日から雨がありません。こんな季節に見学にくるような酔狂な人間はいないとみえて、順路には足跡一つありませんでした。私が歩を進めるたびに土埃が立ちます。おまけに熄む気配のない強い北風。
 ここを教えてくれた人が「いまの季節は行っても駄目だろうけどね」と付け足しましたが、「まあ、春になったらまたきてもいいから、事前に一度」と答えてきたのでした。
 陽射しは結構強いのですが、それをチャラにしてしまうような寒気と北風、です。足早に巡って写真だけ撮りました。

 


 上=ポットマジョラム、下=アップルミント。

 


 上=キャットミント、下=サントリナ。

 


 上=ローズマリー、下=ベチバー。

 季節柄、花はまったく見られませんし、葉が枯れてしまっているものもたくさんあります。これはこんな季節にきた私が悪いのだから致し方ない。
 しかし、いまの季節は枯れているとしても、標識がなく、何がなんだかわからないものが多い。日当たりがいいので、折角標識があっても、灼けてしまって判読できないものもあります。

 よーく考えてみれば、ここは苗を育てる施設であって、植物園ではないのだから、見せることが主体ではないのです。見たければ「見ることもできる」施設なのです。だから、イーンジャないか、とも思いますが、それだったら、標識は全部とっぱずしてしまえば、と独り言をブツブツ。 



 常盤平駅に戻る途中に祖光院という曹洞宗のお寺があったので寄ってみました。



 細い径を歩いていたら、墓石が見えたので寄ったのですが、裏口から入ることになりました。「参詣者」と「老人」以外は通行禁止の看板。私が入った裏口には建てられていなかったので、通り抜けてしまってからしか気づきません。通り抜けたところで大して近道になるとも思えませんが、通る人が多く、迷惑しているのでしょう。

 


 境内の半分ほどは林で、林の下草になっているのはどうやらすべて曼珠沙華のようです。画像下・掲示板に貼り出された曼珠沙華の写真。赤色だけでなく、黄や白の花もあるみたいです。
 こんなところがあったとは……わずか数か月前、花の季節に知るべきでした。



 これは松戸市のホームページ「私が好きな松戸の景観スポット」から拝借した画像です。



 今年の秋、忘れずに見にきましょうと、北風の冷たさも忘れるような気分になって帰り道を辿っていたら、熊野神社の前を通りかかりました。

 ここでも偶然にしては思わぬ収穫。梛(ナギ)の樹があったのです。
 樹下に石碑があり、三人の氏子がいまから二十四年前、熊野の本宮大社に参詣したとき、本宮大社のご神木である梛の苗木を持ち帰って育て、十五年前の平成八年にこの神社に奉納した、という旨が刻まれています。

 これが梛の樹か、と思って見上げました。
 梛という樹があるのを知ったのは随分前のことですが、見たことはありませんでした。
 どのような経緯で知ったのかというと、北条政子に関して調べていたときのことです。政子は頼朝との結婚を父・時政に反対され、いまでいうなら駆け落ちをしたのですが、親の目を盗んで密会を重ねていたのが熱海にある伊豆山神社の梛の樹の下でした。駆け落ちが成功して、めでたく頼朝の妻となったあと、梛の葉をお守りとして大切に持っていたと伝えられています。

 その樹の下で密会を重ねた記念、というだけではなく、梛の葉は裏表の違いが少ないことから、裏表がない心に喩えられるということがあります。
 また葉が対生なので、仲のよいこと、つまり縁結びの象徴でもあり、葉脈が平行脈なので、葉がちぎれにくいことから、縁が切れないということにもなるからです。

 マキ科の常緑高木です。葉っぱの様子を見たかったのですが、葉のあるところは高過ぎて全然わかりません。葉っぱが落っこちていないかどうか捜しましたが、ありませんでした。


2011年初薬師・柏市

2011年01月12日 15時08分49秒 | のんびり散策

 寒波が押し寄せるこの時節、私は決まって鼻風邪をひいています。たんなる鼻風邪であれば、洟水が垂れるのと戦えばよいのですが、ごくごく稀に熱を出すことがあります。
 そのごくごく稀なことが日曜日の朝、目覚めたときに起こっていて、ぼんやりしたまま今日までを過ごしてしまいました。

 四日も前の一月八日。薬師如来の縁日なので、お参りに行ってきたのですが、その夜からなんとなく身体がだるくなり、翌朝から熱っぽい頭を抱え込むことになったので、ブログを書こうと思っても、てんで文章がまとまらず、私と一緒に今朝まで布団の中で暖まっていました。

 八日は年が改まって最初の縁日、すなわち初薬師でした。
 去年の十一月、入院後一年を経過した日に、薬師如来を訪ねてお礼参りをしようと決めていました。十二月八日に早速、と思ったのですが、十二月は終い薬師(しまいやくし)ということになります。初め、が終(しま)いではなんとなく腰の据わりもよくないと感じて、一月八日になるのを待っていたのです。

 入院する直接の原因となった病気は完治しましたが、その後、発覚した別の病気-体質といったほうがいいかもしれません-があって、これが治るまでには時間がかかる。投薬と規則正しい生活と食餌療法とで気長に治して行くしかないようなのです。
 完治したはずの病気も、私はどうやら再発しやすい体質の持ち主であるようなので、それを防ぐためにも薬を服みつづけねばなりません。

 毎日欠かさず薬を服んでいるから、曲がりなりにも体調はよいのかというと、日によって偏頭痛に悩まされたり、胸苦しさに襲われたりします。去年はそういう日が何日もつづくことがありました。
 しかしいまでは、「きたな」と思うことがあっても、不快な気分が一日じゅうつづくようなことはなくなりました。しばらく横になっていれば治まったり、なだめすかしながら庭仕事をしていたりすると、いつの間にか去っていたりします。

 すっかりなくなってくれれば、それに越したことはありませんが、毎日毎日おかしな状態がつづき、次第に心も弱って、このまま逝くのかもしれない、と不安にさいなまれた日々を思い返すと、ときたま、それもほんのしばらく我慢していれば、遠ざかって行く、という現在の状態はじつにありがたいことである、と思えるようになりました。
 治ってほしいと思って薬師如来に願をかけたことはありませんが、よくなったのは私のような者にも薬師如来のご加護があったおかげであろうと考えて、毎月八日の縁日には薬師詣でをせむ、と決めたのです。

 さて、薬師如来をお祀りしているところといっても、近場でとっさに思い浮かぶのは、市川にある下総国分寺、我孫子の興陽寺、柏・鷲野谷の醫王寺、同じく柏・酒井根の薬師堂ぐらいしかありません。四か所とも一度ずつ訪ねて、御堂を見ています。
 薬師詣でというと、数に決まりはないようですが、一日にいくつか巡るのが本来のようです。しかし、私が思い浮かべた四つの御堂は離れ離れに点在しているので、一日一か所しか行けません。
 と、なると……と心を巡らせると、一番心を惹かれるのは柏の醫王寺です。しかし、距離的には四つの候補の中では一番遠い場所にあります。

 迷っているうちに、時間は昼を過ぎてしまったので、酒井根の薬師堂に行くことに決めました。
 この薬師堂と馬橋の萬満寺はなんの関係もありませんが、萬満寺の終い不動(しまいふどう)の催しは午後三時までだったので、時間的にはどこもそんなものかと考えると、間に合うように行けるのは、酒井根しかなくなりました。

 決めたあとも迷いのようなものが残っています。それは、ほかの三つがいずれもお寺の境内にあるのに対して、こちらは無住の御堂である、ということでした。



 酒井根の薬師堂までは、歩いておよそ一時間かかります。途中でかつて水源を探索して歩いた富士川を渡りますが、このあたりでは暗渠になっています。多分この道路の下を流れているはずです。

 裏口から迫った薬師堂はひっそり閑としていました。



 御堂の脇を抜けて前に回ると、予感は当たっていました。
 扉は閉まったままで、錠前が下ろされています。何か催しがあったけれども、早めに終わってしまった、という余韻は感じられません。持参の線香をあげようと思いましたが、小さな賽銭箱があるだけで、香炉もありません。

 何はともあれ、お賽銭をあげて……。
 自分の願はかけないけれども、他人の幸せや病気治癒を願うのは抵抗がないし、奥ゆかしいヤツじゃ、とお薬師さまが聞き届けてくださるような気もするので、最近交流を始めたばかりのメル友が転んで尻の骨を打ったというのと、慢性の病を抱えているもう一人の友のために、一日でも早くよくなるように祈願致しました。

 中を覗いてみようと近づいてみましたが、磨り硝子なので何も見えません。
 どんな仏像が安置されているのか気になるところではありますが、まあ、イワシのアタマも信心から、
というぐらいですから、中には何もなかったということでも構わないわけです。

 この薬師堂の創建は正長元年(1428年)と伝えられています。
 四百年後の安政二年(1855年)になって、河瀬鳳瑞という人が堂守りになりました。武蔵国葛飾郡長島村(現在の江戸川区東葛西)の梵音寺というお寺の住職でした。
 それまでは荒れ果てた御堂だったようで、この人の手によって境内の清掃と整備が進められました。
 御堂の後ろには四国八十八か所を模した石像が建立されていますが、これを建てたのも河瀬鳳瑞です。実際に四国八十八か所を巡って、それぞれの土を集めて帰り、石像の下に埋めたと伝えられています。
 梵音寺というお寺はいまも東葛西にあるようですから、いつか訪ねてみようと思います。



 御堂の左に、薬師堂の由来を記した、このような説明板が建てられています。
 無住なので誰の手によって管理されているのかわかりません。無縁仏ではないけれども、昔は村落の住民たちが共同で管理していたものが、時代を経て、顧みる人がいなくなってしまった、ということではないのか。

 そのように思っていたら、クレジットに柏市文化財保護委員会、柏市教育委員会と並んで、すぐ近くにある龍光寺、とあったので、この御堂を管理しているのは龍光寺なのであろうと思って、寄ってみることにしました。



 石段を降りると、四国霊場八十八箇所○(最後の一文字・○の部分だけ読めませんでした)と刻まれた石碑があります。
 文化九年(1812年)、いまはバス通りになっている御堂の入口に道しるべとして建てられたものです。昭和の初め、バス通りが改修されるのに伴って、ここに移されたのだそうです。

 


 龍光寺の山門(画像上)と安永二年(1773年)建築の本堂です。
 こちらもひっそり閑としていました。いつもの例で、私が訪れる寺院は十中八九人影がありません。
 庫裡を見ると、窓にはカーテンがかかっていて、物音もしません。子ども用の自転車が置かれていたので、たまたま一家揃って外出、ということだったのでしょう。
 本堂前に線香とチャッカマンが置いてあったので、お賽銭をあげて線香をいただくことにしましたが、よくよく見ると空っぽの火鉢が置いてあるだけで、ここも香炉がない。線香はやむなく持ち帰ることと相成りました。

 龍光寺を出ると、すぐ近くに南柏駅に出るバス停があります。なんとなく消化不良のような気分で歩いていたら、バスがやってきたので、とっさに乗ってしまいました。

 この日はちょっぴり暖かい日でした。油断したのかもしれません。慣れぬことをしたからかもしれません。
 病気が治った御礼参りと友人の病気平癒の祈願に行ったのに、風邪をもらって帰ってくることになりました。