なんとなく気鬱な状態です。
大腸のポリープを切除してもらい、胃カメラを飲んで、胃潰瘍もすっかり完治。食道にも十二指腸にも危惧するところはないと判明しました。
消化器系はよいとしても、循環器系は問題なしとはいきませんが、かといって、とりわけ深刻な問題があるわけでもありません。
ポリープ切除前の血圧測定では、収縮期が171と高かったので、ナースは愕いたみたいですが、担当医はわりと平然としていて、しばらく様子を見ようといっています。
私のほうでも、歩くと苦しいとか、どこかが痛いというような症状はないので、病気を持っている、という自覚がありません。
それなのに……、気鬱です。
といって、引きこもりになるのではないのです。人に会う、という約束をするのはいささか億劫になりますが、自分一人で気ままに出かけるぶんには何も抵抗はありません。
薬師如来の縁日(八日)がきたので、草加市にある東漸院へ行ってきました。
先月、旧日光街道の草加宿を歩いたのですが、庵に帰ったあと、草加市のホームページを覗いて、このお寺に薬師如来がお祀りされていることを知りました。
ただ、同じ草加市内といっても、お寺のある場所は旧日光街道と東武鉄道が走っている中心街から遠いので、日を改めて行くことにして、早速今月の薬師詣での地としたのでした。
草加市内ですが、我が庵から行くと、最寄り駅は吉川市にある武蔵野線の吉川駅です。
吉川駅の北口に出ました。
吉川駅前から埼玉県道・越谷流山線に出て、吉越橋で中川を渡ります。「吉越」と名前がつけられているように、ここが吉川市と越谷市の境界になっています。
歩道の幅は3メートルはありそうなので、大丈夫だろうと思いながら渡り始めました。
が、やっぱりイケません。
何がイケないといって、高所恐怖症が出たのです。
最近、歩道橋や跨線橋を歩いていなかったので、恐怖心を忘れていて、お気楽にも橋を渡るコースを選んでいたのでした。
実際の川幅は100メートルそこそこです。しかし、両岸に沿って走る道と交差するのを避け、下をくぐらせているので、橋はより高く、アーチ型に湾曲し、長さは500メートルはありそうです。
川の上に出るあたりまでは目隠しがあって下が見えないので、スイスイと歩けます。しかし、その先は目隠しがなくなっているのがわかります。下のほうに水面が見えているので、ヤバイ、この先はどうなることやら、と思いながら歩いています。
目隠しのないところにきました。
下は見ないように、極力アッチを向いて歩きます。それでも視界の端っこには遙か下を流れる水面が入ります。
水面が目に入った途端……実際は何度あったのかわかりませんが、30度は超えていたであろうと思われる気温が真冬の寒さに変わったように感じられました。
ゾッとしながら、無意識のうちに中央の車道寄りを歩いています。
ふざけて飛び跳ねながら歩いてくる二人の女子中学生とすれ違いました。キャッキャッと笑い合う声が近づいてきてすれ違い、やがて遠ざかって行くのを聞きながら、おまえらはバカだ、これからたっぷりと人生の怖さを知るがいい、などと八つ当たりしています。
橋から水面まで、いかほどの高さなのか、見ることができないのですから、想像もできません。ただひたすら歩き、向こう側の目隠しがあるところまで一刻も早く辿り着いて、ホッとしたいと願うのです。
苦節数分……やっと下を見ても平気な高さに辿り着きましたが、緊張のあまり、無意識のうちに筋肉を強張らせるのか、500メートルの橋を渡り終えただけで、まるで何キロも歩いたあとのように両腿が痛くなりました。
吉川駅から二十分ほど歩いたところに、金剛寺があったので、寄らせてもらいました。明治期、近隣にあった二つの寺を合併させて創建されたという真言宗豊山派の寺院です。
金剛寺をあとにして東漸院に向かいます。
道路のかたわらには東町(あずまちょう)くぬぎ通りという標識がありましたが……。
くぬぎ通りと銘打ちながら一体全体、どこに椚(クヌギ)の樹があるのですか! と首を傾げたくなるような風景です。画像奥に見えるガードはJR武蔵野線です。
金剛寺から十分ほど歩いたとき、地図には「卍」の印もないのに、墓石の林立しているのが見えたので寄ってみることにしました。
入口には「千疋南農村センター」というネームプレートがありました。
左手に集会所があり、墓所の裏手にはもう一つ入口があって、石材店の現地案内所らしき建物がありました。両方とも入口は閉じられていて、人の気配はありません。
この地区(千疋地区)に住む金剛寺の檀徒たちによる「堂宇再建標」と刻まれた石標。
すぐ近くに伊南理神社がありました。
説明板によると、元は稲荷社といったが、明治四十四年に隣村の久伊豆神社を合祀することになって、現在の神社名になったということです。
祭神は宇賀之魂命(うかのみたまのみこと=古事記では宇迦之御魂神、日本書紀では倉稲魂尊と表記される)と大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命と同じ)。
説明板には、先に見てきた墓地はやはりお寺の跡で、真言宗の東養寺というお寺だった、ということも記されていました。
千疋幹線排水を渡ります。
排水と名がつけられていますが、この先で中川に合流する河川です。ここを渡ると、越谷市から草加市に入ります。
草加市に入ると、東町くぬぎ通りは中川通りと名を変えます。さらに進むと八潮市になりますが、通りはまた名を変え、八条通りとなるそうです。
くぬぎ通りだというのに、椚の樹どころか街路樹そのものがなく、太陽にジリジリと灼かれながら歩いた越谷市から一転……途中、ほんの一部ですが、昔ながらの街道を思わせるような雰囲気がありました。並木が強い陽射しを遮ってくれるのが何よりもありがたい。
千疋幹線排水を過ぎて四分ほど歩いたところで右手を眺めると、なんとなくお寺があるような雰囲気を感じました。行ってみると、大きな山門が目に飛び込んできました。
目的の東漸院(真言宗豊山派)でした。
山門は天明二年(1782年)の建築。草加市の文化財に指定されています。
東漸院本堂。
創建の年代は不詳ですが、室町時代の西暦1500年前後ではないかと推定されています。寺は元禄年間と寛政年間の二度にわたって火災に遭っていて、本堂は寛政十年(1798年)の再建。
今回の目的地・薬師堂です。
本堂と同じように火事で焼失して再建されたのでしょうが、屋根におもむきの感じられる本堂に比べると、差があるのを感じてしまいました。線香持参だったのですが、本堂も薬師堂も香炉がなかったので、合掌したのみ。
現地には説明板もなく、インターネットで得られる情報もないので、どのような薬師如来がおわすのか、現在のところはとんとわかりません。
わかったのは、私がときどき足を運ぶ鷲野谷・醫王寺の薬師堂と同じく、開帳は十二年に一度、寅年の四月八日だけ、ということです。次の開帳は十年後の平成三十四年。いまの調子であれば、まだ私はまだ生きていそうですが……。
大師堂の日陰で憩う猫殿がいました。
前夜の天気予報では、この日の午後は雨でした。
東漸院に行くと決めたとき、東漸院からさらに南下して、吉越橋の一つ下流の八条橋を渡って再び吉川市に戻り、いくつかの寺社を巡りながら吉川駅に戻ろうと考えていました。自分が高所恐怖症を持っていることは考えてもみず、な~んと二度!! にわたって中川を渡ろうと企んでいたのです。
しかし、雨になるというのではぐずぐずしてはおられぬ。東漸院の参詣を終えたら、元きた道をさっさと帰るべし、と思い直したのでした。結果的には、しばしば外れる天気予報がまたもや外れて、雨にはなりませんでしたが……。
そのように考えていたのも、吉越橋を渡る前のこと。
現実はアーチ型になった吉越橋を上り詰めながら、もう一度この道を戻ってくるのは敵わないが、決死の覚悟を固めて戻るしかないのでしょうな、と自問自答しつつ……とにかくなんでもいいのです。視界の端には入れまいと思っても入ってくる川面が見え始めているのですから、何か別のことを考えて気を紛らわせ、一分でも一秒でも早く橋を渡り終えねばならなかったのです。
と……。
アーチのてっぺんに到ったとき、遙か遠くではありますが、前方にAEONというロゴが見えました。
今回の薬師詣での最寄り駅は吉川駅(のみ)! と思い込んでいたので、考えてもみなかったのですが、AEONのあるところには隣駅の越谷レイクタウン駅があるのです。
帰りは越谷レイクタウンから、と決めたので、再び県道越谷流山線に戻りました。
我が庵近くの田んぼではすでに稲刈りが始まっています。こちらも今日か明日か、という感じの稲穂の色づきです。
ところが、すぐ隣の田んぼは稲の種類が異なるのか、まだ青々としていました。
アウトレットモールのようなド・デカイ施設は目の前に見えていて、すぐ着きそうなのに、実際はなかなか近づいてきません。
かつて勤めていた会社で、輸入手続きをするため、幾度となく訪れた横浜港の流通センターやコンテナヤードを思い出させます。
その会社を辞めて二年半。
ヤ~な思い出しかないところでしたが、ヤ~だったことどもを思い出さなくなっていたのに、ド・デカイ施設繋がりで、久しぶりに思い出して、げんなりしてしまいました。ドッと疲労感も押し寄せてきて、ほうほうのていで越谷レイクタウン駅に辿り着きました。
→この日歩いたところ。