今月の薬師詣では茨城県龍ケ崎市です。いつものように出かける前に地元の慶林寺に参拝して行きます。
JR常磐線を佐貫駅で降り、関東鉄道竜ケ崎線に乗り換えます。来年四月、JRの駅名は佐貫から「龍ケ崎市」へと変わるらしい。
一両だけのディーゼルカーが待っていました。
乗車六分で終点の竜ヶ崎駅に着きました。
市の名前は「龍」ケ崎ですが、駅名は「竜」ヶ崎。街の中は「龍」と「竜」、「ケ」と「ヶ」が入り乱れています。
駅前には「第2回ご当地メシ決定戦!」で「日本一!」に輝いた「龍ヶ崎コロッケ」の幟がはためいていました。
折角なので、購入の意思を固めましたが、幟をはためかせている店は画像の右手(写っていなかった)にあって、まだ営業していませんでした。
歩き始めて十分。前回きたとき(2011年九月)もカメラに収めましたが、旧小野瀬家住宅前を通りました。江戸時代からつづく絞油製造業、肥料商の旧住宅兼店舗です。
店舗は大通りに面した木造二階建て(一部平屋)、間口五間、奥行三間、建築面積210平方メートル。大正時代初期の建築。奥に母屋があり、木造平屋建て、建築面積は65平方メートル。こちらは明治時代初期の建築。町屋建築として、質が高く、当時の豪商の様子を偲ぶことができる、といわれています。
2003年(平成十五年)、国の登録有形文化財の指定を受けています。
こんなものも見かけました。現役です。
市街地を通り抜け、三十二分間、ただひたすら歩きつづけて薬師寺に到着。人の気配はありませんでした。今日までのところ、資料を何一つ得られていないので、天台宗の寺で、本尊は二十三夜尊ということ以外、何もわかりません。二十三夜とは月待ち講の一つで、勢至菩薩を本尊とすることが多いのですが、この薬師寺の本尊が勢至菩薩であるかどうかは確信が持てません。
ここからいくつかの寺院を巡りながら、出発点の竜ヶ崎駅に戻って行きます。
薬師寺から十分。医王院に着きました。
慶長三年(1558年)の創建とされ、このあと訪れる大統寺第二世の月山梵朔大和尚が開山しました。 明治三十七年に大統寺第二十三世月山正光大和尚が住職となり、独立した寺になりました。
医王院の本尊は薬師如来で、龍ケ崎城主・土岐胤倫が創建した十二薬師の一つです。 木彫りの立像で、とても端麗な仏像だそうです。
前回も参拝していますが、見落としていました。医王院の寺紋は桔梗でした。
今日四月八日は花祭りでもあります。
お賽銭箱の上には誕生仏が祀られていましたので、お賽銭をあげて甘茶をかけさせてもらいました。
我が宗門のお寺なので、歴住の墓所に参拝しました。
医王院から八分で龍泉寺(通称・龍ヶ崎観音)です。ここも前回の訪問時に参拝しています。天台宗の寺で、一般には「龍ケ崎観音」の呼び名で親しまれています。
天正年間(1573年-92年)、江戸崎城主・土岐胤倫(後に龍ケ崎城主)の創建と伝えられ、寛永年間中(1624年-44年)上野寛永寺の天海僧正が再興しました。
胤倫が妻・お福の方の難産に際し、山城国から弘法大師の作とされる正観世音菩薩の尊像を迎えて寺を建て祈願したところ、無事出産できたという伝えがあり、いまも安産・子育て・出生・開運・除災の観音様として広く信仰を集めています。
ここにも花御堂がありました。
本堂の手前にはおびただしい数(二百体といわれています)の水子地蔵があり、風車が奉納されています。
龍泉寺から十分ほどで大統寺。
天正十三年(1585年)の創建で、龍ケ崎城主・土岐胤倫が叔父の天岩梵宿和尚を招いて開山しました。そのとき、根町台にあった大運寺を現在の場所に移し、さらに当時あった大聖院・天真院の二つの寺を合併して、寺名を大統寺としました。 このときに宗派も臨済宗から曹洞宗に改められています。
本堂前・左の樹は竹柏(ナギ)。
このお寺も我が宗門です。歴住の墓所に参拝しました。
大統寺から七分で般若院。このお寺も前回の訪問時に参拝しています。
創建は天元元年(978年)。道珍法師によって創建されたとされています。 当初は貝原塚町に創建されました。 その後、大永四年(1525年)に現在の場所に移されました。
本堂裏にある枝垂れ桜。樹齢は推定四百年、樹高約10メートル、目通り幹囲約5メートル、枝張り東西約15メートル、南北約22メートルという巨木です。 茨城県の天然記念物です。 本堂裏にあるとは知らず、前回訪問時は見ることなく帰ってしまいました。
般若院から竜ヶ崎駅に戻る途中で、鍵林(かぎりん)という煎餅屋さんに寄り、土産の煎餅を求めました。
最後に竜ヶ崎駅近くにある米薬師に寄りました。
元禄十七年(1704年)の創建。本尊は行基作の薬師如来で、元は加藤清正の守護仏だったそうです。