桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

大清水湧水探索失敗の巻

2010年09月03日 15時05分35秒 | のんびり散策

 昨日はさすがに歩き疲れました。目的を達することができなかったので、なおさらです。
 富士川の源泉・大清水(おおしみず)湧水の探索を試みたのですが、途中で道を間違えて、どこを歩いているのかわからなくなり、やっと土地勘のあるところに辿り着いたころには脚が棒のようになっていて、それ以上歩く気力を失っていました。その失敗の過程を振り返ります。

 


 出発してすぐ常磐線を跨線橋で越えたところにある東雷神社。東雷? なんと読んだらいいのかわかりません。鳥居も珍しい。稚児柱に支えられた両部鳥居(四脚鳥居ともいう)です。上は跨線橋から見下ろした画像。

 


 途中で富士川の支流・平賀川を渡ります。今夏はまったくといっていいほど雨がありませんが、画像下は昭和五十年七月の集中豪雨で浸水した水位を示す注意書きです。中央のほんのりと赤い横線。



 根木内城址橋から上富士川の探索を始めました。



 柏方面に向かう旧水戸街道。
 川に沿った道はないので、できるだけ川に近い道を捜し、橋を渡る道があれば行ってカメラに収め、また元の道に戻って、橋のある道に出会うのを待つ、という繰り返しです。



 根木内城址橋から歩き始めて、最初に出会った橋からの眺め。橋の名は不明。カルガモたちに混じってコサギが一羽おりました。



 次に見つけた橋は橋のていを成していません。
 この橋に出会ったのが失敗の始まり。この川は上富士川だと私は思い込んでいますが、支流でした。

 


 橋を越えるとすぐ、川に沿った農道のような道がありました。プリントして携帯していた地図には川沿いの道はありません。
 なんだ、ちゃんと道があるじゃないか、と間違っているとも知らずに歩き始めました。道の左に川、右はゴルフ場でした。
 このゴルフ場も地図に載っていないのが不思議でしたが、それよりも道が途中で行き止まりになっているのではないか、というほうが不安でした。
 じつはゴルフ場は地図には載っているのです。違う道を進んでいるので、私がプリントした部分には載っていなかった、というだけの話。

 


 山裾を流れる清流という感じです。ザリガニもたくさんいました。



 民家の軒先をかすめて流れています。



 私の前方を歩いていた親子。
 追いついたら、この道が行き止まりでないのかどうか、訊ねてみようと思っていたのですが、まさに二人に追いつかんとしたとき、車が走る道路が見えたので、訊ねずじまいでした。
 道路さえ見えなければ声をかけていたはずで、見当違いの方向を歩いていたことも気づかされたはず……。

 その道路に出て再び地図を取り出しましたが、道路の走り方が地図と実際とでは全然違う。違う場所なのですから当たり前です。
 新興住宅地に出たところで住所表示を見ると、柏市中新宿とありました。目指す大清水湧水があるのは柏市酒井根というところです。
 方向違いなので、私が持っている地図には中新宿という地名が載っていない。どっちを目指せば酒井根というところへ行けるのか見当もつかない。探索はやめにするかと思い始めながらも、自分の家がどっちなのかもわからなくなっています。

 新興住宅地を抜けて交通量の多い道路に出ると、北小金駅行の東武バスとすれ違いました。すなわち北小金には背を向けて歩きつづけているわけで、再び正しい方向に戻ったと思っています。探索を続行する意欲が戻ってきました。
 が、しばらく歩いて次に目にした住所表示は流山市向小金(むかいこがね)。
 ナガレヤマ??……。
 香取神社があったので、しばし木陰で休ませてもらって、頭の混乱を鎮めようと試みました。



 香取神社前にあった一里塚の碑。
 お江戸日本橋から七つ目、すなわち七里。昔の一里塚跡です。
 道路工事で消滅してしまった塚を記念して昭和六十二年に建てられたもの。「下陰を さがしてよぶや 親の馬」という小林一茶の句碑がありました。
 私が歩いていたのは旧水戸街道で、全然方向違いの柏駅に向かって歩いていたのでした。ここで間違っていることに気がつきましたが、正しき方向はわからない。



 香取神社。元禄年間(1688年-1703年)の創建とだけ伝わる旧向小金新田の産土神(うぶすながみ)です。ここも両部鳥居でした。祭神は径津主命(ふつぬしのみこと)。



 昨日もこんな夏空でした。香取神社の木陰で小休止したとき、マグボトルに入れてきたダカラは飲み干してしまっていました。



 流山市内で見つけた桔梗殿を愛でる家。

 どこをどう歩いたものやら……廣池学園の広大な敷地の間を抜けて歩いているときこそ、豊かな木々の恩恵を受けましたが、抜け出るとまた日陰のない新興住宅地です。富士川はどこに行ってしまったのか、見当もつきません。

 強烈な西日を正面から受けながら、広い道路を歩いていたら、「ここから松戸市」という道路標識が見え、左手に団地らしき建物群が見えました。
 きたのは初めてですが、これが小金原団地なのだろうと思うと、探索を続行する気は完全に失われました。やっと正常な道筋に戻ったとはいえ、大清水湧水まではまだまだ距離があるのです。

 北小金駅までバスで帰ろうと思いましたが、最寄りのバス停に着いてみると、路線バスではなくコミュニティバスの停留所で、なんと一時間に一本しかありません。間合いが悪く、ちょうど三十分待ちでした。腰掛けて待てるような日陰もない。
 で、やむなくテクテク、と。
 


 再び平賀川を越えて我が庵も近くなったところ。鉄錆びた看板に描かれた文字は辛うじて「しろがねフード」と読めます。



 猫じゃらしにじゃれる猫殿を見つけました。



 行きと同じく常磐線を跨線橋で越えて、ようやく我が庵が近くなってきました。しかし、最後に待ち受けているのはこんな急坂なのです。
 私は脚が長いので(?)、かつては大股でスイスイと歩いたものでした。歳とともに知らず知らず歩幅が狭くなり、ピッチも遅くなっているので、歩みものろくなりました。
 本土寺の参道を歩いていると、若い勤め人ふうの男にスイスイと抜かれるようになって、実感を新たにしていましたが、この坂で女子高生に追い抜かれるとは思わなんだ。

 庵に帰ったあとで、歩いたところを検証してみたら、とんでもない方向を歩いていました。この日は11キロ以上も歩いたことになります。
http://chizuz.com/map/map74353.html


廣壽寺から前ヶ崎城跡へ

2010年08月30日 11時09分53秒 | のんびり散策

 日曜日は朝の散歩に出なかったので、夕方、少し涼しくなってから散策に出ました。廣壽寺を目指しました。



 庭に植え替えた桔梗殿が思い出したように、一輪ずつ花を開いています。
 その花の蜜を吸いに、シジミ蝶がきていました。桔梗殿は代替わりさせながら二十年も手許に置いていますが、蝶がきたのを見るのは初めてです。
 受粉して種ができるかもしれない。愉しみです。



 台地を下り、台地を上って下り、もう一度台地を上って、廣壽寺の山門まで千六百余歩。
 坂があるので、同じとは感じられませんが、前に勤務していた会社~最寄りの市川大野駅間とほぼ同じ距離です。毎日この距離を通勤していたのか、と思い返すと、ちょっとゲッソリし、二度と歩くことはないのだと思うと、幸せな感じがします。



 山門の
すぐ後ろにあった石蕗(ツワブキ)。



 廣壽寺御本尊の観音菩薩坐像。直接見ることができないので、説明板を撮影。

 廣壽寺のあとは清瀧院へ足を延ばすことにしました。



 廣壽寺と清瀧院の間にあった江戸川八十八か所第五十五番札所。
 祠が建っているだけで、見たところは何も説明がありませんが、木の村・コレクションというホームページの中の「江戸川四國札所」によると、この祠の名称は染谷大師。この近辺には「染谷」という苗字の家がたくさんありますが、それと関係があるのかどうか……。

 前後を挟む五十四番と五十六番、両方とも寶蔵院。これから向かう清瀧院が三十五番。金曜日、坂川を遡ってたどり着いた金乗院(こんじょういん)が四十九番。新松戸の旧庵から一番近かった正福寺が七十四番となっていました。



 畠の真ん中にポツンと建つ清瀧院。
 画像と違って、実際は左右に拡がる畠が視野に入るので、ほんの一瞬だけですが、奈良の西の京から斑鳩にかけての野にいるような気分になります。

 清瀧院の後背地は緩やかに下って谷になっています。川が流れているに違いないと思いましたが、道は清瀧院で行き止まりになっていて、下る道が見当たりません。 



 下る道を捜していたら、大きく迂回させられることになりました。おかげで名都借(なづかり)の香取神社を見つけました。このあたりの神社にしては杜も深く、なかなか荘厳な雰囲気がありました。

 


 香取神社の狛犬。



 すでに色づき始めている柿も見つけることができました。



 清瀧院から徒歩十一分。川があることはありました。しかし、用水路のような川で、橋には名もなく、川の名前もわかりませんでした。

 川を越えると柏市という標示が眼に飛び込んできて、ちょっと意表を突かれたこともあり、どのあたりを歩いているのかわからなくなってしまいました。

 このあたりで庵を出てから六千歩。
 六千歩を超えると脚に疲れを覚えます。一番いいのは歩くだけでなく、もっと総合的な運動をすることだと思いますが、いまのところは歩く以外に方法がありません。もっと歩いて鍛えておかなくては……と思いながら、まだ強い西日を正面から受けて、闇雲に歩きます。

 車が頻繁に通る道が見えてきたと思ったら、見覚えのあるフライイングガーデンの看板が眼に入りました。坂川に架かる富士見橋近くに出たのです。
 方向違いですが、外出ついでに行きたいところがあったので、これ以上足を延ばすのはやめにして、踵を返しました。



 前ヶ崎城跡。一度見ているので、通りがかっても通過していましたが、久しぶりに上ってみました。



 南北350メートルにわたる城郭だったようですが、いま、遺されているのは北端に位置するこの本郭跡だけです。



 土塁跡。土塁を越えると裏口がありました。出た道は寶蔵院につづく高台の道でした。



 再び寶蔵院にきました。前回きたときは早朝です。庫裡の門灯が点いていましたが、人のいる気配は感じられませんでした。まだ日暮れ前で充分に明るいのに門灯は点されたまま。やはり無住の寺のようです。



 寶蔵院前から富士川に下る山道。前回見つけて、恐る恐る下ってみたら、下の道路に出られることがわかりました。



 自宅には寄らず、違う道を通って本土寺の参道に出ました。雨のない日はすでに二週間を超え、十七日連続となりました。参道脇の紫陽花はますます悲惨な状況です。

 行こうと思っていたのは旧小金宿本陣跡です。
 標柱が建てられているだけで、痕跡は何もないとわかっていますが、所在がハッキリと知れず、機会あるごとに捜しながら見つけられなかったのです。
 旧水戸街道に遺されている玉屋という旅籠が本陣跡と思いこんでいる人もいるようですが、明らかに違います。インターネットをさまよっていて、ようやく場所が確認できたのです。



 旧水戸街道から本陣跡に入る路地の入口。入るとすぐ左手にあります。
 私が所在を知った地図と現実とでは入口に当たる店が違っていて、こんな路地を二往復半させられました。



 ようやく見つけました。確かに標柱が建っているだけ。
 説明には代々大塚家が経営に当たっていたとありますが、右に見える玄関には「大塚」さんの表札がありました。



 今週、といっても月が変わってからの週末ですが、土曜日曜と小金宿まつりがあります。本土寺参道にはこの夜から提灯が吊されました。


富士川を歩く(2)

2010年08月27日 21時11分19秒 | のんびり散策

 今朝、富士川のつづきを歩きました。
 朝、七時に庵を出ました。朝のうちはときおり薄日が漏れる程度の、うれしい曇り空でした。曇ってうれしいというのも妙ですが、これもひとえに連日猛暑がつづくせいです。
 アキアカネが舞っているのを見ました。暑いのはイヤですが、かといって秋の気配を感じ取るのは、ようやく……とホッとするのと同時に、一抹の寂しさを伴います。

 不思議なものです。春から暑い季節に移って行くのと、夏から涼しい季節に移って行くのと、同じように一つずつ移って行く季節の移り変わりであるのに……夏に向かうときは感傷的になることなどないのに……。

 

 前回散策を切り上げた羽中橋から下流に向かって富士川河畔を歩きます。

 
 

 今朝もウォーキングをしたり、犬を連れた人がたくさんいました。

 

 寶蔵院や廣壽寺に行くときに上って行く坂道を遠望。短いけれども、結構急坂です。

 

 羽中橋から500メートル。葉ノ木橋です。橋の上から下流を眺めました。

 

 葉ノ木橋から350メートル。富士川3号橋。
 富士川1号橋とは羽中橋、2号橋は葉ノ木橋のこと。富士川に架かる四本の橋のうち、一番交通量の多い橋なのに、3号橋だけ愛称がつけられていません。
 四本の橋があるのに、なにゆえ3号で終わりかというと、実際の最初の橋はもっと上流-平賀川との合流点に架かる仲田橋なのですが、富士川に架かっているのにもかかわらず、平賀川8号橋ということになっているのです。

 

 富士川3号橋から300メートル。富士川と坂川の合流点に架かる御體橋(おたいばし)からの坂川下流方向の眺め。

 

 富士川が坂川に合流するところ。左上方から右に向かって流れ込むのが富士川。ここで富士川は終わりです。
 ここから1キロほどの長さしかありませんが、画像の左に向かって坂川を遡ります。

 

 坂川越しに見る流山免許センター。左に見える台地は戦国期から遺されている前ヶ崎城跡です。

 

 御體橋から600メートル。上流から見た富士見橋。このあたりの坂川は新松戸で見慣れた坂川とよく似ています。

 
 

 富士見橋から370メートル。八木南橋と同橋から眺めた八木川(左)と坂川の合流点。

 坂川の放流口に着きました。前にきたとき(去年の体育の日)はここから滝のように水が流れ落ちていました。
 ここで坂川も終わり。この先は地下の導水管が利根川までつづいています。

 

 野々下水辺公園。
 利根川と江戸川を結ぶ北千葉導水路の水の一部がここで地表に出て、せせらぎとなって流れているはずですが……。今日は水が止められていました。
 庵を出てからここまで三十数分。朝の小散策のつもりでしたが、もう少し先まで歩いてみます。

 

 北千葉導水路の導水管を輪切りにしたモニュメント。

 

 野々下水辺公園の少し先。セブンイレブンが見えたので、飲み物を買おうと向かったら、台地の上に寺院を思わせる甍が垣間見えました。
 道を捜して上ってみたら、真言宗豊山派の金乗院というお寺でした。創建は江戸初期という説明書きがあっただけで、詳細は不明。流山・赤城神社の別当だった光明院の末寺です。いつもは無住のようです。

 庵に帰って知るのですが、このあたりまでくると、東武線の豊四季まで徒歩十分ぐらいです。随分遠くまできました。

 
 

 帰りはほんの少し足を延ばして幸田(こうで)湧水に寄りました。
 前に見たときは湧水量が少なかったので、この旱天つづきでは、もしかしたら涸れているのではないかと思いましたが、水位は変わっていないようです。
 本土寺参道の紫陽花など、すっかり萎れて元気をなくしているのに、この付近には地下水脈があるのでしょう。木々の葉はいずれも瑞々しい
のです。母なる大地はすごい。

 

 鶏頭を目にするのは久しぶりです。
 近ごろは朝顔を咲かせる家もなかなか見ないようになりました。私の子供のころは、夏休みというと宿題の定番-観察日記とも結びついて、朝顔だったものですが……。いわんや桔梗をや。

↓前回スタートした根木内歴史公園から今回の金乗院までの航空写真をつけました。
http://chizuz.com/map/map74057.html


富士川を歩く

2010年08月26日 09時51分51秒 | のんびり散策

 三日前のブログに、北小金には焼き立てパンの店がない、と書いたら、そんなことはないというコメントが早速ありました。
 ご教示たまわったパン屋さんは、ほとんど歩かない方向なので知りませんでした。で、昨日の朝、早速視察に行ってきました。

 家を出たのは朝六時半。曇り空で、涼しそうだったので、一か月ぶりに廣徳寺の作務に行こうと、軍手やら携帯用アースノーマットやらを持って出ました。
 当面はこれまで歩いていない道を歩こうと思って、本土寺の参道入口まで出ず、途中の道を適当に右に折れると、教えてもらったパン工房マキノという店の横合いに出ました。本土寺参道と交差している、通称まてばしい通りに面しています。

 六時半という時間は、新松戸でもサフランという店がようやく一軒だけ店を開ける時間ですから、開いているなどとは期待していません。今回は様子だけ確かめて、日を改めて行くつもりでした。

 


 遠目にもテラスがあるのが見えました。正面に廻ろうとすると、「本日は終了しました」という掲示が目に入り、とっさにこれは遅いなと思わせました。開店時間のことです。
 見ると案の定です。開店は九時。「焼き立て天然酵母パン」と店名と並べて標榜しているのに、開店時間が遅い。つまり、一般の勤め人は朝食に焼き立てのパンは食べられないということになるわけです。いまのところ勤めのない私にも九時という時間は遅過ぎます。
 問題は安価で、美味しければよいのですが……。

 写真を撮っているうちに、朝日が顔を覗かせました。まだ七時になっていないのに、かなり強い陽射しです。
 廣徳寺に行くためには、この陽射しを背中にもろに浴びて歩かなければなりません。涼しそうだと思って出てきましたが、一時間後、二時間後の暑さを考えると、脱水症状に見舞われたり、熱中症に罹りかねません。
 作務をしたいとご住職に申し出たとき、私の体調は現在よりよくない状況でしたから、ご住職が心配されたのもそのことでした。私が担当する場所は人の通らないところです。意識を失ってバッタリ……と行っても、気づく人はいない。
 バッタリ行くのは私自身は構わないけれども、お寺に迷惑をかける。作務は回避しておいたほうがよさそうです。

 松戸周辺ではこの十四日から雨がありません。十二日、十三日と雨は降ったものの、それぞれ2ミリ、1ミリ……。お湿りともいえません。
 ちょっとの外出でも汗グッショリになって帰って、洗濯をすれば、ものの数分で乾いてしまう、というのはありがたいことですが、ともかく連日暑いのです。



 真横から眺めた廣徳寺の本堂です。
 ここまでくるのに、心臓に結構堪える上り坂があります。ハァハァと息を整えたつもりでも息が上がっているし、肩から胸のあたりにかけて、早くもジットリと汗ばんでいます。やはり作務は見合わせることにしました。



 帰りは別の道を通ったら、香取神社がありました。

 


 香取神社の狛犬。阿形はスターウォーズのヨーダみたいです。



 小金北市民センターと廣徳寺への二股に建つ青面金剛と聖徳太子講の石柱。ここまで戻ってくると、本土寺の参道は目と鼻の先で、我が庵へも数分。

 お昼前、別の方からもコメントがありました。私がときどき行っていた新松戸のパン・デ・モルデよりマキノのほうが美味しいよ、というようなコメントでした。

 午後、根木内城址(歴史公園)へ散策に出ました。去年のゴールデンウィークに訪ねて以来、二度目です。
 新松戸からやってくるのではちょっとホネがありますが、新しい住居からなら徒歩二十分と軽い散策には最適です。

 


 去年は入口がわからず、ここでいいのだろうかと、半信半疑でこの坂道を上りました。
 確かこんな標識はなかったはずです。「入口がわからん」とブログに書いた(ほかにも書いている人がいました)のが要因で、この標識が建てられたとしたら、我がブログも少しは役に立っていることになります。
 さらに欲をいえば、道路からの入口の標識(画像上)ももっと前のほうがいい。北小金駅のほうから歩いてくると、ここに何かがあると予測して、横を見ながら歩く人でなければ、見過ごしてしまいかねません。



 大手口土塁跡。土橋の左右は空堀になっていて、深さは6メートルあります。
 根木内城は寛正三年(1462年)、高城胤忠(?-1517年)によって築かれたと伝えられています。曾孫の胤吉(?-1565年)が天文六年(1537年)に大谷口城(小金城)を築くまで高城氏の本拠でした。



 土塁を通り抜けると広場。郭跡です。



 根木内城東側の空堀跡。
 空堀ですが、湿地帯になっているので、水堀の役割を果たしたのだろうと思われます。去年はここに水の流れがありましたが、旱天つづきの今年はすっかり乾いてしまっています。



 根木内歴史公園脇を流れる富士川。草が生い茂って水面は見えません。
 あとで訪れますが、この先、平賀川と合流するまでの富士川は上富士川と呼ぶようです。



 県道261号線(旧水戸街道)に架かる根木内城址橋から見下ろした上富士川(下流方向)です。
 源流の一つはここから歩いて行くと三十分以上もかかる大清水湧水ですが、川沿いの道がありません。湧水には水車もあるようなので、日を改めて上流探索ということに……。
 ここから下流に向かって歩きます。

 


 根木内歴史公園の中に架かる霜田橋とそこから見た上富士川(下流方向)。



 国道6号線をガードでくぐった直後 ― 川は左の柵の下を流れています。このあたりでは川幅は数メートルと狭まって、川というより用水路です。



 常磐線をくぐる砂尾ガード。上富士川も暗渠になってこの下を流れています。

 常磐線をくぐり抜けたところで、いったん
川沿いの道はなくなります。



 常磐線の砂尾ガードから迂回して約400メートル。仲田橋の上流で画像右手から流れてくる平賀川と合流。めでたく富士川となりました。

 


 仲田橋から川沿いの道が復活。すぐ先には富士川親水広場(画像下)があります。親水広場とはいっても、見渡したところ水辺には降りられないようです。



 仲田橋からおよそ550メートル。羽中橋まで歩き、上流方向を望みました。
 この羽中橋は寶蔵院や廣壽寺に行くときに渡る橋です。ここから1キロ下流で坂川に合流します。次はこの橋から下流に向かって歩きます。


北小金駅南口散策

2010年08月23日 20時59分37秒 | のんびり散策

 今朝は四時半に目を覚ましました。
 廣徳寺へ作務に行こうか、と思いましたが、ここ数日の暑さを振り返ってみると、朝夕は涼しくなったものの、明るくなるとすぐに暑くなる。
 作務に出るのはもう少し涼しくなってから、と思うと、そろそろ一か月以上の空白をつくることになりますが……。
 可燃ごみを出したついでに近隣の散策に出ました。



 常磐線を渡るためには、北小金駅のコンコースを抜けるか、駅の少し東側にあるこの跨線橋を越えなければなりません。
 新松戸の場合も、線路の向こうへ出る道は限られていましたが、向こうへ行く必要はあまりなかったので、特別不便だとは思いませんでした。
 ここでは繁華街が常磐線の向こう側にあるのです。

 


 またハワイ通りを歩きました。先日行った郵便局から100メートルほど歩くと、棕櫚(シュロ)の樹が見えてきました。これがハワイ通りと名づけられた名残です。残されている樹は六本。ここだけ建物がセットバックされ、歩道が幅広くなっています。



 交差する道路の右手坂上に妙典寺という日蓮宗の寺院がありました。本土寺に近いので、本土寺の末寺かと思えば、本寺は中山法華経寺。

 


 本堂正面にある芭蕉の句碑。

 志ハらくは 花のうへなる 月夜可奈

 芭蕉の年譜を調べると、この句が詠まれたのは貞亨五年(1688年)春、蕉翁四十五歳のとき。
 裏側に何か彫られていますが、植え込みが邪魔をしていたので、よくわかりません。
 碑が建てられたのは文政八年(1825年)三月五日。
句の脇には松朧庵探翠建之と彫られています。
 松朧庵探翠は小金在住の人で、今日庵元夢の弟子。今日庵元夢は小林一茶が俳句の道に入るきっかけをつくった大川立砂の師です。



 妙典寺前にプロテスタントの教会。いま、読んでいる隆慶一郎の「風の呪殺陣」にも、叡山の僧侶と聖母マリアに憧れる美少女との絡みが出てきます。



 妙典寺からは近いので東漸寺に参詣。

 


 仁王門前に黒の野良殿がいました。私が近づくとサッと逃げましたが、腰を下ろしてミオを取り出すと、ちょっとだけ戻ってきて尻尾を振っていました。



 中門を望む参道。佳い雰囲気です。



 本堂前、左手にある観音堂です。聖観音を祀っています。



 本堂前に到ると、ちょうど読経の最中でした。蝉の声が高かったので、はっきりとは聞こえませんでしたが、「ナムアミダーブー、ナムアミダーブー」というのが何度も聞こえたような気がします。阿弥陀経だったのでしょうか。



 竹内兄弟の墓。
 元治元年(1864年)三月、水戸の武田耕雲斎、藤田東湖らを首領とした天狗党が挙兵しました。小金の郷士だった竹内廉之助、哲次郎兄弟も天狗党に参加しましたが、同年九月、哲次郎は戦死(二十四歳・右の墓)。廉之助は薩摩藩邸の浪士隊(のちの赤報隊)に加わりました。しかし、赤報隊は偽官軍と見なされて、やがて壊滅。このときの戦いで廉之助も戦死(三十一歳・左)。銘を刻んだのは渋沢栄一。



 縄文前期(六千年前)と後期(三千五百年前)の貝塚・境外(けいがい)遺跡と六地蔵。

 
 


 小金道を歩いたときに見つけた鐘楼脇の小径を下りました。びっしりと落ち葉です。熊手でゴッソリとかき集めたくなります。



 小径を下って車の通行量の多い道路を横切り、再び坂道を上ると、八坂神社の前に出ました。
 小金一帯の鎮守で、元はサティがある場所に祀られていましたが、昭和四十七年、市街地再開発に伴って現在地に遷座されました。



 一風変わった手水舎です。真ん中の簾を上げると、柄杓があります。

 


 随分顔のほっそりとした狛犬です。

 


 こちらは拝殿右にあった小社の狛犬。多分昔からある狛犬です。阿吽の配置が一般とは反対。 

 


 北小金駅南口・サティ前の交差点に建つ八坂神社跡地の碑です。
 裏を見ると由来が彫られているようですが、まったく読めません。とりあえず撮影しておいて、あとで拡大、と思ってカメラに収めましたが、うっすらと「天文年間」という字が読みとれる以外、結局読めません。



 南口デッキにある史跡の案内板。旧水戸街道旧屋敷、東漸寺と一緒にマツモトキヨシ発祥地(上から四つ目)も標示されています。うーむ、マツモトキヨシ発祥の地もすでに史跡のうちか。



 北口にある鹿島神社。小さな社で社務所もありません。もちろん無住。



 電車で一駅なのに、北小金が新松戸と違う一つは焼き立てパンを標榜する店のないことです。
 絶無というわけではありませんが、旧宅近くにあったパン・デ・モルデのように、朝早くから店を開け、そこで食べることもできる、というような店はありません。
 鹿島神社の入口に、「あった!」と思ったら、いまは製造とパン教室を開いているだけのようでした。


寶蔵院まで

2010年08月21日 10時50分27秒 | のんびり散策

 転居して初めて朝の散策に出ました。
 まだ部屋の片づけが終わっていません。積んだままだったダンボール箱はかなり空けましたが、これ以上空けても、部屋には収まらないということがはっきりしてきました。あとは厳選に厳選を重ねて、棄てて行くしかありません。

 ここ数日暑かったので、心持ち涼しい感じです。転居したあと、最初に行った寶蔵院というお寺まで行くことにしました。



 松戸市と流山市の境界を流れる富士川です。場所を限定して写真に撮ると、涼しげな清流という感じがします。
 川沿いの道には犬を散歩させる老夫婦、ジョギングする人……。朝、六時を過ぎたばかりでしたが、結構人出がありました。

 そうか、と刺激を受けて、できるだけ早足を心がけて歩き始めましたが、いつの間にか、のったりまったりとした足取りに戻っていました。



 稲穂も色づいてきています。半月前に散策で通りかかったときはまだ水が張ってあって、緑一色でした。



 寶蔵院のある高台です。標高差は10メートルほどですが、まっすぐに上る坂道なので、息が切れそうになります。



 寶蔵院手前に根が剥き出しになった奇っ怪な樹がありました。道は鬱蒼とした木立に囲まれているので、薄暗く、なんの樹だかわかりません。



 我が庵から1キロちょっと。十五分で寶蔵院に到着です。
 境内は蝉の声が聞こえるだけで、静かな佇まいです。ときどき犬を連れた人が門前を通り過ぎて行きますが、境内に入ってくる人はいません。



 前回も見た八十八体の弘法大師像。
 八十八体とは四国八十八か所のこと。それぞれの像の下、長方形をした石には一つ一つ八十八か寺の名が彫られています。



 本堂前に植えられた百日紅(サルスベリ)の樹です。
 六時過ぎという時間はお寺にとっては決して早い時間ではないはず。無住とは思えませんが、お寺に人が住んでいるような気配は感じられませんでした。



 寶蔵院の寺域なのかどうか、微妙なところにあった栗の樹です。栗は……しばらく食べていません。今年は桃も梨も食べませんでした。



 帰りがけ、流山市から松戸市に戻って見た民家の桔梗殿です。まだ蕾もたくさんあって旺盛です。



 寶蔵院の百日紅の種子をいただいてきました。もちろん地面に落ちていたものを……。芽を出してくれるかどうかわかりませんが、鉢に埋めてみようと思います。


本土寺界隈から

2010年08月19日 12時01分21秒 | のんびり散策

 一昨日、パソコンの帰省先から電話がありました。お盆休みが終わって、いよいよ戻ってくるのかと思ったら、戻らないという連絡でした。
 何がどうなっているのやら、私にはまったく理解不能でありましたが、ハードディスクが修理不可能という状態に加えて、CDを読みとるセンサーも不良、モータも不良。そのほかにも、もろもろ不具合があって、修理というより取り替えねばならぬパーツが多過ぎるようなのです。直して直せないということではないが、つまるところ、新しいパソコンを買ったほうが安いのではないか、という宣告の電話だったのです。
 またしてもヤレヤレ、です。当分見づらいノートパソコンで凌ぐしかありません。

 暑いのでやる気が出ないといいながら、転居して半月も経過してしまいました。それなのに段ボール箱の数が減りません。一日じゅう家にいるので、いつでもできると思うせいか、集中力が欠如しています。
 開けるのをあと回しにしている段ボールは部屋の隅へ隅へと追いやられて行くので、必然的に風のこない場所に置かれることになります。そこに坐り込んでいると、何もしなくても、ただ坐っているだけで、見る見る汗が浮かんできます。

 廣徳寺の作務も先月の二十五日に二回目を果たしてから、ひと月近く経とうとしています。於京(おけい)も見ていません。

 市役所へ転居届を出すのも忘れていました。
 市役所支所に転居届を出したあと、郵便局へ……。
 先週、ハローワークで見つけた求人先へ、履歴書に併せて職務経歴書を送る必要があったので、80円切手一枚では料金不足かもしれぬと思ったのと、ゆうちょ銀行の口座の住所変更届を出すためです。



 カンカン照りの日射しの下、車の排気ガスに煽られながら、ハワイ通りと名づけられた道を歩きました。
 誰がなんの意図を持って名づけたのか。昨日のような日は「ハワイ」という字を見るだけで、汗が二倍になるように感じます。
 松戸市のホームページによると、通りの名の由来は、昭和三十七年ごろまでシュロ(棕櫚)の並木があって、南国のおもむきがあったので、ハワイ通りと呼ばれることになった……ということらしい。
 いまは一部だけに棕櫚の並木が残されているようですが、昨日は残されているところまで行きませんでした。

 


 郵便局まで行く途中に、清閑院という和菓子屋がありました。京都南禅寺近くに本店を構える店です。東京にも本店があって、鎌ヶ谷、船橋……と千葉県内には結構出店しているようです。
 下の画像は「朝摘みとまと」。一つ¥241。いまの季節はこんなんが涼しくておいしそうです。お菓子の写真は京都の和菓子☆ドットコムから拝借。

 清閑院という名前は涼しそうですが、つづけて書こうと思いながら、私には荷が勝ち過ぎて中途半端で終わっている清閑寺のブログを思い出してしまいました。



 北小金駅交差点にある「右水戸道中、左なかれ山(流山)へ」の道標。旧水戸街道を挟んで、マツモトキヨシ発祥の地の前にあります。



 本土寺参道の碑。いまは常磐線で分断されてしまっていますが、昔はここから本土寺の参道だったのでしょう。



 北小金駅を通り抜けて、駅から200メートルで参道の入口です。本土寺へはここから500メートル。

 


 お寺に向かって参道の左側。参道を入ると一番最初にある店・さくら茶屋。
 松戸市内八ヶ崎というところにある、びわ亭という料理店の別館です。しゃぶしゃぶと会席料理の店と銘打ってあります。本土寺の法事で利用する人が多いみたいです。 

 


 参道左側。手打ち蕎麦の草木庵。
 蕎麦粉は信州開田高原産を使用。上の画像で真ん中の光っているところがガラス張りになっていて(下の画像では暖簾の左)、店主が蕎麦打ちするのを見ることができます。

 


 参道右側を少し入ったところにある割烹料理店・大門。
 地元の野菜を使った料理が人気のようです。

 


 途中までは両側に遊歩道があります。



 遊歩道にはこんな古株や石などを使った腰掛けがあります。歩き疲れたり、荷物が重いときは、ここに坐って、しばし蝉時雨に打たれながら……。



 参道右側。花屋……かな? と訝りつつ前を通っていました。縁台のようなものがあって、ときおり花が並べられているのを見ることがあるので、花屋だろうと思うのですが、いつも売り切れ寸前に通りがかるからか、二~三人分が残っているだけです。この日も首を傾げながらカメラのシャッターを押しました。
 店の名もありません。店の中には絵や西洋ふうの陶器人形が飾ってありますが、売り物ではないようです。



 去年に較べると、今年の夏は暑いけれども、暑さそのものは例年と変わりがない。特徴は雨が少ないこと。参道脇の紫陽花もこんなふうに萎れかけです。



 参道に入って300メートル足らず、道はYの字型に分かれます。左手の暗がりに向かうのが参道、右に曲がって行く道が私の新しい庵への帰り道です。



 庵には遠回りして帰ることにして、左の道を進みます。
 参道の右側。クリーニング店(手前)と美容室。両店とも夏休み中でした。



 参道の左側。あじさい鍼灸整骨院。
 こちらは営業していましたが、休憩時間中でした。

 


 参道左側。かふぇどえんで。
 Cafe de Endeというアルファベット標記がありましたが、「de」を「ど」(より原語に近く表記すれば「どぅ」と発音するのはイタリア語でもなく、スペイン語でもなく、フランス語だけですが、Endeというフランス語はないので、どういう意味なのか。エンデさんという人でもいたのか。いつも香しい薫りを嗅いでいるだけで、まだ入っていないので、詳細は不明です。



 参道左側。漬物の黒門家。
 新松戸にいたころ、ときたまくることがあっても、開いていたり閉まっていたり。営業しているのか、いないのかわからなかった店。この日は店を開けていました。



 参道左側。漬物の赤門家。
 こちらも私には気まぐれに営業しているように感じられる店。こちらはお休み。



 仁王門前に着きました。


八重葎の里から

2010年08月06日 21時41分45秒 | のんびり散策

 狭いながらも前後を庭に挟まれた我が新居。
 裏手だけ草刈りをしましたが、きた早々は草ぼうぼうだったので、八重葎(ヤエムグラ)の里と名づけました。

 一方、部屋の中は片づかない ― 正しくは、暑いので片づけようという気が起きない ― ので、片づけは放っておいて、近隣の散策に出ました。陽射しは強いけれども、段ボール箱の山に囲まれて、身動きの取れない家にいるよりは外に出たほうがマシです。



 我が庵を出て五分も歩くと、高台が切れて、道は富士川に向けて下って行きます。
 画像手前が下流。やがて私には馴染み深い坂川に合流して東京湾に注ぎます。この川を渡ると(画像では左側)流山市です。



 狭い谷ですが、あたり一面は稲田です。このあたりまで、歩いて十分ぐらい。
 秋の稲刈りと来春の田植えを見てみたい。



 こんな標識を目にすると、つくづく田舎にきたもんだと思います。



 徒歩十五分で寶蔵院というお寺に着きました。我が新居とは富士川を挟んで反対側の高台にあります。
 真言宗豊山派のお寺ですが、創建年代ははっきりしていないそうです。本堂の右手前は百日紅(サルスベリ)の樹で流山市の保護樹木。



 寶蔵院の本堂裏手。八十八体あるという弘法大師像。



 さらに歩みを進めて、寶蔵院のある台地を下り切ると、流山市立東部中学校前に出ました。名都借(なづかり)谷津と呼ばれる谷で、かつては川が流れていたのでしょうが、いまはわりと交通量の多い道路に変わっています。
 その道路を渡ると、道は緩い上り坂になり、左手に標高20メートルほどの大井戸根と呼ばれる台地が迫ってきます。戦国期までは名都借城のあった跡で、いまは廣壽寺というお寺があります。

 名都借城の築城年代および築城者について正確な記録はないようですが、大永七年(1527年)、古河公方・足利高基が小弓(おゆみ)公方・足利義明方に属していた名都借要害を攻めさせた、と記録にあります。
 このとき、高基が戦功を賞した感状が遺されているので、常識的には名都借城は高基側に下ったと考えられるところですが、その一方、大谷口城と名都借城は相反目していたという言い伝えも遺っているそうです。

 文亀三年(1503年)、足利義明を擁する武田信保に小弓城(千葉市中央区)を攻められ、高城胤吉は根木内に逃れます。ここで体勢を立て直し、大谷口(小金)城の築城に着手しますが、城が完成するのは名都借要害攻めより十年もあとの天文六年(1537年)です。言い伝えが確かなものだとすると、翌天文七年の国府台合戦で義明が討ち死にするまで、名都借城には義明方の誰かがいたのかもしれません。



 畑に分け入って急坂を上ると、廣壽寺の山門です。
 永禄五年(1562年)創建の曹洞宗の寺院です。開基は高城胤辰(1537年-83年)。嫡子・胤則(1571年-1603年)が開基という説もありますが、永禄五年の創建が正しければ、胤則が開基ということはあり得ません。



 この中に本尊の厄除け観音が祀られていますが、かすかに覗き見られるだけで、写真は撮れませんでした。



 これが名都借城の土塁跡らしい。



 廣壽寺から八分で清瀧院(せいりゅういん)に着きました。
 畑の中にスクッと建っているので、斑鳩の里を歩いているのかと錯覚を起こしかけました。ここも真言宗豊山派の寺院です。江戸時代は末寺五十三寺を擁する大伽藍だったようです。

 


 身丈2メートル20センチの金剛力士像。江戸末期の作と伝えられています。
 かつては仁王門があったそうですが、いまは御堂の中に……。辛うじてカメラのレンズだけが突っ込める隙間を利して撮影したので、阿吽同じようなバランスで、とはいきません。



 清瀧院に祀られている流山七福神の一つ寿老人。



 境内にある、樹齢四百年以上といわれる枝垂れ桜。樹高は10メートル。



 清瀧院から約十分。前(去年十月十二日)も訪ねた前ヶ崎城趾公園前に出ました。
 名都借城からは直線距離だとわずか700メートル、ゆっくり歩いても十数分しか離れていません。ともに大谷口城の支城だったとすると、あまりにも近過ぎるのではないかと思われます。やはり名都借城は一時期大谷口城と対立関係にあり、大谷口城の支配を受けるようになってからも、なんらかの利用価値があったので、そのまま遺された、と考えるべきでしょうか。

 


 我が庵の周辺には畑がいっぱいあり、ところどころにこんな無人の野菜即売所があります。
 流通経路を省いているので、一見安いと考えがちですが、中には??と首を傾げたくなるものも、なきにしもあらず、です。



 本土寺参道近く。農家の門先。
 周辺をすべからく観察したわけではありませんが、価格はここが一番安いみたいでした。

 


 本土寺の仁王門前。赤門家、黒門家と並ぶ漬物屋さんのうち、赤門家の店先にも野菜が置いてありました。
 左隅にあったトマトのうち、一番青っぽいのを買いました。三つで¥200也。



 本土寺山門です。
 新松戸に棲んでいたときから何度か訪れていますが、引っ越し後は初めてきました。毎朝毎夕、ここで鳴らされる梵鐘の音を聴いてしんみりとしています。

※後記。本土寺では鐘を撞きません。私が聴いていた鐘の音は東漸寺という別のお寺のものでした


新鎌ヶ谷駅の桔梗

2010年07月23日 20時50分30秒 | のんびり散策

 今朝もいつもの公園まで散歩。まだ六時過ぎという早い時間なのに、ガキどもが集まっていました。



 何事ならんと思ったら、ラジオ体操でした。今日から学校は夏休みです。



 ガキどもが現われたりすると、身を翻して逃げてしまうのが常の於京(おけい)が集団から遠く離れながらも、逃げることなく坐っていました。ラジオ体操など見たことがないので、珍しかったのでしょうか。
 しかし、眠そうでした。眠いのなら寝てしまえばいいのに、私の近くに坐ったままで、ときおり目を閉じて眠っていました。
 今朝はちゃんと食器を用意しておきました。ジャム瓶の蓋一杯のミオでは食べ足りぬようだったので、特別にお代わり一杯追加。

 仕事のない私には土曜も日曜もないのですが、世間も休みだと思えば、どこかへ出掛けるかと思ったり、部屋の片づけをするかと思ったりします。
 いまの私は引っ越しを控えているので、土日を問わず荷造りにかからなければならぬのですが、引っ越しを頼んだ運送屋さんの都合で、月曜日でないと段ボールの手配がつかないというのです。この土日で少しでも荷造りを進めて行こうと目論んでいたのに予定を狂わされ、焦りも手伝って落ち著かない気分です。
 食器や割れやすいものを新聞紙でくるんだり、靴を箱に入れて紐で縛ったりと、できることもあるのですが、食器棚を空にしても、代わりに床が置き場所になって、少しずつ足の踏み場がなくなってくるだけ、と思うとイマイチ気が進みません。

 九時になるかならないか、キーンキーンという金属音が響き始めました。カッターでアスファルトを切っている音です。先月からマンション前の道路で水道工事が始まっているのです。
 工事期間は九月初旬までの二か月半。長さ130メートルほどの道路にしては随分時間をかけるもんだ、と思ったら、日によって路地に入ったり、また戻ってきたりしています。
 ひが目かもしれませんが、暑苦しい騒音を伴う工事はわざと暑い季節を選んでやるような気がします。

 私はエアコンが苦手な体質なので、夏は窓を開け放しにしています。すると、こういう金属音はたまりません。避難して図書館でも行くかと思い立ちました。
 外へ出ると、陽射しが翳っていて、昨日ほどの暑さではないようです。

 ところが、新松戸で電車を待っている間、また陽射しが戻ってきて、ムッとする暑さになりました。県立西部図書館は新八柱まで一駅だけ武蔵野線に乗り、十数分歩かなければなりません。この暑さの中を図書館まで歩くのはちょっとかったるいかな、と気持ちが引きかけたとき、そういえばそろそろ最後かもしれない、と気づくことがありました。

 最後、というのは新鎌ヶ谷駅前にある桔梗の花期のことです。
 今年二月、偶然その駅で降りることになって、駅前に桔梗が植えられ、鎌ヶ谷市の市の花が桔梗であると知ったのです。急遽図書館行は変更。桔梗を見に行くことにしました。

 


 新八柱で新京成に乗り換えて十二分。改札を出たら、100メートルほど手前から桔梗の花壇が見えました。目に入ったときから私の目尻は垂れ下がり、顔はほころんでいます。懐かしい友達に会ったような気分です。
 開花の時期が取手の高井城趾の群落と一緒だとすると、二週間近く前が最盛期です。すでに萎れた花が目立つのは仕方がありません。
 その数、百株? では、きかないか。数は結構ありますが、生えるに任せて放ってあるという印象です。折角植えたのですから、もうちょっとやりようはないかなと感じました。
 私を緑関係の嘱託で雇ってくれれば、もし予算がないというのなら、交通費だけのボランティアでもいいが、丹精込めて、たとえば次の画像のように……。



 これは紫式部ゆかりの京都・廬山寺の源氏庭に咲く桔梗です。
 予算がなければ、白い石を敷き詰める、てな具合にはいかないかもしれませんが、せめて少しずつ株をまとめて、と考えるのですが。

 近くに佐津間城という戦国期の城跡があると知ったので、このあと向かうことにしました。

 


 大宮神社。
 新鎌ヶ谷から歩き始めて二十数分。鳥居が見えたので寄ってみましたが、無人でした。
 千葉県神社名鑑によると、祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)。元禄三年(1690年)三月に再建したという記録が遺っているようですが、それ以前の由緒および沿革は不明。



 新鎌ヶ谷駅から佐津間城趾間(2・2キロ)で初めて、であり、ただ一軒だけ出会った民家の桔梗です。

 鎌ヶ谷市の市の花が桔梗になったのには、いわく因縁があるわけではありません。一種のファン投票によって決まったのです。
 決め方は構わないけれども、桔梗がよいという市民が一番多かったからには、全戸、とまではもちろん期待しないが、何軒か桔梗を愛でている家があるのだろうと思いました。
 しかし、行けども行けども桔梗の花はない。
 フン、所詮はこんなことか! これが民意というヤツの正体なのだ。
 帽子は被っていましたが、いまにも血液が沸騰するかのような暑さで八つ当たり気味でした。
 それでも一軒だけでも桔梗を植えてくれている家があってよかった。

 佐津間城趾は新鎌ヶ谷の駅からさほどの距離でもないと思ったのですが、地図を読み違えていました。東武線で一つ柏寄りの六実駅を新鎌ヶ谷駅だと思い込んでいたのです。
 歩き始めれば、すぐあるはずの大宮神社がなかなか見えてこないので、待てよ、と思って地図を開いたら、かくの如し、だったわけです。
 引き返すのも業腹なので歩きつづけましたが、結局三十分も歩いてしまいました。

 


 佐津間城趾。
 鎌ヶ谷市内で城跡と認められるのは、ここを含めてただの二か所しかありません。左の画像の中央に石段がありますが、そこを上り詰めた右側あたりが本郭跡であろうと考えられています。

 石段を上って行くと、空堀跡と思しき窪みがあったりしますが、いまの季節は藪蚊の季節です。覗き込もうと歩みを止めたとたんに、ウィーンとやってくるので、早々に尻尾を巻くことにしました。



 佐津間城趾をあとにしたら、桔梗を愛でる家がさらにもう一軒ありました。この先になおも一軒ありましたが、庭の奥のほうだったので撮影できませんでした。



 佐津間城趾から二十分。途中、日陰がまったくなかったので、一時間以上歩いた気分で、気息奄々となりながら東武線の高柳駅に辿り着きました。いつの間にか市境を越していて、この駅があるのは柏市です。


朝の散歩(3)と小金道

2010年07月06日 18時53分25秒 | のんびり散策

 今月、引っ越さなければなりません。まだ引っ越し先のアテはないのですが……。
 とりあえず不要なモノを棄てて行こうと、火木土と週に三日の可燃ごみ出しの朝は二~三袋のごみ出しをしています。今朝も二袋。 



 ごみ出しのあと、野良の猫殿が棲息する鐘の下公園へ行ってみました。昨夜はまた雨で地面が濡れているからか、今朝は姿を現わしませんでした。

 ミオが払底してしまったので、いつも買い足しに行くスーパーへ行きました。ところが店内はちょっぴり模様替えをした形跡があって、小分けして売っていたミオが見当たりません。いまなら600グラム増量中のユニチャームのキャッティ(1・8キロ入り)というキャットフードを買いました。
 まあ、こちらのほうが断然安価なので、助かるといえば助かるけれども……。使っていなかった小振りのタッパーウェアに詰めて持って行きましたが、あえなく持ち帰り。



 開店直後の焼き立てパンの店です。先日は日曜だったからか、満杯の盛況だったテラスは今朝は無人。今朝こそここで朝食、と思ったら、店内には結構な数の客がいました。
 入るとすぐ無料のコーヒー抽出器があって、数人が並んでいました。まだテラスに坐っている人はおりませんでしたが、待ち人の数からいって、どうもテラスには坐れそうもありません。
 餡ドーナツ、オニオンロールとコロッケを買いました。〆て¥360。テラスで食べられればトレーに載せたままにして写真も撮ろうと思っていましたが、食べられそうもないので、持ち帰りにしてもらいました。
 ところが、日曜日のように暇人はおらず、勤めに出る前に食べて行こうとする人ばかりだったのか、私が勘定を済ませたときには、いっとき満杯になっていた椅子はすっかり空いていました。



 そこで今朝は私がとびきりの暇人になって……。テラスに坐った眺めはこんな感じです。



 小金道を横切って、流鉄の小金城趾駅まで歩きました。線路と平行して流れる新坂川土手には100メートルほど紫陽花の花がつづいています。



 新坂川に沿って下ると、再び小金道に出ます。



 カワウがおりました。見ていると、餌を捜しながら、結構長い間潜っています。

 昼前、市役所に提出する必要書類が整ったので、松戸市役所へ。いつもは左横から入りますが、今日は正面から。市役所の真正面に小根本神明神社という社があります。

 


 石段の上に小さな社があるだけです。説明書きもないので、詳細は不明。下は松戸市役所から見た社殿の裏側です。

 事前に電話を入れたとき、出かける予定があるので、別の人にことづけを、といっていた担当者と市役所本館入口でバッタリ会いました。担当部署まで行くことなく、そこで用が済みました。



 帰りは新松戸の一つ手前・馬橋で降りました。
 小林一茶が奉公していた油平こと油屋・大川平右衛門(俳号は立砂、栢日庵とも)の居宅跡だけ見て帰ろうと思ったのですが、正面に萬満寺を見ると、もう何度か参詣していますが、やはり寄って行こうという気になりました。

 


 萬満寺山門と山門右にある、まだ新しい鐘楼堂です。
 墓所を見ようと鐘楼の真下に到ったとき、ギリギリという妙な機械音を聞いたと思ったら、いきなり鐘が鳴ってびっくりしました。ちょうど十二時でした。
 電動式だったのです。お寺も人手不足か、それとも省力化の一環か。
 どういう仕掛けが施してあるのかよくわかりませんが、撞木がいかにも機械的な音を立てながら、ジリジリと下がってゴーン。私は
口をあんぐり……。

 私が敬愛していた詩人の故・坂村真民さんが、「最近はね、坊主が朝寝ておっても、電気仕掛けで灯明がパッ、鉦がチーン、鐘がゴーンや」といっておられたことがあって、「本当ですか」と訊き返したものですが、まさかほんまだとは思わなんだ。

 旧水戸街道は萬満寺前で右に折れて、上り坂を上り切ったところで、現在の国道6号線に合流します。
 流山の一茶双樹記念館で頒布している「葛飾下総今様小金道繪圖」(私はまだ手に入れていません)によれば、小林一茶は秋元双樹を訪ねるべく、水戸街道を下り、北小金の東漸寺から小金道を経由して流山に向かっています。
 現在の道を歩けば、馬橋から流山まで9・1キロ。いまの私の体調体力気力とこの蒸し暑さではとても歩けませんが、いつの日にか歩いてみようと決意を新たにして帰ることにしました。

 萬満寺前から我が庵まではおよそ2キロ半。歩くと三十分かかります。



 馬橋と新松戸の中間あたり。三日月(みこぜ)神社がありました。
 鳥居の左手に地区の集会場を兼ねているような会館がありましたが、社務所はなく無人でした。

 今日もデュークなんとかさんお勧めのシェイプアップシューズを履いていましたが、どうやら長い距離を歩くようにはできていないようです。足の小指は当たらないけれども、足の裏が痛くなってしまいました。



 松戸市内では本当に桔梗の花にはお目にかからないなぁ、と慨嘆していたところで出会いました。
 いまの季節だと私はただ歩くのではなく、どこかに桔梗の花がないかと注意しながら歩いています。
 お寺を巡って市内を歩くことは頻繁でも、路地を歩くようなことが少ないせいか、桔梗を植えている家を見たのはこの家でやっと三軒目です。
 先方から断わってくる恐れは充分に考えられますが、桔梗を愛してくれる人ならば問答無用に私の友達です。

 隣の鎌ヶ谷市民は、鎌ヶ谷には縁も所縁もない桔梗が市の花に相応しいと選んでくれたのですが、松戸市民は縁もゆかりもない桔梗には、結局縁もゆかりもないらしい。
 ちなみに松戸の市の花は躑躅(ツツジ)、紫陽花(アジサイ)、野菊です。市の木はユーカリ、椎(シイ)、桜、梨と、どちらもたくさん制定して欲張り。


朝の散歩(2)

2010年07月04日 09時11分33秒 | のんびり散策

 今朝、また鴉どものエールの交換で目を覚ましてしまいました。やはり鴉に起こされた三日前に較べると、さらに寝不足です。
 頭の中はモヤモヤした感じです。今朝は頭の中の蜘蛛の巣がもう少し濃い。宿酔(ふつかよい)と似ています。が、前夜はアルコールを入れていないので、宿酔をするはずがないのに……。
 なかば意識朦朧状態でパソコンの電源を入れ、ぼんやりと眺めているうちに七時になって、ちょっと腹が空いてきました。
 三日前に散歩に出たときは時間が早過ぎたので、まだ開いていなかった焼き立てパンの店が店を開ける時間です。

 偏頭痛や胸焼けのような症状に見舞われ、ほぼ一日中不快な気分で過ごしたことの多かった日々は、まかり間違っても空腹感に襲われるようなことはなかったし、何かを食べたいと思ってパン屋を連想するようなこともありませんでした。
 そういうことを考えると、腹が減ったと感じられるのは喜ばしい兆候だといえるのかもしれませんが、散歩に出ようという気になるのは、足腰の衰えを防ぐためという義務感が強いし、歩いていても頭がどんよりと曇ったような感じが払拭されません。
 まあ、ともかくは出てみましょうということで、カメラとミオをポケットに忍ばせて靴を履きました。



 町会事務所裏の桔梗です。桔梗だけが際立つように撮るアングルがありません。三日前にカメラに収めた花(右下)はすでに萎れていました。



 鐘の下公園には野良の猫殿がいました。仮称・劇団一人です。
 身体を横たえていたのは、なんと公衆トイレの前。人間に較べたら何倍もの嗅覚を持っているはずなのに、猫にとってトイレの臭いは嫌な臭いではないのでしょうか。

 猫は平気でも、私はそんなところでしゃがみ込むのは嫌なので、ポケットからミオを取り出して見せ、袋を振りながら別の場所に誘ったら、遠巻きにしながらついてきました。
 すぐそばまで寄ってくることはありませんが、初日に見せた警戒心は少しだけ薄らいだようです。
 ♂か♀の別がわかれば、名前も付けやすいかと思うのですが、黒猫ともども、どうもいい名前が浮かびません。



 おなかのあたりを見ると、かなり痩せています。
 画像右に三匹目の猫が姿を見せました。黒と焦げ茶の斑(まだら)です。身体が一回りも二回りも小さく、尻尾がありませんでした。

 先輩(?)に遠慮しているいるようだったので、少し離れたところにもミオを置きましたが、近過ぎたようです。近づこうとすると先輩が振り返り、すると足を止めて近づこうとしません。
 いま、私が持っているミオはこれにて終わり。また買い出しに行ってこなくてはなりません。
 今朝は黒猫は姿を現わしませんでした。



 焼き立てパンの店に行ってみたら、開店したばかりだというのに、テラスはこのように満杯の盛況でした。まったくもって暇人が多いとみえる!! とカリカリ。
 仕方がないので、ローソンのサンドイッチで我慢、と思ったのに、この時間になっても配送車がきていないとのことで、棚は空っぽ。
 ……ったく話にならん。
 焼きたてパンの店とは道一本挟んでいるだけなので、最初から勝ち目はないと諦めているのか。

 この先(画像の右手)にはスーパーが一軒あるだけです。七時過ぎという早い時間に開店しているはずはありません。



 そのスーパーの前を通り過ぎて進むと、突き当たりになるT字路です。右に行けば、大勝院や大谷口城址、廣徳寺があります。左に取れば、やがて坂川を渡って流山です。
 いまはなんの変哲もない道路ですが、この道は小金道と呼ばれた古い道です。

 小林一茶は若いころ、馬橋にあった油平という油屋で奉公をしていたことがあります。油平の主人・大川立砂(本名・平右衛門)は商人であると同時に葛飾派の俳人でもありました。一茶が俳句の道に入ったのは立砂の影響大です。
 一茶は俳人として名を成してからも、立砂とその子どもでやはり俳人の斗囿(とゆう)、パトロンでもあり俳人でもあった醸造家・秋元双樹の住む流山を頻繁に訪ねていることが一茶の著「文化句帖」「七番日記」に記されています。馬橋から流山までは恐らくこの道を通ったのだろうと思われます。

 当時はどんな風景が拡がっていたのでしょうか。一茶が往復したのであろう道を私も少しだけ歩いてみます。



 T字路を左に折れると、150メートル足らずのところに真言宗豊山派の正福寺があります。
 恐らく我が庵から一番近いお寺です。連絡は大勝院に、という掲示板があって無住でした。
 江戸川八十八か所巡りの三十八番、同二十一か所巡りの二番札所です。両方とも第一番は流山の東福寺。

 霊場巡りというと、八十八か所がポピュラーですが、先に制定されたのは二十一か所のほうで、文政元年(1818年)のこと。
 流山にある赤城神社の別当であり、東福寺の末寺だった光明院の住職(名は昇慶)が発願したものです。
 弘法大師の亡くなったのが承和二年(835年)三月二十一日だった関係から、真言宗では二十一という数字は特別な意味を持っているのです。



 境内にある石仏群は結構古いようです。これは江戸川二十一か所の一を示す標石です。

 


 庚申塔を除くと、あとは風化していて、彫られた文字を読み取ることができません。



 無住のお寺ゆえに梅の実も収穫されぬままに放置されていました。

 思惑どおりに朝食が摂れなかったので、ぼんやりしていた頭はますますぼんやりしてきました。身体から遊離して、頭だけが雲の中にあるようです。これが体調のせいなのか、折からの蒸し暑さのせいなのか、私にはわかりません。

 このあと新松戸駅まで歩き、今朝の朝食は七時から開いている駅前のスーパーで買った餡パンということで落着しました。



 今朝はこんな団体列車が上野方向からきて、武蔵野貨物線を通過して行きました。


朝の散歩

2010年07月01日 09時11分55秒 | のんびり散策

 朝四時過ぎ、鴉どもが呼び交わす声で目を覚ましてしまいました。
 まだかわたれどきだというのに、こっちでアーアーアー、あっちでアーアーアーといつまでも喧しい。寝ぼけまなこで「こんちくしょうメ」と思っているうち、はっきりと目覚めてしまいました。
 ほんの少しですが
眠り足りぬので、頭の中は薄い蜘蛛の巣が張っているような感じです。こういう感じはいまの体調になってからか、それともずっと前からか。記憶が定かではありません。

 今朝は可燃ごみを出さなければならなかったので、目覚めたあと、冷やしておいた緑茶とコーヒーを飲んで、おもむろに外出用の服を着ました。
 また一段と痩せたように思えます。チノパンツを履くと、おなかのあたりには拳二つ分が入りそうです。
 ごみを出すついでに近場を散歩しようと思って、カメラと野良の猫殿用にミオを持って……。朝、散歩する気になったのは何日、否、何か月ぶりのことか。これも記憶が定かではありません。

 


 我がマンションの前、町会事務所裏の空き地に咲く桔梗殿です。桔梗の花を見つけると、思わずニヤニヤしています。
 五日前にも見ていますが、そのときは蕾も小さかったので、開花は当分先だと思っていました。私にとっては意表をつく早さ……。それもそのはず、いつの間にか七月です。
 去年は七月十一日に取手にある高井城趾公園で満開の桔梗の花を見ています。

 野良の猫殿が棲息する近くの公園(鐘の下公園)を覗いてみましたが、今朝も不在でした。



 どういう名前の樹か知りません。初めて見たような気がします。通りがかりの民家の軒先です。
 まだ花が咲いているのに、茶色い鞘状の種子を実らせています。

 今朝はデュークなんとかというウォーキングの専門家が薦めていたアシックスのシェイプアップシューズを履いて出ました。
 爪先と踵部分がカットしてあるので、初めて履いたときはギッタンバッタンして、とんでもなく歩きにくい靴だと思ったものですが、爪先部分がベタッと拡がるので、懸念される右足小指の痛みもなく、履き慣れるとなかなか快適です。



 何が釣れるのか、坂川には釣り糸を垂れる人がいました。
 ここまで千七百歩。橋がなく、行き止まりの道でもあったので、ここでUターンしました。



 ♪朝一番早いのは パン屋の おじさん……。
 この店の名はサフラン。まだ六時半。閉まっているように見えますが、もう開いているのです。
 歌のとおりにパン屋さんは早起きです。二人だけでしたが、客もいました。ただし店員らしき姿はおじさんではなく、お嬢さんでした。

 私の棲む近辺には焼き立てのパンを謳うパン屋さんがたくさんあります。それとは関係がなさそうですが、クリーニング店もたくさんあります。



 こちらはルフラン。パン屋さんというより洋菓子主体だからか、早い時間に店を開ける様子はありません。新松戸駅前にも喫茶店を併設した店があります。



 店名はパン・デ・モルデ。ここは私がごくたまにパンを買い食いする店です。
 パンを買うとコーヒーの無料サービスがあるので、この椅子に腰かけ、パンを頬張りながらコーヒーを飲むのです。しかし、今朝はまだ開店前でした。
 開いていたら、ここで朝食、と思ってきたのですが、食べられないと思うと急に腹が減ってきました。
 体調を崩して以来、空腹を覚えるようなことはほとんど経験がありません。やっと投薬の効果が顕れてきたものか、振り返ってみると、ここ数日、偏頭痛や胸焼けのような症状に悩まされることも少なくなっています。

 引っ越しもして、もう一度生活を建て直そうと決心したからか、「身」のほうは相変わらずでも、「心」のほうが爽快になって、「身」にも影響を及ぼすのでしょうか。



 仕方がないので、こういうところでサンドイッチを買って帰ろうかと思ったら、配送車がくる前だとのことで、棚は空っぽでした。



 我が庵近くの老人ホーム前で見つけた石蕗(ツワブキ)です。鉢植えをベランダに置いてある伊賀生まれの石蕗はこの隣に移して面倒を見てもらおうかと、しばし立ち止まって思案に暮れました。

 帰宅してあり合わせのもので朝食を済ませました。
 今日は木曜日。本来なら東京・湯島まで通院する日です。しかし、朝目覚めてみないと行けるか行けないかわからないような体調つづきだったので、四週間に一度という日程に変更してもらっています。

 私の病状は急激に恢復することは望めず(医師の話)、気長に投薬治療をして行くしかないので、まあ、そういう間隔でもいいだろうということになったのでした。
 しかし、前回(六月十七日)行ったとき、偶然Yさんという埼玉県在住の女性患者と一緒になり、家の近くまで車で送ってもらったのでしたが、私としては中途半端な別れ方になってしまった、という心残りがあります。
 それ以外に特別に何か思うところがあるわけではないのですが、また会えるとすればうれしい。
 九時を過ぎたら病院に電話して、今日行ってもいいか、と訊いてみようかと思ったり……。
 取手まで桔梗の群落を見に行くかと思ったり……。あるいはもうちょっと遠出をして、「新日本名木100選」の一つ与野の大榧(オオカヤ)を見に行くかと思ったり……。

 体調が悪くないというのは非常にありがたいことなのですが、そういう日はそれなりに暇を持てあましてしまうのです。


相模台公園から胡禄神社へ

2010年06月30日 07時25分04秒 | のんびり散策

 昨日二十九日は雇用保険受給の認定日でした。
 体調がどうであろうと、何がなんでも行かねばならぬので、前日はできるだけ静かに過ごしておりましたら、幸いなことに可もなし不可もなしという体調で朝を迎えることができました。

 朝のうちは雨だったのに、いつの間にか陽射しが出たのでゆっくりと構えていたら、すぐに曇り空。雨に降られないうちに、と思って出かけました。
 先週、社会保険事務所に頼んでおいた年金記録が届いたので、ハローワークの前に松戸市役所に寄りました。

 市役所は根本城という城趾に建っています。松戸駅からはちょっとした坂を上らなければなりません。それほど急でもなく、それほどの長さでもないので、息の切れ具合がどんなものか、私の体調を測るバロメーターになります。まあまあ心臓に負担がかかるこ
ともなく上り切ることができました。

 


 市役所からハローワークへ行くために、常磐線を跨線橋で越えて行くと、ちょうど市役所の反対側に伽藍と墓地が見えたので、寄り道をしてみました。吉祥寺というお寺でした。
 ここも真言宗豊山派のお寺です。
 ここも……というのは、私がときどき行く北小金の大勝院、先日行ったばかりの松戸七福神のうち恵比寿神を祀る金蔵院(こんぞういん)、同じく寿老人を祀る日暮(ひぐらし)の徳蔵院……みなみな奈良の長谷寺を総本山とする豊山派のお寺なのです。
 松戸ではなく流山ですが、無患子(ムクロジ)の樹がある観音寺も豊山派のお寺です。

 千葉県学事課の宗教法人名簿を調べてみると、松戸市内には豊山派のお寺が二十三か寺もあって、松戸の仏教系法人では一番多い。千葉県が本場といってもいい日蓮宗のお寺より多いのです。
 市川市だけは中山法華経寺のお膝元のせいか、日蓮宗の寺院が圧倒していますが、近隣の船橋(二十五か寺)、柏(二十七か寺)とも豊山派寺院が多い。よほど熱心に教化に歩いたお坊さんがおられたのでしょう。

 吉祥寺についてはお寺の来歴を説明するものが何もなかったので、家に帰ったあと、インターネットで調べましたが、「松戸&吉祥寺」で検索すると、伊勢丹がヒットするばかりで、はかばかしくありません。
 結局、いまのところは何もわからずじまいです。

 ハローワークは何事もなく、短時間で無事終了。今日は求職活動ではなかったのですが、それでも一時間近く待たされました。これでまた一か月なんとか食い繋ぐことができます。



 空は厚い雲に覆われていましたが、まだ雨になる気配は感じられませんでした。再度跨線橋で常磐線を越えて反対側にある相模台公園へ。

 前回訪ねたとき(六月四日)、ここにも野良の猫殿がおりました。
 今日はミオを持ってきていたので、いてくれれば友誼を深めんものと上ってみましたが、午前中の雨で土が濡れていたせいか、姿を現わしませんでした。



 相模台城があった時代の登城口そのままと思えるような、急で曲がった坂道です。

 


 坂を上り切ると、左手に松戸中央公園がありました。
 ここは戦中まで陸軍の工兵学校があったところです。当時そのままの煉瓦造りの正門の門柱が遺されています。大正九年に造られたものです。
 画像下は歩哨哨舎跡。コンクリート造りですが、最初は木造だったようです。ここに剣付き鉄砲を持った歩哨が立っていたのです。

 もともとは中山競馬場の前身・松戸競馬場があったところです。官が接収して工兵学校を設置したのですが、その名残はいまも遺っていて、千葉地裁、千葉地検、最高裁松戸宿舎、松戸拘置支所などがあります。



 公園の花壇は色とりどりの花盛りでした。

 園内を突き抜けて松戸駅方面に歩くと、イトーヨーカドーの五階に直結しています。
 五階には生活用品売場がありました。ここでフライパンカバーをしげしげと眺めました。いま、私が使っているのは30センチ用のカバーです。ところが最近は20センチのフライパンを使うことが多いので、ひと回りも大きいカバーはどうにも大き過ぎて使い勝手が悪い。火にかけている間にズルッとずれたり、下手をすると床に落っことしたりします。
 引っ越しを控えている身で、否、それ以前に、これ以上モノは増やさないと心している身で、買うか買うまいかと逡巡した挙げ句、後ろ髪を引かれるような思いで踵を返しました。

 まだ雨にはなりそうもありませんでした。
 もう少し足を伸ばすことにして、また松戸中央公園を横切って国道6号線を突っ切り、岩瀬胡禄(ころく)神社を訪ねました。公園からは徒歩十分。



 この石段を上ると、台地を半周しながら上って行く形で参道があり、結構広い境内でしたが、ここも由緒書きのたぐいが見当たらず、社務所はあったものの、無人だったので何もわかりません。

 祭神は面足尊(おもだるのみこと)と惶根尊(あやかしこねのみこと)。
 本社は東京・南千住にある胡禄神社らしいので、調べてみると、名前の由来は胡粉という顔料のようです。
 現在の南千住ではとても貝などが採れるとは思えませんが、かつては直前が江戸湾であり、そこで採れた蛤や牡蠣の殻を石臼で挽いて人形の上塗り塗料として使っていたようです。
 それ以外には、「よくわからん」というブログが見つかっただけで、よくわからない。

 


 対になった左側、吽形の狛犬です。
 前から見たとき(画像上)は特段変わっているとも思えませんでしたが、横に廻ってみると、丸めた背中が愛嬌があって可愛いかったので、カメラに収めました。

 インターネットをさまよっていたら、狛犬には江戸型、出雲型、佐賀型、浪花型などといろいろな型があるのを知りました。それぞれの型にどのような特徴があるのか、知ったばかりなので、まだ把握し切れていませんが、この神社の狛犬は江戸型なのだそうです。玉取り、子取りという用語があるのも知りました。
 この狛犬は右前脚で玉を抑えています。これが玉取り。

 近場ばかりではありますが、二日か三日に一度は出歩く気になって、それも一万歩以上歩いている自分を振り返って、愕いています。
 ブログをつづけられぬかもしれぬと思った数週間前は非常に体調が悪く、本当に命も終わるかもしれないと思ったのです。
 ただ、瀕死の病人がある瞬間だけ、突然治癒したようにピンシャンする小康状態を迎えることがあるのを知っているので、だからといって安堵はできませんが……。


葛飾八幡宮の千本公孫樹

2010年06月25日 06時32分16秒 | のんびり散策

 二十二日火曜日。急な所用ができて本八幡まで行きました。ハローワーク行はまた日延べです。
 所用を済ませたあと、まだ午後三時だったので、やる気さえ残っていれば、隣駅の市川からバスで松戸駅まで出て、ハローワークへ行くこともできたのですが、このところは遠近を問わず出かけて、一つ用件を済ませると、ぐったりと疲れ、心の張りも失ってしまうのです。

 それに、出かける寸前の体調がやや悪でした。約束をしてしまっているので、よほどひどくない限り行かざるを得ませんでしたが、また軽いながらも偏頭痛があって、家を出て歩き出すと、胸焼けのような心臓の圧迫感に襲われました。おまけにこの日も好天で、カンカン照り。一歩家を出た途端に暑気に中てられたような感じです。
 通勤していたころ、最寄りの新松戸駅までは九分で歩きました。この日は余裕を持たせたつもりで十五分前に出たのに、駅に着いたときにはちょうど電車が入ってくる時間になっていました。
 自分では以前とは何も変わっていないつもりでおりますが、知らぬ間に足の運びがのろくなっているのです。
 ずっと家に引きこもって、パソコンと読書しかしていなかったせいか、眼にいっそうの衰えがきているのにも気づきました。

 日中の武蔵野線は十二分に一本しかありません。乗ろうと思っていた電車を逃したら遅刻ですから、走って大丈夫だろうかと危ぶみつつ、小走りに改札口を走り抜けて階段を駆け上がり、エスカレーターも駆け上ってなんとか間に合いました。
 空席があって坐れたからよかったものの、心臓はドクドクと高鳴り、呼吸も大乱れです。西船橋に着く直前でやっと呼吸が整いました。

 胃潰瘍で入院する直前は、とてもこんな離れ業を演じることはできませんでした。退院後は心臓が高鳴ることには変わりはなくとも、電車が次の新八柱に着くころには平静に戻りました。
 それと比較してみると、やはり一度よくなった身体の具合がまた悪くなっているみたいだナァ、と実感することしきりです。

 本八幡は久しぶりです。多分二年半ぶり。
 前の勤め先で社宅もどきのアパートに住んでいたとき、日用品以外は本八幡まで出ないと揃えられませんでした。ことに書籍、文具のたぐいは前の住居周辺には店そのものがなかったので、ひと月に一度は本八幡に出てきたものです。

 所用は二時間で済みました。
 初めて訪ねるところだったので、訪問先のホームページにあった地図をプリントして持って出ていました。そこに目印の一つとして八幡社と書かれていたので、小さな社かもしれないが、見るだけ見てみようかと思って足を向けました。

 うっかりしていましたが、そこは小社などではなく、下総の総鎮守・葛飾八幡宮でした。
 前の勤め先で横浜港へ貨物を取りに行くとき、市川インターから湾岸道路に入るために、この八幡宮の前に出て、京成電車の踏切を渡っていたのでした。
 東菅野のほうから入ってきて、ワゴン車では車体をこすらんばかりのクネクネ路地をすり抜け、90度曲がって踏切を渡るので、遮断機が上がるのを待っている間も奥のほうまで見たことがありません。

 初めて正面に立って奥まで見通しました。

 参道の中間に随神門があります。
 その下でハウスレスの女性が坐り込んで煙草をふかしていました。
 ハウスレスとホームレス……。
 ハウスレスだがホームレスではない人と、ハウスはあるがホームレスの私と、心寂しいのはやはり私のほうか、などと思いながら、そのかたわらを通り過ぎました。

 拝殿の写真を撮り、参拝していったん引き揚げかけましたが、拝殿脇に国の天然記念物にも指定されている千本公孫樹(正式な登録名は千本イチョウ)があるのを知って、再び戻りました。

 

 遠くから眺めたときは樹高が高く、枝ぶりも旺盛な樹だなと感じたぐらいですが、根元が見えるところまで近づいて、愕きました。これまでの私の見聞などたいしたことはありませんけれども、恐らく一番愕いたのではないかと思います。
 幹周りは10・8メートル、樹高は22メートル、樹齢は? というと、なんと千二百年以上と推定されています。
 主幹は落雷によって、6メートルの高さで折れてしまっています。代わりにその主幹を取り囲んで無数の幹が立ち上がっているのです。

 感動、といえば感動かもしれない。二の句が継げぬ、というのが正直な思いでした。
 この八幡宮が建立されたのは九世紀末の寛平年間(889年-98年)といわれています。樹齢千二百年以上ということは、その前からここにあったということになります。

「江戸名所図会」にも、

 神前右の脇に銀杏(イチョウ)の大樹あり神木とす。此樹のうつろの中に小蛇栖(す)めり、毎年八月十五日祭礼のとき、音楽を奏す。そのとき、数万の小蛇枝上に顕れ出ず。衆人見てこれを奇なりとす

 と記されています。

 本八幡まできたので、また弘法寺へ行こうかと思いました。
 私の気に懸かっているのはお寺ではなく、裏の駐車場で出会った野良の猫・虎千代殿です。
 虎千代とは私が勝手につけた名前です。私が通りかかったときに奥のほうにいたのを見つけ、足を止めると、近寄ってきてちょこんと坐ってくれました。
 ドライキャットフードのミオを持っていればよかったのに、その日に限って持っていなかったのです。そのことがいまだに心残りです。



 そのときに撮った画像です。出会ったのは去年の八月三十日でしたから、すでに十か月も経っています。
 私にはたったの十か月ですが、猫殿にとっては六倍か七倍、五年から六年に相当する年月が経っていることになります。
 むろん私のことなど憶えているはずがない。
 私のほうも一度見ただけで、それも仔猫の時代ですから、毛並みは変わらないとしても、風貌が変わっていて、わからないかもしれない。
 第一、まだそこにいるかどうか、保証の限りではない。
 それに、最寄りの市川駅まではわずか一駅ですが、そこから弘法寺まで二十分近く歩かなくてはなりません。いまの我が身にはちょっとこたえそうな強い西日でした。
 また近くまでくる機会はないかもしれないが、今日の日は諦めることに決めました。

 寺西化学工業という描画材メーカーが「巨樹と花のページ」というホームページを開設しています。

http://www.guitar-mg.co.jp/title_buck/mokuji/kyoju_and_flower.htm


 中に「新日本の名木100選」があって、葛飾八幡宮の千本公孫樹も選定されています。千葉県内では清澄の大杉(鴨川市)、賀恵淵の椎(君津市)と並んで三本。
 大きいもの好きの私としてはいずれも見てみたいと思いますが、上記二か所は同じ県内といっても、私にとっては遠いところです。むしろ他の都県ながら行けそうなのは、影向の松(東京都江戸川区)、牛島の藤(埼玉県春日部市)、与野の大榧(同さいたま市)ぐらい。
 見に行く機会に恵まれたらブログで取り上げようと思います。


翁草

2010年06月19日 22時57分34秒 | のんびり散策

 一昨日十七日、一万歩以上も歩くという、最近では珍しいオーバーワークをしているのに、昨日今日と体調はさほど悪くありません。そこでハローワークへ行ってきました。平日に較べると、業務は限られていますが、土曜でもやっているのです。
 しかし、結果はまたも空振り。ないだろうなと危ぶみながら行ったものの、実際に「求人ゼロ」という現実に接すると、背中も肩も一層丸くなるようです。

 長居をしていても詮方ないので、歩いて数分の松戸市立図書館を覗いてみました。「翁草」という江戸時代の書物に田沼意次のことが(好意的に)
書かれていると知ったので、借りに行ったのです。
 これは森鷗外も愛読していたという本で(「高瀬川」もここからヒントを得ています)、私も自分の書架に加えたいと思いながら、諸事情これあり、叶わないままになっていました。

 事前にWebで調べたときは、吉川弘文館版(全六巻)の所蔵
があり、貸出可能とありました。
 ところが、実際に図書館へ行って、書架のどのあたりを捜せばいいのか、と館内備え付けのコンピュータで検索してみたのですが、あるはずのものがないのです。
 不思議に思って訊ねたら、場所の離れた倉庫にしまってあって、すぐには借りられないということでした。おまけに二十一日から月末までの十日間は休館となるので、借りられるのは来月になってからだという。
 ヤレヤレ。松戸に住ませてもらっているのに悪口をいってはいけないと思いつつ、松戸の公共施設にはいつも隔靴掻痒の思いをさせられます。
 わざわざやってきたのに、とついムカムカときてしまったので、早々に退散しました。

 蒸し暑い。
 家に帰っても蒸し暑いだけなので、近辺を散策してから帰ることに決めました。



 図書館の近くには、去年も訪ねた平潟神社と平潟遊郭にまつわる来迎寺があります。この来迎寺には遊女を弔った墓があるらしいのですが、去年と変わらず柵があって、境内に入ることはできません。簡単に跨ぐことのできる柵なので、入ろうとすれば入れるのですが、柵が置いてある、ということは、入るな、ということなのでしょうから、入るのは遠慮するのです。

 旧平潟地区は鉄道が通るまで水運の街として栄えたところです。遊郭があったのもそのため。
 いまはマンションが建ち並んで、その当時を偲ばせるものは皆無ですが、坂川、新坂川、樋古根川、六間川という四本の川が「土」の字を形づくって流れているのを見ると、小舟の行き交う賑やかさが目に浮かぶようです。
 猪牙舟に乗って郭を廻る芸伎がいたかもしれません。

 足の向くまま気の向くまま歩き出しました。
 六間川に沿った道路は松戸三郷道路です。江戸川を越すために徐々に高架になって行きます。その下の道をしばらく歩くと、圓勝寺という案内板が目に入ったので寄ってみました。

 


 真言宗豊山派のお寺ですが、浄土宗のお寺を思わせるような大きな甍です。
 境内はいつも私が行くお寺がそうであるように、まったく無人。物音一つしませんでした。
 帰宅後、Webで調べてみましたが、ホームページもなく、関連したブログもなく、お寺の由来などはわかりません。



 鵜森稲荷神社。
 圓勝寺の少し先、江戸川に向かったところにありました。
 境内にあった由来書きによると、昔は江戸川のほぼ中央にあって、森に数千羽の鵜が住み着いていたことから、名前がつけられたようです。「ほぼ中央」というのは中州なのだろうかと思います。
 現在地に移転、ともありましたので、間違いないようですが、あった場所が中州とは書いてありませんでした。

 天気予報ではやがて雨になるようだったので、折り畳み傘を携帯していました。
 肩から提げたトートバッグには、ダカラを入れたマグボトルとバイブル手帳、地図、財布、カメラ、携帯電話を入れているだけですが、折り畳み傘一本を余分に持っただけで、バッグはずっしりと持ち重りがします。

 曇って、一層蒸し暑くなったと思った矢先、太陽が顔を覗かせてカンカン照りになりました。そこへ恒例の偏頭痛が来襲しました。
 これはいかん、と思って腰を下ろせるところを捜したけれども、適当な場所がない。途中でぶっ倒れてもいいと覚悟を決めて、江戸川まで小走りに歩き、松戸三郷道路の橋の下にもぐって身体を横たえました。

 微風ながらも少しは涼しい川風に吹かれたのがよかったのでしょうか。
 やがてダカラを口に含む元気が出て、ダカラで湿したハンドタオルを頭痛のする場所に当てていたら、いつの間にか来襲は陰をひそめました。



 また聞くとは思っていなかった行行子(ヨシキリ)の啼き声が聞こえたので、しばし河原に降りたあと、あとはぐずぐずしている場合じゃないと松戸駅目指して戻りました。幸い空は再び曇り、特別いぶかしいような体調でもありません。
 急ぎ足(自分でそう思っているだけで、じつはのろいのです)で帰る途中、小さな森が見えてきました。



 我が庵の近くにあったのと同じ女躰神社でした。祭神も同じ筑波女大神、つまり伊弉冉尊。
 腰を下ろせる場所でもあれば小休止させてもらおうと立ち寄ったのですが、緑には恵まれているものの、小さな社で、もちろん無人。腰を下ろせるようなところはありません。裏手から入って通り抜けただけです。

 


 すぐ隣には大乗院。ここも真言宗豊山派のお寺です。
 女躰神社、大乗院ともかすめるように通過したので、手早く写真を撮っただけです。家に帰ったら詳細を調べてみよう、と思ってWebをさまよってみましたが、いまのところは詳しく触れたブログやホームページがありません。
 また体調がよくなったら(そういう日は望めないかもしれませんが)、ゆっくり調べるつもりです。

 私が読みたいと思った「翁草」には次のようなことが載っているそうです。

 田沼意次が松平定信と一橋治済によって失脚させられたとき、当然のことながら、家臣の大部分(二百七十人だったといわれます)に暇を出さねばならぬことになりましたが、意次はそれぞれの役職に応じて、破格の手当金を渡しているのです。
 地位の高かった者には数百両、武士の中では最下級の小徒士並にも五十両。
 この時代、一般庶民なら十両あれば一年間の暮らし向きが立ったといわれています。五十両はいまの貨幣価値からいうと、最低でも一千万円。それぐらいは渡していたことになります。
 田沼意次は五万七千石という大名にまで出世しましたが、もともとは貧乏人の小倅です。貧乏人が成功すると、苦労した時代を忘れて尊大になることが多いようですが、意次はそうはならなかったのです。

 意次に代わって老中首座に就いた松平定信が行なった寛政の改革は、一口でいうなら奢侈を禁止することです。贅沢を摘発しようと、密偵にご婦人の下着まで調べさせたといわれます。
 ところが、その密偵が賄賂を掴まされて、案件をうやむやにしていまうこともないとはいえません。松平定信という人は密偵が賄賂を掴まされていないかどうか監視するために、さらに密偵を監視するための密偵を使った、という念の入れ方をした人です。
 念には念を入れるというのは何事においても常套手段かもしれませんが、ここまでくると、愉快な話ではなくなってしまいます。

 以前のブログで松平定信や田沼意次を取り上げたとき、とくにどちらかに思い入れがあったわけではありません。しかし、意次の面倒見のよさ、定信の疑り深い性格……と知識が一片一片と増えて行くのにつれて、私は徐々に意次贔屓になって行くようです。単純単純。                          

 

「幻十郎必殺剣」(テレビ東京・画像も同ホームページから拝借)という時代劇がありました。
 同僚を殺害し、本来なら死罪になるはずだった主人公(北大路欣也扮する元南町奉行所同心)が、かつての権力者の思惑で、名前を変えて生き残ることになり、代わりに現政権を担っている者の悪を暴く、という筋立てのドラマです。
 かつての権力者とは松平定信。
 失脚後、隠居したあと、という設定なので、松平樂翁です。
 どこまで史実に基づいているものかわかりませんが、幻十郎が首尾よくことを終えたあと、人けのない屋敷の暗がりからヌッと顔を出すのが中村敦夫演ずるところの樂翁です。
 人目を憚って現われるところがいかにも陰湿で、悪巧みを隠しているという風情があって、役どころとしては的を射ていますが、はっきりいって悪役です。役者は割り振られた役を演ずるのが仕事、とはいうものの、我が青春時代、「木枯らし紋次郎」で胸をワクワクさせてくれたのが中村敦夫だったのに、です。