昨日は小寒。私は今年初の通院。
病院に八時に着くために、北小金駅で電車に乗るのは七時五分。庵を出るのはギリギリですが、六時台です。いまの時期だとちょうど日の出の時刻。
天気の佳い日がつづいているのに、駅までの道は陽光が家並みで遮られているので、空が明るいだけで、陽射しの恩恵を授かることはできません。今冬から私の防寒必需品となっているスヌードの上にマフラーを巻いていても、駅までの道は超々チョー! 寒い!
元旦に北千住の七福神巡りをしたとき、帰りは北千住駅の東口に回って、柳原地区を歩いてみるつもり(七福神はすべて西口)でしたが、やはり疲れたのか、駅に戻ったときにはそれ以上歩く気力を失っていました。
そこで月に一度の通院帰りは恒例の(少し)遠くへ行く日なので、あまり遠くはないけれども、行ってみようということにしたのでした。
柳原、といっても、何か特別なものがあるわけではありません。細い路地が走り、ゴミゴミ(いい意味で)した街があるだけです。
私が生まれたのも同じ下町ですが、これほどゴミゴミしていない。いってみれば、同じ下町というだけで、似ても似つかぬ街なのですが、ずっと昔に一度だけ柳原周辺を歩いたとき、なんとなく懐かしいような想いがして、いつ知れず涙がこみ上げてくるような想いを味わったことがあるのです。
それから幾星霜……。ゴミゴミはまだ変わらずにあるだろうか、という想いを懐いて再訪です。
浅草に棲んでいた時分もときどき北千住にきていました。
ルミネという駅ビルがあり、そこには浅草にはない近代的なステイショナリーショップと無印良品があったからでした。浅草からなら、日本橋へ行って、丸善でも覗いたほうがよさそうなものでしたが、なぜか足は北千住に向くのが常でした。
北千住は駅の西口と東口ではまるで街が異なるようです。私は東口のほうが好きでした。
駅東口の商店街・学園通りにあるサンマルクカフェ。
文具や本を買ったあとはこの店の二階に上がり、窓辺の席が空いていればそこに坐ってコーヒーを飲みながら、街行く人を眺めておりました。
痕跡は何も遺されていないとわかっていましたが、まず旧水戸街道を訪ねることにしました。西口を走る宿場町通り(旧日光街道)が荒川にぶつかるところで旧水戸街道が分岐していました。
上の画像は東武鉄道のガードをくぐるあたり。この少し先に荒川を渡る渡しがありました。
下の画像は旧水戸街道に面した日蓮宗清亮寺。元和五年(1619年)の創建。
かつて門前には街道を跨いで枝を伸ばす松があったそうです。槍掛けの松と呼ばれる老木で、その名の由来は水戸光圀です。
大名行列を先導する槍持ちは、いかなる理由があろうとも槍をまっすぐ立てたまま歩く、というのが決まりでした。ところが、道を跨いで伸びている枝があるので、槍を立てたまま通ることができません。
邪魔をしている枝を伐り落とす、ということになったのですが、光圀が見事な枝を伐ってしまうのはあまりにももったいないので、一度槍を枝に立てかけて休み、出立するときは枝の向こうに回って槍をとれば、槍を寝かせたことにはならない、というイキな計らいをしたのだそうです。以後、ここを通る大名行列は等しく松の下で休息をとるようになったといわれます。
こうして折角残された老木も昭和二十年ごろに枯れてしまったそうです。
荒川の土堤に上がりました。手前から東武鉄道、つくばエクスプレス、JR常磐線、東京メトロ千代田線と四本の鉄橋が並んで荒川を渡っています。
下は土堤から見た東京スカイツリー。さすがに川風は冷たかった。
柳原地区にはそこらじゅうに幅1メートルあるかないかという細い路地があります。
幾星霜前、どこをどう歩いたか、記憶にはありませんが、こういう路地に出くわすと、少しも変わっていないという気がします。
住所表示を撮した下の画像はとくに意味のある画像ではありません。確かに柳原を歩いたのですよ、というアリバイ証明みたいなものです。
テキトーに歩いていたら柳原千草園という公園に着きました。冬枯れで園内全体が寒々しい中に、まだ花をつけている石蕗(ツワブキ)がありました。
柳原千草園前の眺め。
上を行くのが京成電鉄、下が東武鉄道。このあたりの鉄道は線路が飴みたいにグニャグニャ曲がっています。
桁下高さ1・7メートルと大書された東武鉄道のガード。実際は185センチ(身長177センチの私がくぐったときの感覚で)ぐらいあると思われますが、思わず首を竦めてしまいます。
京成関屋駅(上)と東武の牛田駅(下)。関屋駅をカメラに収めたあと、グルリと振り向いただけで、一歩も動くことなく撮った画像です。
ところどころに古そうな建物が残っていました。上は千住東町の八百屋さん、下は北千住駅東口からつづく学園通りを抜けたあたりのマッサージ院です。
千住常東小学校前に建つ甲良屋敷跡の記念碑。
甲良家とは近江の国・甲良荘から出た大工の棟梁で、代々徳川幕府に仕え、江戸城、日光東照宮など大規模な建築物にはすべて関わった家柄です。このあたりは敷地一万坪といわれる甲良家の別荘があったところ。
北千住は銭湯王国といわれるほど湯屋の多い地域です。柳原の大和湯(画像上)から五分も歩かないうちに美登利湯があり、そこから六分、北千住駅近くには梅の湯(画像下)があります。
駅を中心にして半径1キロ以内に十三軒もの湯屋があるのだそうです。入浴料は四百五十円と千葉に較べると三十円高いけれど、湯屋に通うとしたら、二十分近くも歩かねばならない私には羨ましい限り。
こんなフリーペーパーも発行されています。
若い人はどのように呼んでいるのか知りませんが、銭湯とはいわずに湯屋といい、それも「ゆや」ではなく、「ゆーや」と発音するのが東京の下町言葉です。
この日も最後はサンマルクカフェに入って、コーヒー+柚子入りのタルトを摘みながら、道行く人を見下ろして、街巡りの締めくくりと致しました。
地図を見ていて、隣の流山市にやや広めの緑に塗られた公園が二つあるのに気づいたので、そこを訪ねました。
初めて行くところなので、迷わないように遠回り覚悟で国道6号線を歩きました。国道に出るためには小春が出没する流山・前ヶ崎の香取神社前を通って行きます。
国道に出るのに香取神社を経由して行くのは、じつは少し遠回りなのです。さらに、うさ伎(うさぎ)のいるところを通ろうとすればいっそう遠回りなのですが、遠回りに遠回りを重ねた私の期待に反して、うさ伎も小春もいませんでした。うさ伎のために帆立貝の食器にキャッティと懐石とミオを混ぜたおやつを置き、小春のために香取神社にも同じものを置いて散策の始まり。
国道6号線の名都借(なづかり)交差点を左折。そして適当なところで右折。
が、我が庵を出てからすでに三十分ほど経過しましたが、公園らしきものがありません。地図に塗られた緑色の広さからいうと、そのへんにあるような小公園ではないはずです。
おかしいなぁと思い始めたころに、こんな標識に出くわしました。私は矢印が示している方向から歩いてきたのです。
レレレッと独り言を呟いて引き返すと、「レ」の字をひっくり返したような折り返しがあって、その先に公園がありました。
行けば公園とわかるものの、入口には焚き火禁止という標示があるだけで、公園を示す標示はなし。
木製遊具もあって、1・7ヘクタールと結構広い公園です。季節のせいか、もったいないぐらいに人がいない。
園内にはゲートボール専用場がありました。
流山市はそれほど大きな市ではない(人口も面積も)のに、我が庵近くには野球場が二面とキャンプ場まであることなどを見ても、土地に余裕があるんだなぁと感じさせます。
別の場所でもゲートボール場を二面も持った空き地を見ました。とっくりと調べてみたことはありませんが、心なし公園の数も多いように思えます。
ゴルフとゲートボールは似て非なるものかもしれませんが、私はゴルフというスポーツにまったく魅力を感じず、やったことがありません。ついでながらサッカーにも……。
それでもいつか、私もこういうものに夢中になる日がくるのでありましょうか。くるとしたら、何年後のことでありましょうか。
次の「松ヶ丘3号散策の森」は地図を持っていたのにもかかわらず、最初は逆方向に歩いていました。
私が生まれた街と育った街とは300キロ以上も離れていますが、両方とも戦災に遭ったという共通点があって、私が生まれたころには碁盤の目のように道路が整備された街でした。
いまではそうではない街に暮らすほうが長くなってしまいましたが、道路は直角に曲がってまっすぐ走り、決して斜めに走るものではない、という思い込みが抜けないものとみえます。
「松ヶ丘ふるさと公園」という標識の建ったところから入ったはずなのに、出口(どっちが出口か入口なのかわかりませんが)には「松ヶ丘3号散策の森」という標識。
ハテ、二つの公園の境目があったのだろうかと戻ってみましたが、境目の存在はわかりませんでした。
杉のほかは落葉樹が多く、いまの季節は寒々とした印象しか受けませんが、葉の茂る季節であれば、森林浴の真似事ぐらいできるかもしれません。
気温は昨日と変わらないようですが、無風だったせいか、背中に太陽を浴びて歩いているとポカポカして気持ちがいい。体調も昨日よりはよいようです。
菜の花が咲いていました。もう咲く季節なのでしょうか。いかにも気が早いのではないかとも思えますが……。菜の花ではないのかもしれない。
ポカポカ陽気も三時を過ぎると、まだ陽射しはあるのに、いっぺんに冷えてきます。
帰途、吸い寄せられるように寄り道をしておりました。
梨畑の片隅には、昨日は(確か)なくなっていたマットが元どおり敷いてあって、そこで日向ぼっこをしているうさ伎がおりました。私に気がつくと、「ニャー」とひと声鳴いて、径に降りてきました。行きに置いて行ったおやつはきれいになくなっていました。
早速トートバッグからプラスチック容器に入った魚カップを取り出して食べてもらうこととします。
魚カップは初めて買ったものなので、匂いも初めて嗅ぎますが、ヨーグルトについているような蓋を引き剥がすと、ツナ缶を開けたときのようないい香りがします。
気のせいか、うさ伎が「オッ」という表情を見せたように思えました。
たくさん食べて早くきれいな毛並みに戻すんだよ、と私は慈愛の目で眺めています。
食べ物が違うせいもあるのかもしれませんが、最初のころはがっついて食べていたのに、食べ方に落ち著きが出てきたようにも思えます。
ただ、気になったのは一羽の鴉メです。
梨畑の上にはネットを被せるための鉄線が張り巡らせてあるのですが、すぐ近くの支柱に止まって啼いておりました。
前にも一度同じようなことがありました。そのときは格別気にしませんでしたが、今日は仔猫だと侮って、餌を奪おうとしているのかもしれないという気になりました。
うさ伎がときおり箸を休めるようにして周りを見回すのも、ライバルの猫ではなく、鴉の動きを警戒しているのかもしれません。
追い払ってやろうと小石を投げたりすると、執念深くつけ狙われると聞いているので、わざと音を立てるように、勢いをつけて立ち上がる素振りをすると、鴉メはヒョイと飛び立ちましたが、少し離れた電柱のてっぺんに止まり直して、カァカァと啼いています。
まだ仔猫なので、成猫用では少し量が多かったようです。三分の一ほど残すと、腰を下ろして見守っている私のほうに向き直り、「ニャー」と鳴いて私に身体をこすりつけながら周囲をひと回り。
ひと回り回り終えると、私のすぐそばに坐って、顔を洗ったり、毛づくろいをしたり……。すっかりリラックスしています。
私を見上げることもあって、まだ撮っていない顔を撮るチャンスなのですが、蹲踞の姿勢で腰を下ろしている私の脛の下をくぐって尻の下を回ったあと、突然顔を出したり、両前脚で交互にこんなことをしている間に、ヒョイと見上げたりするので、まだ撮れずにいます。
風はさらに冷たくなったようなので、今日の日はここでお別れ。明日も暖かければ、冷蔵庫にしまってある牛乳を持って行きましょう。
今日、ラグビー大学選手権2回戦。メイジは1回戦の中大戦(68対5)につづいて、60対7と流通経済大に大勝。明くる一月二日に早稲田メと再戦です。
↓うさ伎のいるあたりから「やまびこ公園」~「松ヶ丘3号散策の森」の参考マップです。
http://chizuz.com/map/map80937.html
一昨日は暖かな一日でした。午後、散策に出たら、冬のコートを着ていたので、歩きつづけているうちに汗をかいてしまうほどでした。
我が庵から歩いて二十五分ほどのところ-JR常磐線の駅でいうと、北小金と南柏の中間に、行念寺という浄土宗のお寺があります。
二十五分といっても、これはインターネットの地図で最短距離を検索した場合で、これまで歩いたことのない道をクネクネと辿らなければなりません。距離の遠近とは関係はないものの、このへんは市境の入り組んだところで、我が松戸市から流山市に入り、再び松戸市に入るとすぐまた流山、そしてようやく柏市に入って行念寺に到るのです。
道を間違えずに行こうとすれば、北小金駅まで逆行し、そこから旧水戸街道を歩くことになるので、四十分はかかります。
小さなお寺なので、とくに見るべきものはありません。ここだけを目的に、往復一時間半近くもかけるのは少し億劫です。
が、ちょっとした因縁が生まれたので、お参りに行かなければならない、という気になっていました。
改めてインターネットの地図を見て、先のように近道があるのを発見しました。常磐線と国道6号線を渡れば、すぐという感じです。しかし、常磐線は跨線橋かガードがなければ渡れないので、これが面倒だし、面倒と思ってしまうことが道を間違える元です。
富士川を辿ったときにくぐった砂尾ガードで常磐線を越すので、小春の出没する前ヶ崎の香取神社に寄って行くことにしました。しかし、この日も小春の姿は見えませんでした。
拝殿の欄干下に、日清製粉の懐石を置きました。キャッティより高級なので、小春が驚き、喜び勇んで食べる様子が目に浮かぶようです。
神社の少し手前の畑地で蝋梅を見つけました。七本ありましたが、まだ数輪咲いているだけです。
砂尾ガードをくぐって常磐線を越え、頭の中にたたき込んだつもりの地図を思い返しながら、脇道に入りました。途中で右に折れて旧水戸街道のほうに向かう道がなければいけないのに、行き止まりのように見えたので、曲がらなかった道が二本。
そうして、なんか見覚えのあるところに出たぞと思えば、行念寺を600メートルも行き過ぎた向小金の香取神社でした。北小金駅まで逆行するよりは早かったけれど、所要時間は結局三十分をオーバー。
境内に入るとすぐ左にこのような石碑が建てられています。
以前、南柏から旧水戸街道を歩いて帰ってきたとき、たまさか前を通りかかってこのお寺があることを知りました。小さく、本堂もコンクリート造りだったので、門前を行き過ぎようとしたところ、この石碑が見えたので、どんなことが刻まれているのか、と思って入ってみたのでした。
そのときのブログ(十一月一日)にも記しましたが、碑文には東漸寺の開山・經譽愚底(きょうよ・ぐてい)という人がすぐ近くにある常行院、柏市鷲野谷の醫王寺とともに開いた寺院であると刻まれています。
鷲野谷の醫王寺にはちょっとした因縁があったので、そのうち行かなければ、と思っていたところ、予期しなかった場所で因縁の名に出会って、早速行くことになったのでした。
醫王寺には早晩行ったのではありましょうが、このお寺の石碑を見て、すぐに行こうと思いついたわけですから、お礼参りのようなことをしておかねばならぬと考えながら、ついつい先延ばしになっていました。それを果たしに行ったのです。
改めて碑文を読んでみました。前は「醫王寺」という文字が目に入って、恐らく意表を突かれたのでしょう。そのすぐあとに經譽愚底さんの無縫塔がこの墓所にある、と刻まれているのを読み飛ばしていました。
もっとも初めてこの碑文に接したとき、私には經譽愚底さんへの関心はなかったのですが……。
墓所もこぢんまりとしているので、古そうな墓石はすぐ見つかりました。
卵形をした無縫塔の下、竿と呼ばれる四角い石には「當寺開山經譽愚底上人墓」と彫られています。
碑文には、上人の「無縫塔」と記されていますが、「墓」とは記されていません。墓は醫王寺にあると知らされていたので、軽い驚きと戸惑い。
されど、考えてみれば、複数の墓があるのは決して不思議なことでもない。
この日、私は一束のお線香を持ってきていましたので、焼香して、因縁を結びつけてもらったことを感謝しました。
墓所を出て本堂に近づこうとすると、並びの庫裡からチビ犬がキャンキャン吠えながら走り出てきました。
いきなりだったのでびっくりしましたが、おもむろに体勢を立て直して、蹴飛ばすぞ、という意欲を持ちかかったとき、庫裡からは犬をたしなめる女性の声につづいて、「驚かせてすみません。でも、噛みついたりはしませんから……」という声。
やがて大黒らしきご婦人が「すみません、失礼をして……」と謝りながら出てこられました。犬(私が見たところ、トイ・マンチェスター・テリア)はご婦人の胸に抱かれてなお私に向かって吠えつづけています。
ご婦人が庫裡へ戻ろうとしたので、「お賽銭をあげたいのですが……」と問いかけました。本堂前には賽銭箱が見当たらなかったのです。
「ご覧のような小さなお寺で、お参りしてくださる方もおりませんので」
そういうあとをついて行くと、硝子張りの扉に小窓が切ってあって、その向こうに賽銭箱がありました。
お参りを終えると、庫裡に帰ってしまったと思ったご婦人が木陰から姿を現わしました。手に持っていたのは小さな蜜柑の実二つ。今年初めて実をつけたものだということです。「どうぞ、お持ち帰りください」と私に差し出します。
行くアテなどないのですが、昔々行ったことのある京都東山の安養寺。ここは浄土宗の開祖・法然上人が比叡山を下りたあと、最初の草庵(吉水草庵)を結んだお寺です。そこにお供えしたいものだと私がいうと、「どうぞ、おなかにお納めください」。
ほのぼのとした気持ちになりました。
旧水戸街道を南柏駅まで歩き(行念寺からは二十分弱かかりました)、ダイソーを観察したあと、タリーズコーヒーで一服しました。
手で触れる形式の自動ドアを開けると、一斉に「いらっしゃいませ、こんにちは~♪」と黄色い声の三重唱が私を迎えてくれました。二十代前半の美女ばかり三人と見えました。店内は西日が射し込んで、とりわけ明るかったこともあって、私は眩しいような気持ちになってしまいました。
ケンタッキーフライドチキンやロッテリアは最近こそあまり行きませんが、よく入ったことがあるので、どんな種類の食べ物と飲み物があり、壁に掲げられたメニューの、どのあたりに自分が食べたり飲んだりしようと思っているものがあるのかわかっていますが、滅多に行かない(というよりも近場に店がない)タリーズやエクセルシオール・カフェのたぐいは、メニューを見てもすぐには判断がつきません。
やっとコーヒーと書かれているのを我が目で認めて、大(トール)を頼むと、注文を受けたお嬢さんが「トール・ドリップ」と叫び、どこからか「トール・ドリップ」、それを承けてまた一人が「トール・ドリップ」と三人で輪唱してくれます。
私が立ったところからは品名が隠れていて読めなかったので、「それから、一番左にあるサンドイッチを……」と頼むと、また「なんとかかんとか」「なんとかかんとか」と三人の輪唱です。
まだ私が若かったころ、私が行くような店で、多数の若いお嬢さんが接客してくれるのは酒場だけだったように思います。必ずしもそういうお嬢さんが目的で行くのではないけれども、行けばいるとわかっているので、私がシートに坐るやいなやゾロゾロとお出ましなさるのに、別段驚きもしないし、緊張もしない。しかし、このような喫茶店だと私は眩しくて仕方がない。ま、あと一、二回、行く機会があれば慣れるのでしょうが……。
席に坐ってコーヒーにミルクを入れ、少し落ち著いたところで厨房のほうを見ると、美女ばかり三人と思ったクルーが、美女ばかりと表現していいものかどうか……と思えるようになります。されど、私の緊張は解けません。一服してリラックスするために入ったはずの店で緊張していたのでは、なんのために入ったのか、わけがわからない。わけがわからないから、二度と行かないぞという店ではない。私は六十を過ぎて、ますます晩熟(おくて)になって行くようです。
願わくばこういう若いお嬢さんとお寺の話でもしたいものだ、と思いながら店をあとにしました。
本土寺はこの十五日から来月末まで無料開放となりました。名高い紅葉はほとんど名残もありません。山門や鐘楼堂では大掃除が始まっていました。
広い境内に、ほんの二本か三本、紅葉を残している樹がありました。残り香ならぬ残り紅葉というのも佳いものです。
行念寺さんでいただいてきた蜜柑です。本当に小さくて、小さいほうは直径5センチもありません。
ふと、あの石蕗(ツワブキ)を見に行こうという気になりました。かつての勤め先があった市川大野駅近くに咲いている花です。
ツワブキは知っていても、花を咲かせるとは知らなかった私が、初めてそのことを教えられたのがその花でした。
ただ、その勤め先には重苦しい思い出しかないので、「市川大野」と聞くだけで口の中が苦くなるような思いがしていました。それが増幅されたものか、市川大野というところのすべてが忌むべきところに思えました。
ツワブキの花も見てみたい、ときおりミオを食べてもらった野良のオフグたちが元気にしているかどうかも気に懸かる……。
しかし、二度と行くことはないだろうと思っていました。
ところが、なぜか急にそんなわだかまりが溶けてなくなったのです。
別に勤務先に顔を出すわけでなし、万が一、だれかと顔を合わせたとしても、春風駘蕩+飄々+恬淡、という感じで受け流しておけばいいじゃないか、と。
おぢさん、なんのために歳をとってきたのですか、と。
で、七か月ぶりに市川大野駅に降り立ちました。
真っ先にツワブキを見に行きましたが、そのあとでオフグたちを訪問するのは当然としても、すぐ近くにありながら、行く機会のなかった萬葉植物園と平將門が勧請したという言い伝えのある天満天神宮もついでに訪ねてみようと、身も心も軽い思いで歩き出しました。
市川大野駅から歩いて三~四分のところ。今年も見事な咲きっぷりです。ただ、私が知る限り、咲いているのはこの一画だけです。
ツワブキに気を取られていて、ふと気がつくと背後に何かの気配。
あれ、こういうことはいつかもあったな……と思いながら振り返りつつ、おお、そうであった……と思い出しておりました。
去年、勤め帰りにこのツワブキを見てみようと寄り道したとき、背後に人がいるような気配を感じた、と思ったら、私の脚に身体をすり寄せてきた野良の猫殿がいたのです。
夜だったので、毛並みをはっきりと見ていませんが、同じ場所で、野良でありながら人懐っこいというのは、同じ猫殿と断言していいと思います。早速ミオを……。
さて、次はオフグ一家です。
最後に見たのは勤めを辞めるときですから、今年四月上旬。そろそろ八か月が経とうとしています。ちょっと胸がワクワクするような気持ちと、もしかしたらもういないのではないか、という気持ちを交錯させながら、いつもいたところに着きました。
ところが……いない。先ほどの野良殿に、一袋の半分を贈呈してしまいましたが、今日はオフグたちに会えるかも、と考えたので、40グラム入りの袋を四袋も持ってきていたのです。
いつもオフグ一家のいたねぐらです。
道路にある白いものはごみ袋ですが、二か所ある塊の真ん中あたりがねぐら(いつも仔猫殿がここから顔を覗かせていたので、多分)です。
十数メートル離れた家の門柱の上や玄関前の石段で見かけることもあったので、そちらへも行ってみましたが、やはり姿はありません。
たまたまどこかへ出稼ぎに行っているのか、あるいは子どもたちは独立して、それぞれ縄張りを持ってしまったのかもしれません。
バッグから取り出していたミオを味気ない思いを味わいながら、再びバッグに戻す私。
駅前からつづくバス通りを横切って、中世、大野城があった高台に向かいました。上り切ったところに市川市萬葉植物園があります。万葉時代の人々が愛で、生活の糧ともしていた草木を中心に一五五種の植物を集めています。
前々から覗いて見たいとは思っていたのです。ことに今年の正月、筑波山神社へ初詣に行こうかと考え、結局は行けなかったのですが、ツクバネソウという草があるのを知りました。秋になると黒い実を結び、その実は羽根突きの羽根に用いられた草です。それがこの植物園にもある、と知ったので、是非に、と思いを強くしていたのです。
私が勤めていたころ、出勤する時間は開園時間前、帰る時間はとうに閉園、という状態だったので、五年間近くを通りながら、ついに一度も覗いてみる機会がありませんでした。
坂を上りながら、入園料の用意をしておこうと小銭入れをまさぐりました。
ところが、なんと財布がない!
出かける前、いつもは鞄にバラバラに突っ込んでいる長財布と小銭入れをポーチにまとめていました。買い物をしたときに、長財布はすぐに見つかるけれども、小銭入れが鞄の奥深く沈んで見つからない、ということが往々にしてあったからです。
結局、お札で会計を済ませるので、小銭入れを持っていながら、どんどん小銭が貯まって行く。そういう悪循環に終止符を打たんものと知恵を働かせたのですが、そっくり忘れてきたのでした。
電車賃を払う必要があれば、くるときに気がついたはずですが、幸か不幸か、スイカを持っているので、気づきませんでした。いつかもこんなことがあったような……。
まったく余計なことばかりして、どうしようもないオヤジだなぁと呆れながら、入口直前まできていたので、そのまま入口に到り、掲げられた利用上の注意書きを読みました。開閉園時間、休園日が書かれた最後に「入園無料」とありました。
前に下総国分寺を見に行ったときに通りかかった郭沫若記念館も入場無料でした。市川市はお金に余裕があるようです。
いまの時期はほとんど花がありません。多年草の草も葉を枯らせてしまっているものがほとんど。
上・野路菊(ノジギク)、下・足摺野路菊(アシズリノジギク)。
翁草(オキナグサ)。
……と数少ない緑と花を見ながらツクバネソウを捜しましたが、見当たりません。さほど広い敷地ではないので、もう一度巡ってみましたが、やはりありません。
捜しあぐねた挙げ句、水遣りをしている職員を見かけたので、訊ねてみました。なんと無情にも、去年枯れた、というのです。
その人は話し好きの上に、植物採集と植物の世話が大好物というおじさんで、ツクバネソウ目当てにきてくれたのは残念だけれども、大変うれしいといって、その他もろもろの話を聞かせてくれました。ツクバネソウは宿り草なので、草だけ採取すると、やがて枯れてしまうということ。栽培するつもりなら、種から育てるのがいいということ……。その間、立ったまま三十分。
次は天満天神宮です。
植物園を出ると、入口すぐ横にあった跨線橋で武蔵野線を越え、歩いて六分ほどで市川市立五中に着きました。
校庭が大野城主郭のあったところです。が、遺構は何もありません。周辺には、かすかながらも土塁跡が遺されているようですが、見当のつかないまま眺めても、どこにあるのかわかりません。
伝承ではこの城を築いたのは平將門だといわれていますが、昭和四十四年と五十四年の二度にわたる発掘調査の結果、將門の時代(十世紀)ほど古いものではなく、十三世紀の遺構としか判明しなかったそうです。
目的の天満宮は城の鬼門に当たる方角にあります。従って將門が勧請したという言い伝えが遺されているのですが、城を築いたのが別人であれば、天満宮もその別人が勧請したものです。
学校は崖っぷちに建っています。校門すぐ脇からかなり急な下り坂。
谷に当たるところを天満天神宮を捜して歩いている間、道路に案内標識が出ていたり、墓所が見えたので寄ってみた充行院(画像上)と礼林(らいりん)寺。二か寺とも日蓮宗の寺院なので、参拝はしません。
このほかにも、かつて大野城内にあった本将寺、法蓮寺、浄光寺、本光寺と、市川大野というところにある寺は日蓮宗ばかりです。
しばらくさまよったあと、ようやく天満天神宮を見つけました。急な石段の上に小さな祠だけがありました。
市川市教育委員会が石段下に建てた説明板によると、菅原道真を描いた掛け軸があって、そこに「平親王將門公、皇都天満宮、下総大野ニ移ス」と由来が示されている、とありますが、その掛け軸がどこにあり、時代的にはいつのものなのかは説明がありませんでした。
天満天神宮から市川大野駅までの途中にある、天満天神宮の別当・本光寺です。ここにも將門ゆかりの天満宮が建てられていました。画像下は本堂。町にある医院の玄関を思い起こさせます。
この寺を出たあとに思い出したのですが、以前、この前を通ったことがあります。そのときは本堂の建設工事中だったので、入りませんでしたが……。
風邪ひき四日目。グスグスしていた洟水が治まったようなので、朝の散策に出ました。
庵を出てほんの二、三分のところ。名前を憶えたばかりの貝殻草が咲いています。朝の冷たい空気は苦手なようで、ピッチリと花を閉じています。ハハーン、貝のように開いたり閉じたりするので、貝殻草(?)。
いまの時節、日の出は六時過ぎ。我が庵は本土寺近くの高台にあるのですが、東方には富士川を挟んで流山・前ヶ崎の高台があるので、実際に太陽が拝めるのはもう少し遅いのです。
わりと暖かい朝、と思って外に出ましたが、さすがに朝の冷気は厳しくなっています。朝露も寒々しさをかき立てます。もう一枚何か着ないとヤバイ! と感じて一度引き返しました。
玄関を入る前に庭を覗くと、バサッという音。
見れば、前の家の飼い猫です。私に気づいて、ちょっとだけ逃げましたが、余裕綽々でこっちを振り返っています。「このォ~」と足を踏み鳴らして威嚇してやると、一目散に逃げて行きました。
ときおりコヤツが私の庭にいるのを見かけます。朝、カーテンを引く音に愕いて逃げて行くのを見るのもしばしば。そしてこの一週間ほどで、ハハーンと気づくことがありました。
苗を植え替えようと庭の土を掘り返し、小石やドクダミの根を抜いて篩った土を入れ直しているのですが、細かい土に入れ替えたところはスポンジケーキのように、ふんわりと柔らかくなっています。そこに猫のものらしき足跡を見つけるのです。
入ってくるだけなら、威嚇して追い払ったりはしません。なぜ追い払うのかというと、柔らかくした土を掘って、苗のための溝をつくると、やられた! ということがあるのです。なんと糞をする場所に我が庭を選んでいやがった!
野良を見るとついミオを出してしまう私は、食べ物を与える以上、野良も糞をせねばならぬということは知っています。野良を嫌う人たちの悩みと怒りの対象の一つがそういうことだとも……。
その飼い猫は黒と白の斑(ぶち)で、わりと身体もデカイ♂です。
何か月か前、その斑と、どうやら野良のオイチらしい♀が我が庭で睨み合っていたことがあります。睨み合いのあと「フニャーッ」ととっくみあいが始まって、オイチは呆気なく負けてしまいました。
そのオイチや一家の三姉妹たちの糞であれば、私はヤレヤレと思いながらも、決して追い払ったりはしないつもりです。しかし、縄張り争いに負けたオイチが我が庭にくることはないでしょう。
だからよけいに斑が憎らしい。おまえには家があるんだろう? あるんならテメェんちでしろよ、と威嚇してやったわけであります。
家に入ってしばらくしてから庭に出て見ると、朝は気づかなかったところがへこんでいます。「ヤロウッ」と土を掻いてみると、やっぱりだ。
癇癪玉とパチンコを買っておいて、もしきたら一発お見舞いしてやろうと考えましたが、いまどき癇癪玉を売っているような駄菓子屋など近辺にはありません。
そのまま戻って家に居つづけたあと、太陽が充分に高くなった昼過ぎに再出発。
とくにどこを目指すというアテはなかったのですが、歩いているうちに、ツワブキ(石蕗)の花を捜しながら、坂川の始まりである野々下水辺公園へ行ってみようと思いました。
今年の秋は曼珠沙華も金木犀も開花が遅れたように、石蕗も遅いのだと思っていたら、ブログ友達のブログにツワブキの写真が載せられていました。
少なくとも松戸よりは寒い地方に住む人です。ということは、松戸でも見かけていいはずなのに、見ていない。そういえば、ときどき行く廣壽寺にある以外、周辺でツワブキの葉っぱを見た、という憶えがありません。
前は富士川と坂川に沿って歩いたので、今日は違う道を、と思って富士川べりには下りず、本土寺裏の道を直進。
前回野々下水辺公園へ行ったときに渡った御體橋(おたいばし)の一つ下流・八木乃橋(やぎのはし)で坂川を越えました。ここから先は流山市。なおも直進。
ツワブキの花はどこにもありません。野々下水辺公園へ行くためには、そろそろ右折するころかと思った交差点でこんな標識を見かけたので、どんなお寺か、行ってみることにしました。
標識の建っていた場所から八分もかかりました。我が庵からだと三十五分。
春山寺は曹洞宗のお寺で、創建は天文年間(1532年-55年)。当初は天台宗寺院。江戸時代初期に曹洞宗に改宗。
まったく知らずにきましたが、流山七福神の一つ・布袋尊が祀られていました。
松戸七福神巡りをしたとき、当初は七福神巡りをしようと考えたわけではありませんでした。お寺巡りをしているうち、徐々に七福神を巡ることになり、確か四つほど巡ったころに、どうせなら、ということで目的にしようと考えて、一応結願(けちがん)したという次第でありました。
流山七福神の場合も、流山の中心街近くにある流山寺、長流寺がそれぞれ大黒天、恵比寿神を祀っていましたが、あと五つを捜して巡ろうとは考えませんでした。
たまさかいまの住居に引っ越して、廣壽寺に行ったついでに参詣した清瀧院に寿老人が祀ってあったのを知っても、残り四つだとは考えませんでした。しかし、偶然四つ目に出会ってみると、むむ、という気にはなります。
ただし、庵に帰ったあとで調べてみると、残り三つは我が庵から非常に遠いのです。
中でも一番遠い福性寺(毘沙門天)は柏まで行って東武線に乗り換え、江戸川台という駅まで行かなければなりません。とても歩いて行けるところではありません。
が、このお寺にはムクロジ(無患子)の樹があるということですから、いつか行かなければならないということになりました。
ブラブラ歩いているうちに、浄蓮寺という日蓮宗の寺院の前にきました。寛永八年(1631年)の創建。眼病平癒の霊験あらたか、と知られているそうです。
浄蓮寺門前からは博物館か美術館を思わせる建物と一面の緑が見えました。行ってみると流山総合運動公園でした。博物館かと思った建物は体育館でした。
我が庵を出てからすでに四十分。知らず知らず随分遠いところまできてしまいました。
公園内には日曜画家ならぬ火曜画家が到るところでキャンバスに向かっていました。
歩き詰めに歩いてきた私はここで初めてベンチに腰を下ろして休憩。自分で握ってきた明太子と梅のお握りをパクリパクリ、ペットボトルに詰めてきた伊右衛門をゴクリゴクリ。
公園隣にある日蓮宗本妙寺のエノキ(榎)です。正中元年(1324年)の創建と伝えられていますが、詳細は不明。
本土寺近くまで戻ってきて、行き止まりかもしれぬが……と細い径に入ったら、ツワブキが咲いていました。葉叢は数か所ありましたが、花が咲いていたのは二つだけ。
この花を捜す散策だったはずなのに、歩いているうちにすっかり目的を忘れておりました。
この画像はかつての勤務先があった市川大野で去年見たツワブキです。これだけ立派な花にはなかなかお目にかかれない。
勤めを辞めたあと、市川大野へは二度と行くことはないだろうと思っていましたが、ツワブキが咲いているはずの場所は駅からさほど遠くないし、オフグ一家にも会えるかもしれないので、ちょっと行ってみるか、という気にもなりかけています。
本土寺裏の坂でドングリ(団栗)拾いをしていた子どもたち。
風の強い一日でした。しかし、強風は落ち葉を吹き散らすことなく、まるで掃除をしているように上手に集めて行きます。本土寺横で。
帰り途、貝殻草を見ると、充分な陽光を浴びて、パカッと開いていました。
昨四日は一か月に一度(正確には四週に一度)の通院の日でした。
先月は講習に出ていたので、指定されていた七日には行けず、十二日に薬だけもらいに行って、二十一日に診察を受けました。これまでは朝八時に行って採血、九時から受診という手はずであったのが、臨時だったせいか、十一時半に行って採血、受診は午後一時から、と変更になりました。
四週に一度であれば、次回は今月十八日のはずでした。ところが、前回の帰り際、担当医が「次はまた元に戻しましょう」というのを、「診察日は……」と付け足してくれればすぐに合点が行ったのに、いってくれなかったものですから、私は元通り八時出勤と思いながら診察室を出たのです。
しかし、なんとなく引っかかるものがありました。処方箋が出てくるのを待っている間、引っかかりが解消しなければ、戻って、「何を、(元に戻すの)ですか?」と訊ねようと思っていたところ、処方箋を見て合点が行きました。
次回の診察日が四週間後であれば、二十八日分の薬と書かれているはずのところに、十四日分としか書かれていなかったからです。
処方箋を渡してくれた、おちょぼ口のナースが「次わーあ」と、幾分哲学的な表情で念押ししてくれたのが昨四日午前十一時半の出勤でした。
通院の帰りは恒例の遠くへ行く日です。
石岡も行き、栃木、古河、佐倉と行ってしまったあと、上野から行ける(ちょっと)遠いところは即座に思いつかなかったし、これまでとは違って、病院を出るのが午後一時半という決して早い時間ではないので、与野のオオカヤ(大榧)を見に行くことにしました。
すでに見た市川・本八幡の千本公孫樹、小岩の影向(ようごう)の松の二本と同じように、日本の銘木100選のうちの一本であり、国指定の天然記念物です。
上野から京浜東北線に乗り、赤羽で埼京線に乗り換えて南与野で降りました。
南与野で降りるのは十数年ぶりです。仕事で埼玉大学を訪ねたとき以来で、景色の明確な記憶はありませんが、コンビニや多少の店ができたほか、駅前の風景は変わっていないように思えました。
うっすらと記憶に残っている埼大大通りの欅(ケヤキ)並木。十数年経っているので、ちょっとは高くなったのでしょうか。
南与野駅から徒歩十分。正面に山門が見えましたが、オオカヤと思えるほどの高木は見えなかったので、どこにあるのだろうと背伸びしながら歩いていたら、参道を外れた右手に聳えていました。
これはデッケェー! と圧倒されます。樹齢は推定一千年。樹高21・5メートル、根周り13・5メートル。駐車場になっている空き地が狭いので、カメラを引き切れず全容を写すことができません。
大榧の樹下には金毘羅天堂がありました。
妙行寺の山門と本堂。
日蓮宗のお寺です。開創年代は不明。カヤの樹はこの山門の右手、金毘羅天を祀るお堂の境内にあります。
本堂後ろにあるモッコク(木斛)。こちらは樹齢六百年。
上部は枯死してしまっています。頑丈そうな鉄製の支柱と張り巡らされたワイヤに支えられて命を保っています。幹周3・4メートル、樹高19・7メートル。埼玉県指定の天然記念物。
山門横の板石塔婆。梵字は阿弥陀如来を示すキリーク。その下に正元二年(1260年)の銘が彫られています。日蓮宗の寺院なのに、なぜに阿弥陀如来かといえば、古名は心浄寺といって、臨済宗の寺院だったからです。
このあと圓乗院というお寺を目指すことにしました。
私が歩いているのはさいたま市中央区。百万都市であるのに、野菜の直売所があったり、地場チェーンと思われるコンビニでも野菜の種を売っていました。道路沿いは家が建て込み、マンションなどもあって、農地などは見えなかったのですが、漂う雰囲気は田園地帯です。
この店の前に苗を売るコーナーがあって、苗を買うために与野へきたわけではないが、ハーブの苗でもあれば、一鉢二鉢なら荷物にもならぬと思って巡ったのですが、ハーブ類はありませんでした。
さほど広いわけでもない野菜直売所ですから、とくだん変わったところはありませんが、私にとっては予期せぬ店だったので、急に愉しくなって、野菜や柿などをためつすがめつしながら、三十分近く過ごしてしまいました。
柿は富有柿とも次郎柿とも書かず、ただ「柿」でした。まかり間違っても千疋屋などでは決して売らないような風体がよい。
心惹かれつつも買うのを断念した玉葱の苗(上)。五十本入って¥400。十本入りがあったら買ったかもしれません。
下の画像の中央は空豆、その右横はスナップ豌豆(えんどう)の苗。ともに一鉢¥50。こちらも手を伸ばしかけたり引っ込めたり……。
妙行寺から徒歩二十分で安養山西念寺円乗院に着きました。
建久年間(1190年-99年)、畠山重忠が現在地から3キロほど離れた道場(どうじょう)村(現在のさいたま市桜区道場)に創建した真言宗智山派のお寺ですが、慶長年間(1596年-1615年)に現在地に移建されたと伝えられています。
多宝塔。塔中央にはお釈迦様の真骨が奉安してあるそうです。塔の高さは30メートル、高野山、根来寺に次ぐ大塔だそうです。
大日堂と与野七福神の一つ大黒天。
本堂前の千代桜。エドヒガンの変種で、開花は四月初旬。樹齢三百年。樹高5・3メートル。
万霊塔。
もしかしたらアントニオ・ガウディがきていたのではないかと思ってしまいました。納骨堂だそうです。
向こう側にも石仏が林立しています。このお寺の誇りとするところは先の多宝塔だそうですが、私はこっちに興味を惹かれました。
帰りは一駅大宮寄りの与野本町まで歩いて電車に乗りました。
妙行寺でモッコクの実を拾ってきました。ツバキ科の樹木だそうで、なるほど椿と同じような、堅そうな殻に覆われていますが、大きさは椿の実の四分の一から八分の一程度。豆菓子みたいです。
樹木図鑑によると、千葉県以西の温暖な地に生育する樹木で、実は直径1・5センチとありましたが、私が収穫したものはどれも1センチそこそこしかありませんでした。
すっかり寒くなりました。おまけに今日は台風が接近。朝から冷たい雨です。
本格的な衣替えをしないうちに、日に日に寒くなり、昨日はベスト、今日はカーディガンというように、一枚一枚引っ張り出しながら日が過ぎて行きます。
本土寺参道にこんな店が開店しました。手作りワッフル&コーヒーのギャラリーカフェと謳っています。が、昨日今日と店を開けている様子がありません。
本土寺では来月七日の日曜日、御会式(おえしき)があります。午後一時から四時まで、万灯練り行列が東漸寺から本土寺までの間を練り歩くようです。
この万灯練り行列を初めて見たのはいつだったのか定かではありませんが、目白に棲んでいたころ、雑司ヶ谷の鬼子母神で見たのでした。
鈴なりの花をぶら下げた万灯が鬼子母神の境内から明治通りの遙か彼方まで、一体いくつあったのか、これまた鈴なりに連なっているのを見てびっくりしたものでした。
御会式とは日蓮聖人が入滅した日(十月十三日)を中心に営まれる法要のことです。一番大規模なのは池上本門寺で、お逮夜と呼ばれる前夜、百数十という万灯が各地から集まり、夜中過ぎまで賑わうようです。
ところが、日蓮聖人の入滅前夜といえば、一年に一日しかないはずなのに、練り行列があるのは、池上本門寺ではまさに入滅前夜の十月十二日、雑司ヶ谷の鬼子母神では十月十八日、本土寺が十一月七日、中山の法華経寺が十一月十七日とバラバラです。
同じ日にやったのでは、各寺とも練り歩く人たちが分散してしまって格好がつかないからでしょうか。
本門寺のホームページには、この御会式に合わせて宗祖(日蓮)の御衣を夏物から冬物に替える、とありました。
本門寺は行ったことがないのでわかりませんが、日蓮さんの像があって、その衣服を替えるのだろうと思いながら、御衣式→御会式となったのではないか、と思いました。ただ、ホームページには「御衣」をなんと読むのかルビが振ってないので、あくまで想像です。
こういう法要は日蓮宗独特のものかと思っておりましたら、法隆寺でもあるのを知りました。
法隆寺(聖徳宗)の宗祖は聖徳太子です。やはり宗祖の命日に当たる(と、法隆寺のホームページにはありますが、聖徳太子が亡くなったのは四月八日です)三月二十二日~二十四日にかけて行なわれる法要です。
本土寺の山門から眺めた境内です。寒くなったばかりですから、紅葉はまだまだのようです。ここ本土寺は紫陽花で有名ですが、紅葉も有名です。
紅葉や紫陽花を愛でるためには、この先の受付で¥500也を払わなければならないので、私は一度も入ったことがありません。¥500が惜しいのではない(無料なら当然入らせてもらっているが)。日蓮宗の寺と聞けば、なんとなく構える姿勢が生まれるのです。
本土寺があるから引っ越してきたわけではなく、引っ越してきたら本土寺が近くにあったということなのですが、折角近くて何かの縁でもあるのでしょうから、一度ぐらいは入らせてもらうか、と思い直したりしています。
山門後ろにこんなものがあったとは知りませんでした。旧小金町役場の門です。
昭和二十九年、小金町が松戸市に合併されて役場が廃止になったとき、どういう事情からか、本土寺が譲り受けたということです。
それほど降雨量が多いわけではありませんが、このところ二日に一日は雨、もしくは未明に雨という天候だったし、冷え込んできていたので、朝の散策に出ていませんでした。
ついでながら、いくらなんでもそろそろ……と思っている廣徳寺の作務も、目を覚まして庭を見れば地面が濡れているという状況なので、つい延ばし延ばしがつづいて、ご無沙汰は三か月を過ぎてしまいました。結構精神的圧迫を受けています。
雨で濡れた落ち葉はごみ袋に詰めることができないので、廣徳寺に行かなくても濡れ具合がわかるような仕掛けをつくりました。
ちょうど玄関前にある茗荷(ミョウガ)の葉が枯れ始めたので、抜いて乾かすのを兼ねながら、山にして積んであるのです。
廣徳寺に出向くか出向くまいかと迷ったときは、この山を崩してみれば落ち葉の濡れ具合乾き具合もわかるという寸法です。
それはそれとして、久しぶりに散策に出た昨朝の富士川上空です。
朝の廣壽寺です。この日は境内には入らず、門前を素通り。
酒井根で目にしたからか、先だって南柏まで歩いたとき、この廣壽寺近くで見つけたパンパスグラスを見たくなりました。しかし、場所はうろ覚えです。グルグルと歩き回ってみましたが、見つけられませんでした。
代わりにこんなものを見つけてカメラに収めました。
將門神社の帰りです。「猫町」をあとに台地を下って行くと、手賀沼が見えてきます。
沼畔の遊歩道と並行して走る道路まで下り切ると、入口にあったのと同じ「将門通り」の標識がありました。道路の向こう側には龍光院の案内板も建てられていました。
ハス(蓮)の群生地を見たあと、遊歩道を歩かず、この道に引き返していれば、恐らく龍光院の案内板を目にしたのに違いないので、回り道をする必要はなかったのです。
そろそろかな、と思って遊歩道を離れたときは、すでにこの標識の遙か彼方を歩いていたので、目印になるものには遭遇しなかった、というわけでした。
しかあれど……回り道をしていなければ、將門神社に辿り着いたあと、きた道をそのまま引き返していたのに相違ないので、辨榮(べんねい)聖者の石碑を見ることもなく、聖者がこの地で生まれたということも知らずにいたのに違いなし、と自分を慰めました。
そしてもう一度しかあれど……この標識を目にした瞬間、ドッと疲れが襲ってきました。
我孫子の一駅先・天王台にも將門にまつわる柴崎神社があるので、帰りに寄るつもりでいましたが、地図を元にアバウトな計算をしてみると、およそ一時間は歩かねばならないとわかって、完全に意気阻喪。
しかし、このまま帰るとしても、我孫子駅に戻るバスの停留所を捜さなければなりません。
周りは平坦な田圃地なので、くるときにバスを降りたスポーツ広場入口あたりを視界にとらえることはできますが、結構距離があります。それに、少し腹も減ってきました。
バスが手賀沼を渡り切ったあたり、確か何か施設があったなと思い起こして、同じ歩くのであればと、橋のたもとまで行ってみることにしました。
道の駅・しょうなんがありました。
「しょうなん」とは、湘南に非ず、沼南です。手賀沼の「南」という意味で、柏市と合併して消滅してしまいましたが、かつては沼南町がありました。
左が野菜の直売所、右奥にレストランがあります。ちょうど昼時だったので、レストランは結構混んでいました。人の多いレストランで食べるより、手づくりの梅干しを使った、と謳う握り飯とお茶を直売所で買って、手賀沼の風に吹かれながらの昼食と相成りました。
車でやってきている人は段ボール箱をかかえ込むほどの野菜を買って行きます。私は昼食のほかにトートバッグに入る程度のささやかな量で、しかも重くない果物と葉物の野菜を選んで買いました。
食事を終えると、脚の疲れもやや治まり、元気も恢復しました。
バス停が見当たらないこともあって、ひとまず手賀大橋を歩いて渡ることにしました。
橋を渡っている途中で、去年手賀沼の北岸を歩いた帰り、志賀直哉さんが住んでいた家の跡を訪ねたのに、道を間違えて辿り着けなかったことを思い出しました。
我孫子市役所近くの若松交差点に建つ志賀直哉邸跡などの所在を示す案内板。ここまできて、志賀邸を訪ねることにすると、結局、我孫子駅までは歩くことになりそうです。
去年はこの二股で迷った末、志賀さんなら山の手だろうと軽率な判断を下して右手の径を上った結果、志賀邸には辿り着けなかったのです。
去年きたのは七月中旬の猛烈に蒸し暑い日でした。あまりの暑さに、選択すべき道を間違ったとわかっても引き返す気にならず、気息奄々となって駅まで歩いたことを思い出しました。
大体、先の案内板のあるところから志賀邸跡まで800メートルもあるのに、途中には標示が一切ない、というのがおかしい。
瀧井孝作仮寓跡という標識がありました。松戸周辺にある城址へ上るような径を上り切ると、ここで代表作の「無限抱擁」が書かれたという説明板が建てられているだけで、名残は何もありません。
瀧井孝作(1894年-1984年)は志賀さんに出会って小説家を志した人であり、我孫子に住んだ(わずか一年だけ)のも、志賀さんを追いかけてきたからです。そのあと、京都~奈良へと志賀さんが移り住む先を追いかけています。
この先、志賀邸に到るまでに、またどっちだろうかと逡巡させる二股があります。そこにも案内板はありません。志賀邸は沼畔だったと決めたからには徹頭徹尾下の道と決めて歩きましたが、それらしきものが現われません。
また道を間違えたのかもしれぬ、とガッカリし始めたとき、ひょっこりという感じで現われました。
移築された書斎だけが遺されていました。
志賀さん自身が描いた見取り図によると、画像の中央の空間が母屋のあった跡で、書斎が移築されたところには物置があったようです。
志賀邸前にある白樺文学館。月曜日だったので休みでした。
志賀邸から300メートル。杉村楚人冠(1872年-1945年)邸跡。いまは緑南作緑地という公園になっています。
朝日新聞「天声人語」の名づけ親はこの人。縮刷版を発案したのも、いまのインターネット検索システムに当たるものを発案したのもこの人。
我孫子駅に到る途中、白樺派のカレーを売っている店を見つけました。レトルトパックに入っています。が、レトルトなのに525円とバカみたいな値段だったので、買うのはやめました。
私が非常食用を兼ねてサティで買うビーフカレー中辛は88円。この値段でも充分に美味いのです。
道の駅・しょうなんで野菜と一緒に求めたアケビ(通草)。
瀧井孝作仮寓跡で拾った栗と志賀さんちで拾ったカクレミノ(隠蓑)。
↓將門神社~志賀邸跡~我孫子駅というこの日の行程でも、佐倉探訪につづいて道を間違えた結果、二万歩も歩いてしまいました。
ブログの更新を滞らせておりました。
何人かの方から、体調を崩したのではないか、と心配するメールやコメントをいただきました。お会いしたこともない方々なのに、心配などしていただいて、身に余る思いです。改めて御礼を申し上げます。
で、実情は……といいますと、体調を崩したわけではないのです。
四十年ぶりに連日机に向かった、という講習会の疲労が尾を引いて、ブログを更新する気力が湧かなかったあと、連休があって、その疲労も解消したかと思える十二日の火曜日、思わず知らず無理をするようなことがあって、また疲れてしまった……と、いうようなことだったのです。
どんな思わず知らずがあったのかといえば、十二日の講習は自宅学習ということになったのですが、自宅学習はせず、懸案の所用を済ませたあと、佐倉というところに行きました。
ときおり小雨が降る中を歩きました。雨に濡れたことを除けば、まあまあ順調に歩いておりましたが、最後の目的地を前に道に迷いました。
見ても見なくてもどっちでもよいというところなら、エエイッとばかり飛ばしてしまったかもしれませんが、佐倉へ行こうと思ったのは、それを見ることが第一の目的であったので、見ぬうちは意地でも帰れぬと思って、しゃかりきになってしまったのです。
その結果、悠に一時間以上は余分に歩いて、朝、家を出てから暗くなったころに家に戻るまで、なんと三万歩以上も歩くことになったのです。
おかげでドッと疲れてしまった、という次第でありました。
今日、十日間にわたった講習会がめでたく結願(けちがん)を迎えました。六十歳以上のジジイ、ババアばかり四十名中三十八名が無事結願して、一人一人修了証書をもらいました。晴れがましさより照れ臭さが先に立つような思いです。
証書は資格でもなんでもないので、これで仕事が決まるという錦の御旗ではありませんが、雑誌編集一筋の人生を過ごしてきた私にとっては、これまでやったことも、やってみようと思ったこともない仕事の体験(ほんの入口に過ぎませんが)であったので、振り返ってみれば愉しい十日間でありました。
最終日の今日は閉講式だけで講義なし。午後一時までという予定であったのに、十一時半には終わってしまいました。
今日は昼過ぎに修了という予定だったので、弁当は持たず、どこかで昼を食べて帰ろうと思っていましたから、大阪王将へ行くことにしました。南柏で二度も店を目の前にしながら、食べられなかった餃子を食べるのです。
本八幡の店には何度かきていますが、松戸市民となる前、市川市民だったころにきて以来ですから、三年ぶりぐらいです。
窓にはこんな貼り紙。さすが大阪系。某在阪球団が日本一になるのを応援しようというのです。そのおかげで今日は餃子が一皿¥100。
しかし、虎ゴンズファンである私は、「おかげ」はちゃっかりいただくものの、無駄な抵抗はやめておけ! と断言しておきます。某在阪球団が某在京球団に勝ったとしても、一位で日程を終え、勝ち上がってくる者どもを、悠然と待ち構えている虎ゴンズにはまあまあ1勝するのが精一杯、というのがよいところでありましょう。
中華丼と一緒に一皿食べて、二皿分を持ち帰りにして包んでもらいました。
十二時前に昼飯を終えてしまったので、腹ごなしも兼ねて少し歩くことにし、本八幡駅の北口に廻りました。
市川市役所のほぼ真ん前、国道14号線(千葉街道)を挟んで不知森(しらずのもり)と呼ばれる小さな森があります。
寡聞にして使われたのを耳にしたことがありませんが(「広辞苑」には採録されています)、道に迷うこと、出口がわからなくなることを、「八幡の藪知らず」、あるいは「八幡知らず」という慣用句の元となった森です。
千葉県内では、本八幡といえばそれなりに有名ですが、全国的に名が知られているとは思えません。それが「広辞苑」に載っているとは……。
いまは孟宗竹に浸食されて、森というより竹林に変わってしまっています。しかし、つい二十数年前、昭和の終わりごろまでは漆、松、杉、柏、栗などが生い茂って、森と呼ぶのにふさしい茂みがあったそうです。
森自体は約20メートル四方と決して広いものではありません。いまだから狭くなったので、昔はもっと広かったのかというと、江戸時代にはすでに現在の規模しかなかったようです。
ただひと口に江戸時代といっても、三百年近くの歴史があります。一説には、水戸黄門がこの藪に入ったら、迷ってしまったので、その名がつけられたといわれています。
人が迷うぐらいですから、江戸時代初期はずっと広い森であったのかもしれないと、視覚面から考えるより、人が足を踏み入れてはいけない、入ると祟りがある「禁足地」だと考えるほうが合理的かもしれません。
私が小さなころは、暗くなってから外に遊びに出たりしてはいけないというのを、「人さらい」が出るとか「子取り」が出る、といわれたようなものと同じです。
禁足地というからには、聖なる場所か忌み所というところでしょうが、誰にまつわる場所なのかという確たる伝承はありません。
一つは日本武尊が東征のおり、ここに陣屋を設けたという伝承。
もう一つは平將門の父親である平良將(よしもち)の墓所であるという伝承。
さらには平將門本人の墓所であるという伝承。
あるいは、ここで將門の首を守っていた六人の家臣がそのまま泥人形となった(すなわち墓所)という伝承。
もしくは森の中央に窪みがあるところから、かつて放生池があったという伝承など、さまざまです。
放生池とは八幡宮の行事の一つ・放生会で生きた魚を放つ池のことです。すぐ近くには葛飾八幡宮があります。市川市が建てた説明板によると、断定こそしていませんが、放生池説に肩入れしたそうなニュアンスが窺えます。
森の一画に祀られた不知森神社。
鳥居の後方に建つ不知八幡森の石碑。
江戸は浅草・花川戸の造り醤油屋・伊勢屋宇兵衛が安政四年(1857年)春に建立した旨が彫られています。
伊勢屋宇兵衛という人は故郷の常陸国信太郡江戸崎(現在の茨城県江戸崎町)が低地にあるため、雨が降ると人々が困っているのを思い、私財を投じて百か所にも及ぶ石橋を架けたという逸話の持ち主です。それ以外にもいまの群馬県、千葉県にも橋を架けたようですが、なにゆえここに石碑を建てたのかということは、不勉強でいまのところはわかりません。
昔々ストリップ劇場のあった総武線高架下あたり。
短い距離ですが、陰気臭い通路だけはそのまま残されているみたいです。
私が知る限り、市川・松戸・柏近辺ではただ一店だけ、目白・揚子江の味に一番近い五目焼きそばを食べさせてくれた一品香。
といっても、メニューにある「五目焼きそば」は一品だけで、実態は堅焼きそばです。「柔らかい焼きそば」と注文しないと、堅焼きそばが出てきてしまいます。
店は地下にあるので、私のカメラでは画像の解像度が悪く、はっきりしません。入口の看板だけ載せることにしました。講習が終わってしまえば、まずくることはない本八幡なので、大阪王将かこの店か、と迷ったのですが……。
本八幡駅界隈をゆっくり歩いて帰ってきても、午後一時を過ぎたばかりでした。講習があった期間は弁当をつくるのを日課にしていたし、疲労困憊のていで毎朝目覚めるのも遅め。よって、朝の散策もままなりませんでしたので、庵に帰る前に久しぶりに富士川沿いを歩きました。
近場では秋桜(コスモス)をあまり見かけないと思っていたら、そのツケを全部払ってくれるような広大な秋桜畑がありました。
日にちが前後しますが、十二日に散策した佐倉のことは後日に廻します。
今月四日はジャニス・ジョプリンの没後四十年でありました。おお、そうじゃと気づいたとき(七日だったと思います)からブログに書きたいと思っていたのですが、疲労困憊につき思いを果たせませんでした。機会があれば、これも後日。
明日から講習会です。昼食には弁当を持って行こうと考えているので、朝は気ぜわしく、散策に出ている余裕はなくなるだろうと思います。
雨の日つづきなので、しばらく朝の散策をしていません。
今朝も雨。
ところが、七時ごろに雨が熄みました。少し遠めの散歩と思って、根木内城址(歴史公園)まで行くことにしました。雨上がりの散歩、と洒落込んだつもりでしたが、実際は雨の中休みでした。
行きは上富士川沿いに歩き、帰りは旧水戸街道を北小金駅へ歩いて、まだ知らないパン屋でもあれば、パンを買って帰ろうと思いました。
富士川はいつにも増して水量が多く、葦も押し倒されていました。
カルガモの営巣地かと思われるところがありました。ザッと数えてその数-五十羽はくだらない。普段は葦のジャングルになっているので、川岸からは見えないのです。一夜明ければ、ジャングルが取っ払われていたので、カルガモも困っているみたいです。
富士川に合流する平賀川の水量も多く、烈しい水音を立てて流れ込んでいました。
栗の実が爆ぜて、地面に落ちてしまっているのもたくさんありました。
思わず、♪静かな 静かな 里の秋~という童謡が口をついて出ます。
童謡ではあるけれども、この歌は元々は戦争賛美の歌だったということは意外に知られていないようです。作詞者は斉藤信夫(1911年-87年)という人。最初につけられたタイトルは「里の秋」ではなく、「星月夜」でした。
根木内歴史公園直前の民家にあったハナミズキ(花水木)の実。
花水木というと、私は池袋駅西口の通りを思い出します。この通りを歩いていたころはまだ四十代で、バリバリ仕事をしていたことも懐かしい。
八月中はカラカラに乾いていた根木内歴史公園の湿地帯。
やっと潤った、というより水浸しの状態です。
一丁前に稲架(はざ)がつくられていました。
根っ子の会という自然観察などをする子どもたちの集まりで、小さな水田ながら、田植えから収穫までするのです。千葉県では稲を稲架に架けて干す様子を「おだがけ」というようです。
ミクリ(実栗)の群生地がありました。ガマ(蒲)に近い植物です。七月、直径2センチほどの花を咲かせたあと、栗のような実を結ぶことからこの名があります。
帰ろうと歩き出したら、雨が降ってきました。
昨夜も雨が上がったので買い物に出たら、本土寺参道を出たところでいきなり強い雨になりました。傘は持たずに出ていたので、買い物はせずにUターンしてしまいました。
旧水戸街道は北小金駅前の交差点から下り坂になっているので、下水溝から溢れ出た水がまるで川のように流れています。
そこを猛スピードで突っ走って行く車がある。そのスピードで川に突っ込めば、バシャッと数メートルは飛ぶだけの水飛沫が上がります。当然、私はその被害者になる。
手にはカメラを提げていたので、ナンバープレートを撮影してやろうと思ったのですが、とっさのことですから、思ったようには行きません。
市川大野に勤めていたときも、よく泥水をかけられたことがありました。狭い道なのに、異様なスピードで飛ばすバカがいるのです。追い越し車線がないのだから、頑張ったところでタカが知れているのに……。
それにしても、八月の干天つづきといい、一転して今月の多雨といい、とうとう天が怒り始めたゾ、という気がしないでもありません。
何に怒っているのかといえば、私の想像では(天が怒っているというのも想像ですが)我が国とは一衣帯水の国ではないか。
なんでもいいからお山の大将でないと気が済まないのを中華思想というのですが、フランス人の中華思想はだだっ子のようなところがあって、まだ可愛らしい。しかし、一衣帯水のほうはまさに唾棄すべき中華思想です。
ところが、いかに天といえども、ピンポイントで怒りを下すわけには行かないので、近くにある我が国も影響を受けずにはいられない。異常気象のとばっちりをくっているのはそのためです。
その一衣帯水の国と東と北で国境を接する二つの国。
実際はあり得ないことですが、この三つの国が合わせてこの世から消えてくれれば、世界はかなり清々しくなるだろうと思います。
二日つづけて雨に祟られ、おまけに泥水まで浴びせられて少し昂奮してしまいました。
傘か何かで花を弾き飛ばされたものか、靴先で蹴飛ばしたのか。花の失われた茎の残る本土寺参道の曼珠沙華です。
一年間、じっと地中で耐えて花を咲かせるのだから、天寿をまっとうさせてやればいいと思うのに、天の怒りが向けられるのは、一衣帯水の国のせいではなく、こういう心ないことをするヤツがいるせいかもしれません。
競争率約3・0倍という難関を、よりによって籤運の悪い私が突破してしまった講習会受講。この二十九日から十月十四日までの平日十日間に亘って開かれます。
会場は二か所に分かれていて、前半六日間が本八幡にある市川市勤労福祉センター。後半四日間が西船橋にある野村證券グループの研修センターです。
昨日、会場の下見をしておこうと思って出かけました。両会場とも最寄り駅から十五分といささか距離があるので、初日に初めて行く、というのでは少なからず不安に感じられたからです。
新松戸、西船橋と乗り換えて本八幡で下車。北口は馴染みがありますが、南口はときおり餃子を食べにきた大阪王将と市川市の中央図書館方面を除くと、地理不案内なところ。そこから十五分というのはまったく知らない場所です。
送られてきた資料に同封されていた地図を持って行きましたが、この地図が少々手抜きでした。地図に示されている道はT字路になっていて、突き当たりに当該の建物があることになっていましたが、行けども行けども道は真っ直ぐ通っていて、突き当たりになりません。
付近をぐるりと一周。もう一度元に戻ってようやく見つけました。突き当たりになる場所は少し離れたところでした。
講習日初日は十五分ぐらい前に着くようにしようと思ってはいましたが、ぶっつけ本番で行っていたら、多分遅刻をしていたでしょう。
これまでいくつか面接に行きましたが、ずぼらな私は下見などしたことがありませんでした。日にちに余裕があるとはいえ、今回に限り下見をしておこうという気になったのが我ながら不思議ですが、下見をしておいて正解でした。
第二会場は西船橋にあります。本八幡駅には戻らず、下総中山へ出ることにしました。下総中山駅への途中にニッケコルトンプラザという複合商業施設があるので、久しぶりに覗いてみようと思ったのです。
市川市中央図書館。生涯学習センターに併設されています。
スペースは広々、書架と書架の間も広々としていて、多くの図書が開架になっているので直接手にとって見ることができます。建物の新旧は問わないまでも、書架の前で本を探している人があると通れない、という松戸の図書館とは大違いです。
市川市民だったころ、私はこの図書館の友の会会員だったので、二~三週間に一度はきていたものです。
図書館の隣。千葉県立現代産業博物館。
夜はまた雨になったのに、午後二時ごろはまだこんな空でした。
コルトンプラザに着きました。日本毛織(現・ニッケ)の工場跡地につくられた施設です。図書館にくると、この中にある書店とダイエーを覗いたものです。
コルトンプラザ裏のおりひめ神社。当初は少し離れたところにあった共立モスリン中山工場に祀られていたもの。昭和十六年、共立モスリンは日本毛織に吸収合併され、のちにニッケとなります。
祭神は天照大神なので、六月十五日のブログで取り上げた群馬県桐生市の織姫神社とは無関係です。
この神社がある一帯はニッケ鎮守の杜と呼ばれていて、一画には「手仕事の庭」と名づけられたミニ植物園(?)があります。植えられているのは黄蜀葵(トロロアオイ)、棉、紅花、藍など製紙、染色など、いわゆる手仕事に用いられた植物。
黄蜀葵(トロロアオイ)の花。
黄蜀という名が示すように、根は粘り気を持ち、製紙の際の糊として使われました。また胃腸薬・鎮咳薬としても用いられるので、別名・通和散(つうわさん)。
これらの花も製紙か染色に関係のある花なのでしょうか。折角なのですから、樹々草々の名称と簡単な説明があればいいのに……。
本八幡駅とコルトンプラザ間は無料のシャトルバスが走っています。
下総中山から一駅だけ総武線に乗って西船橋で下車。
第二会場の地図も少し手抜きでした。しかし、本八幡とは違って、道がこまごまとしていないので、回り道することなく着けました。
下見を終えてあとは帰るだけ。行きがけに西船橋駅近くでドトールコーヒーを見かけていたので、コーヒーでも飲んでしばし休憩と思ったのですが、なんびとが何をせむとするのか、満席でした。それでは、と駅構内のベッカーズへ行ってみれば、ここも満席。西船橋くんだりで何をすることがあるのか、と私には不思議でしょうがない。
コーヒーを飲むというより、しばし腰かけて休みたいのでした。私が降りる北小金駅北口は喫茶店もへったくれもないところなので、武蔵野線で坐ることができればそれでいいか、と思いながら電車を待っていると、異様に混んだ電車がきました。むろん坐れない。
かてて加えて西船橋の次の船橋法典は中山競馬場の最寄り駅です。ちょうど競馬が終わる時間に遭遇してしまったので、プラットホームには黒山の人、人……。下見をしておいてよかった、今日は吉日ナリ、と思ったのも束の間、厄日かと思うような帰り道になってしまいました。
講習に出る日の昼食には弁当をつくって持って行こうと思い、おかずの一部にすべく冷凍食品を買い込みました。
忘れてならぬのが昼食後の薬の服用です。ピルケースを買って、十日分を仕分けしておこうと思い、ハタと思いとどまりました。
今度の通院予定は来月の七日です。もらっている薬はきっちり四週間二十八日分なので、七日の朝食後に服用すると、なくなるはずです。十日分もの薬がないだけでなく、七日は通院を休むか、受講を休むかの二者択一を迫られることになりました。
で、月曜日の今日、病院へ電話を入れました。私の担当医師は常勤ではなく、毎週木曜だけくるのです。「お訊きしておいて、ご連絡します」というナースの返辞でしたが、連絡がとれなかったものか、まだ返辞がありません。
我が部屋から見た彼岸花です。昨日の朝はまだ雪柳の陰に隠れていましたが、今日は一段と丈が伸びて、机の前に坐ったままでも見えるようになりました。ほぼ満開を迎えています。
ところで、手前にあるこの雪柳 ― 今年の夏は暑かったので彼岸花の開花が遅い、と教えてくれた近所の事情通のオヤジが雪柳だといっているのですが、私にはどうも違うように思えてなりません。来春、花の季節になればわかります。
昨朝、天気予報を見ると、台風接近の影響で昼ごろには風雨ともに強くなるだろうとのことでした。
二日間、雨にたたられて散策に出ていなかったし、ネットショップで頼んである桔梗とハーブ類の種が到着する日に備えて、庭の土を掘り起こしておかねばならぬのですが、庭はすっかり濡れてしまっているので、農作業もままならない。
涼しい、というより急に寒くなってしまったので、衣替えの準備でも始めますか、と思っていたところ、十一時ごろから空が明るくなって、陽射しが出ました。
長期予報は無論、二日三日先の天気なら当てられなくても仕方がないと思いますが、敵は台風とはいえ、数時間後の動きが予測できないとは本当に情けない公的機関があるものです。
それでも、晴れるといっていたのに雨、ということだと肚も立ちますが、逆だと出かかった恨み節もすぐに忘れてしまいます。
昼過ぎ、料理の本を買いに南柏まで行くことにしました。散策をしていなかったので、JR一駅ぶんを歩いて行きました。
昨日の午後はこんな空でした。
富士川に向けて高台を下ると、桔梗殿を咲かせている家があります。
すっかり気温も低くなったので、花期も終わっているだろうと予想したのですが、まだまだ意気軒昂でした。
遠回りになりますが、無患子(ムクロジ)のある坂を上りました。
こんな奇妙な形をした実を見つけました。こんな形は初めて見ますが、独特の窪みのあるところは間違いなく無患子の実です。落ちて間もないようなので、振っても音はしませんが、三つとも種が入っているのでしょうか。
画像下・ひっくり返すと……。
ほんのちょっとしたことですが、私は生まれつき身体に奇形の部位を抱え込んでいるので、こういうものを見ると、気味が悪いとは思わず、愛おしさが先に立ちます。
拾うことは拾ったものの、庭に播くかどうしようかと決められぬまま、ポケットに入れました。
途中の畑地で蚊帳吊り草を見つけました。
通り道なので、廣壽寺に寄りました。
お彼岸の間、山門を通る人はいなかった(?)とみえます。それとも、避けて通れないことはないので、みな遠慮しながら通ったので残されたのか。
我が庵には新松戸から一緒に引っ越してきたと思われる蜘蛛が棲息しています。
夜、デスクランプだけ点けてパソコンに向かっていると、いつの間にかモニタの上に姿を現し、またいつの間にか姿を消します。
諺にあるのは、夜蜘蛛は殺すな、であったか、殺せだったか、どっちだったかと思いあぐねているうちにいなくなります。部屋のどこかに巣を張っている様子はありません。
まだ色づいていなかった廣壽寺の柿。
境内に聳える公孫樹(イチョウ)の樹です。
台風の余波で、私が訪れたときもまだ強い風が吹いていました。その風で落ちたのか、銀杏(ギンナン)を拾いました。
境内の曼珠沙華はまだこんな調子でした。
こちらは廣壽寺手前の畑に咲いていた曼珠沙華。陽当たりがよいせいか、満開でした。
普通の尾花なのでしょうか。こんな輝くような、立派な尾花を見たのは初めてです(廣壽寺近くで)。
すでに季節が終わりかけの黄花秋桜(コスモス)はたくさん見ましたが、不思議と普通の秋桜はあまり見かけません(南柏駅近くで)。
南柏駅まで最短距離を行けば約3キロ、三十数分で着くところですが、廣壽寺に寄り道したり、立ち止まって花を見たりしていたので、所要五十分。着いたのは午後二時過ぎになりました。
前回、時間に余裕がなかったので食べられなかった大阪王将は? というと ― 。
入ろうとしたのですが、私の直前に入った若夫婦でちょうど満席。書店に行って本を買い、何冊か手にとって立ち読みしたあと、二十分後にもう一度寄ってみましたが、空席なし。
待つのはイヤだというイヤな性分なので、別に腹が減っているわけではなし、と負け惜しみを自分に言い聞かせて、帰りは電車に乗りました。
廣壽寺で拾ってきた銀杏です。
↓この日、歩いたところ。
http://chizuz.com/map/map75747.html
あっという間に涼しくなったと思ったら、昨夜は肌寒いと感じるほどの陽気に変わってしまいました。
昨日、雨の中を、歩いて三十分近くかかる園芸店に行ってきました。
数日前、ネット上の知人から、自家の桔梗が初めて咲いた(この季節に!)というメール(実際はメールではないのだけれど、説明を始めるとわずらわしくなるので)がきて、その返信に「来年は庭の一画を桔梗畑にするつもり」と書いたのでした。
少しずつ桔梗をふやそうとは思っていましたが、「畑」と呼べるほどの規模は考えていなかったのに、勢いでそんなことを書いて、返信してしまったのです。返信してしまってから、イヤイヤ、グッドアイデアではないじゃろうかと思いました。
ひょんなことから思いついたのに、思いつくと居ても立ってもいられぬ性分です。種を求めようと思って、早速北小金駅近くの花屋さんに行きました。
そこそこ大きな店ですが、そこでは桔梗は矮性だけ、しかも鉢植えしか扱わないという返辞でした。花の季節の終わったいまの時期、鉢植えはありません。
サティへ行ってみました。一階と四階の小規模なスペースで種を売っていますが、種を播く時期には少し早いからか、桔梗はありません。
プリンタのインクを買う必要ができたので、柏へ行ったついでに東急ハンズを覗いてみました。目白に棲んでいたころ、池袋と新宿の東急ハンズで種を買って咲かせたことがあるのです。しかし、柏の東急ハンズには園芸コーナーそのものがありませんでした。
すると、去年種を買ったホームセンターに行くしかありませんが、ここは歩いて行くと、往復一時間半もかかるし、去年播いた種は一つだに芽を出しませんでした。散策を兼ねて行くのは構わないが、ケチがついているので、行っても買いません。買わないのに行くわけがありません。
ネットで捜せばあることはありますが、たまたま視たサイトは、「お届けまで一週間」とありました。
桔梗の種に限らず、一週間はとても待てないと思って、ほかを捜してバタバタと走り回り、結局は頼んでおいたほうが早かった、という経験は何度もしているのにもかかわらず、今回もバタバタと走り回るのです。
ふと大きな花屋さんがあったのを思い出しました。小金道の探索をしたとき、北小金駅入口という国道6号線の交差点で見かけていたのです。
決断力と行動力がお粗末なわりに、私はこういうときだけは逡巡することがないのです。わざわざ雨の中を出向いたという次第です。
行ってみると種はありませんでした。無駄足だったか、と落胆しかかったとき、矮性ですが鉢植えがあるのを見つけました。この季節! なのに、まだ蕾をつけています。即座に、買うべしと、これも普段の決断力のなさからする、別人のような決断力を発揮しました。
白二鉢、紫一鉢、ついでに竜胆(リンドウ)も一鉢求めました。〆て¥819。もう少し買ってもよいと思いましたが、傘を差して帰らなければなりません。都合四鉢で手を打つことにしました。
土が乾くのを待って、庭に移し替えようと思います。これで気分はいささかなりとも落ち著いて、種の到着を待つことができます。
先週の金曜日、桔梗に先立って野菜の種を播きました。ほうれん草、小松菜、青梗菜(チンゲンサイ)、摘み菜の四種類です。
時間が充分過ぎるほどあるのを幸い、マンション時代の鉢植えを一鉢ずつ庭に移し替え、残るのは細葉榕(ガジュマル)、シークヮーサー(五本あるうち一番古く、大きい)、枸橘(カラタチ)の三鉢だけになりました。
細葉榕は新宿の中落合から目白に移り住んだ1992年、両手で包めるほどに小さい鉢植えを買い求めたもので、そろそろ二十年になります。シークヮーサーは浅草時代、ある想い出のために種を植えたもので、そろそろ十年。枸橘はいつ手に入れたかハッキリしませんが、目白時代、おとめ山公園という尾張徳川家の別邸跡に造られた公園から夜陰に乗じてかっぱらってきたもので、少なくとも十五年は経つだろうと思います。
ともに順繰り順繰り大きな鉢に植え替えてきました。そのぶん大きな穴を掘る必要があるので、植え替えがあと回しになりました。
雨のなかった八月、毎朝毎夕、部屋の中を十往復して水遣りをしていましたが、地面の照り返しにも往生してリール式のホースを買ったので、ちょっぴり省力化を図ることができるようになりました。
九月になると一転して雨が多く、庭にじかに植えたものには水遣りの必要がなくなりました。
結果、手持ち無沙汰になって心寂しく、そのときには桔梗畑というアイデアも持っていなかったので、代わりが野菜の種、ということになったのでした。
月曜から火曜日にかけて、次々と芽を出しました。ほうれん草です。
小松菜(上)と摘み菜(下)。青梗菜だけはまだ芽が出ません。
雨上がりの今朝七時ごろの富士川上空。
栗畑の栗も随分大きくなりました。
羽中橋下で憩うカルガモ。雨のせいで富士川の水量は心持ち多いようです。
本土寺参道と常磐線沿いの道を結ぶ脇往還。
何日か前、参道から入ったときは、物置小屋のような建物の前で折れ曲がっていたので、私道かと思って引き返した道です。
転居して間もない私には得体の知れぬ道がまだまだいっぱいあります。この道の先は林になっていますが、大部分は昔の農道を改良したような道で、従って真っ直ぐ走っているということがなく、恐る恐る進んでみると、意外なところに出る、という愉しさもあります。
一昨日の朝の散策時、新しく見つけた坂道を上っていたとき、路端に青い実がいっぱい落ちていたので、泥で汚れていないのを二つ拾ってシャツの胸ポケットに入れました。
例によって、外を歩くときは眼鏡を用いないので、なんの実だかよくわからんが、山梨(ヤマナシ)のたぐいか……という程度に考えて拾ったのでした。
帰ったら樹木図鑑で調べてみようと思いながら、夜になるまで拾ったことを忘れていました。
その夜、脱いだあと放り出したままだったシャツを洗濯機に入れようとしたら、コトリと音を立てて落ちるものがあって、実を拾っていたことを思い出しました。
眼鏡なしで見たときは表面はスベスベとした実のように思いましたが、よくよく見ると、どこか憶えがある、中国のライチ(茘枝)を思わせるような窪みがあります。
むむ? と宝箱を取り出しました。5×10センチの箱を宝箱と名づけ、流山・観音寺で拾ってきた無患子(ムクロジ)の実を入れているのです。
取り出して、とっくりと比較してみました。
観音寺で拾った(右の二つ)のは去年の実なので、色こそ違いますが、大きさも形も、特徴のある窪みもまるで一緒です。何よりも萼(がく)の付き方がまったく同じ。間違いなく無患子の実です。
が、どうしてあんなところにあったのか……と、不思議な思いでした。
ムクロジという樹があると初めて識ったころ、調べてみると、本州の中部地方以西の山岳地に自生する樹だ、ということでした。
中部以西、とあるのだから、関東には絶対にない! とは言い切れないでしょうが、私がこれまでに関東で知った所在は植物園を除くと、偶然かどうか、すべて寺社地で、誰かの手によって植えられたものでした。
つくば市にある国立科学博物館の筑波実験植物園に植えられているというのも、関東では見る機会が少ないからだということなのでしょう。
昨朝の空です。太陽が出ていたので、北の方角を撮りました。
富士川を渡るときに通る羽中橋。昨朝はカルガモがきていました。
前日あったコンバインはなくなっていました。代わりにこんなものがつくられていました。
何かのおまじないでしょうか。この列だけ刈られず残されています。
また新しい坂道を見つけました。上り切ったところから振り返ってカメラに収めました。
寶蔵院や廣壽寺に行くときに上る坂と、一昨日見つけた坂の中間にありました。「く」の字型に曲がっていて、見通しが利かなかったので、民家の入口かと思いましたが、抜けられました。
その坂を上り切ると、いよいよムクロジと思われる樹のある場所が近づいてきます。
昨朝はムクロジであることを確かめるための散策だったので、いつも散歩時にはかけない眼鏡をかけ、虫眼鏡と観音寺で拾った実を一つ持って行きました。
道路には無数の実が落ちていました。大部分は踏まれて潰れています。きれいな実を一つ拾い、観音寺の実と一緒に手のひらに載せて、虫眼鏡を覗きました。
撮った画像と同じです。どこからどう見ようが違いがない。
ムクロジの樹が生えているのは民家の玄関口です。農家のようで、広い前庭があり、母屋は奥のほうに見えます。
盛り土された小高い場所に生えているので、近くに寄って樹皮の様子を確かめることはできません。樹高はそこそこ(15メートルぐらい?)ありますが、幹はそれほど太くないようです。
見たところ、生えているのはこの一本だけです。
どこからか種子が飛ばされてきて、自然発生的に生えたのか、この家の誰かが何かの意図を持って植えたのか。知りたいと思いましたが、家を訪ねるのにはまだ早い七時前という時間でした。今度頃合いの時間を見て訪ねてみようと思います。
一昨日見つけたキウイ畑の近くに苺農家があるのを見つけました。
なんという草なのか。花が咲いているように見えますが、葉っぱです。
私は野草図鑑、樹木図鑑、野鳥図鑑と持っていますが、調べ方が間違っているのか、この手のものが役立って、それまで知らなかった名前がわかったという試しがない。
戦国期は名都借(なづかり)谷津と呼ばれた谷を通る道路に出ました。JR南流山駅~流山免許センター~JR南柏駅を結ぶミニバスが走っています。
このバス停の先、東部中学校前という交差点に出ると、廣壽寺は近いのですが、この日は寄りませんでした。
一日置いただけで再度大清水(おおしみず)湧水の探索に出ました。
今日もこんな夏空。
松戸の雨無し日は今日で二十二日連続となりました。明日も晴れて暑いようです。
それでも、今日はときおり陽が翳り、風もあったので、前回よりは歩きやすい探索になりました。汗をかいたのは同じですが、水分の要求量が違いました。前回は用意しておいたマグボトルのダカラに加えて爽健美茶、さらに緑茶でしたが、今回はマグボトルは持たず(結構重いのです)、途中でペットボトルの緑茶を一本買っただけ。
スタート地点の根木内城址橋までは前回と違って、我が庵から一番近いところで富士川河畔に出て遡って行きました。
根木内歴史公園の入口に架かる霜田橋です。もう一つ上流の橋が根木内城址橋。
前回はカルガモに混じってコサギのいたところ。今日は何もいませんでした。
前回はこの橋に出たあと、元の道に戻ったのが間違いの元でもありました。川からは遠く離れますが、今回は戻らず直進します。
門扉に家紋を掲げるなど変わった家だなと思ってよくよく見ると、奥に鐘楼のようなものが見えました。
民家だったらすぐに踵を返そうと入って行くと、「ようなもの」ではなく、まぎれもない鐘楼です。
去年のゴールデンウィークに訪ねたことのある日蓮宗の了源寺でした。このときは、このお寺が目的で訪ねています。
場所がわかりづらく、この通用門を見て、なんだかお寺のようだと感じて入って見つけたのでした。通用門がいくつもあるはずはなく、きっと同じところから入っているのだと思いますが、紋があったかどうか記憶にありません。この紋はまぎれもなく井桁に橘、日蓮宗の寺紋です。
大清水湧水の探索が失敗に終わった前回と同じ地図を持ってきていましたが、この了源寺も地図には載っていない。つまり、曲がるべき道に気づかず、行き過ぎていたのです。しかし、このあたりは一度きているので、なんとなく土地勘はあります。
稲荷神社があったので参拝しました。
前回はこの標識を向こう側から見ています。この標識を目に入れる直前に川を渡っていたのですが、疲れ果てていたためか、気がつきませんでした。
その川です。淀んでいてまったく流れていませんでした。
小金原団地です。この東側を通過して行きます。川は暗渠に入って見えなくなります。
小金原団地を通り過ぎるとまた川に出会いましたが、すぐまた暗渠です。
この猫殿に出会ったあと、また道を間違えてしまいました。川は依然として暗渠です。
この先、道なりに行けば、二~三分のところに湧水があったのですが、行き止まりのように思えた上、右手に石の階段があったので、誘われるように上ってしまったのです。上るとすぐ今度は下りの石段。
見下ろすと、いかにも川が流れていそうな地形に思えました。ところが、下ってみたら空振り。
街中の散策ですから登山とは違いますが、目的地がある場合、鉄則は同じ。
すなわち、迷ったと思ったら、元に戻る、ということです。こんな些細なことは勇気などという大仰な言葉とは無縁と思われますが、まさに勇気なのです。その勇気のなさゆえに、大勢の他人に迷惑をかける輩があとを絶たない。
まあ、湧水の探索ごときは街中ゆえ、人様に迷惑をかけることもあるまいと思いますし、登山とは違うという安心感があるためか、私はこの鉄則を軽視しています。そのために前回はとんでもないところを歩き、結果、目的も達せられなかったというのに……。
民家の表札を見ながら歩いていると、小金原九丁目とありました。不幸にも私が持っていた地図には「丁目」まで載っていません。つまり広い小金原地域の、どのあたりを歩いているのか見当がつかなくなりました。
地図には湧水の場所も標示されていませんが、それらしきところ、一本の道路の東側に池か川のあることを思わせる水色があります。その道路には松戸市と柏市の境界であることを示す点線があります。ともかくそういう場所を捜すべし、と思って歩きました。
富士川源流地点の標識。道に迷ったと思ってから数十分後、やっと見つけました。
それにしても、ホームページで紹介しているぐらいですから、入口と出口(どちらがどちらだかわかりませんが)に標識ぐらい建てればいいと思うのに、何もしないところは松戸市らしい。
ポンプで汲み上げているみたいですが、意外と水量は豊かです。
もう一つ小さな水車が……。こちらは廻っていませんでした。
さらにもっと小さな水車が……。先に見ていた川の淀みを考えると、この水の流れはどこへ行ってしまうのだろうと思いますが、確かに流れています。
これが富士川の源流……そう思うと、なんか感無量でした。
サバサバした気分になっていましたので、帰りは心おきなくバスに乗りました。
バスの中。携帯電話でインターネットを視ていたら、デーゲームでドラゴンズがジャイアンツを連破していました。山本昌が最年長完封記録というおまけつき。今年のドラゴンズの打線(とにかく打てないことに尽きる)では、とてもではないが、優勝は無理か……と思っていましたが、ひょっとするとひょっとするかも。
ウキウキしてしまったので、北小金駅北口のヒンドゥ料理店でナンを買って帰りました。
↓今回歩いたところです。大詰めで鉄則を軽視した結果、わけのわからぬ遠回りをしています。
http://chizuz.com/map/map74429.html
※九月五日追記:さらにもう一つうれしいおまけ。ラグビートップリーグ初戦でトヨタ自動車がサントリーに勝ちました。リーグ戦では昨季までの六年間、5敗1分と一度も勝てなかった相手です。あとはメイジだけ。
※写真はサンケイスポーツ