桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

高砂寺巡り

2016年08月15日 23時10分43秒 | 寺社散策

 毎日の買い物、慶林寺参拝と周辺の散策で外に出ない日はありません。しかしいつからか、毎月八日の薬師詣での日を除くと、遠出をしなくなりました。近場で行きたいと考えていたところは大体行き尽くしてしまったのと、是非ともまた行きたいと思うところがないこともあります。

 ところが、遠出することが尠なくなったキッカケが何かあったのだろうかと、よ~く考えてみると、遠出することはおろか、身の回りのことすら動くのが億劫になってきていることに気づかされます。
 数週間前、煮卵と卵サラダをつくろうと思って、卵八個を茹でました。お湯が冷えるのを待って、殻を剥くつもりでしたが、つくろうと思い立った時間が遅かったので、日暮れどきになっても、冷めません。
 冷蔵庫が空いていれば、入れたのですが、生憎いっぱいだったので、茹でるのに使った雪平鍋に入れたまま、ガスレンジの上に載せたままでした。

 翌日、あるな……と横目で見ながら、コーヒーやお茶を飲むためにお湯を沸かし 食事の用意や洗い物をしたりしています。

 翌々日、また、あるな……と横目で睨みながら、同じことをしています。

 同じころ、アスパラガスとオクラの肉巻きをつくろうと思って、アスパラガス、オクラ、豚肉のローススライス、同バラスライスを買っておきました。
 冷蔵庫の空きがないといっても、この時期、さすがに豚肉を外に置いたままにするはずはないので、押し込むようにして冷蔵庫に入れました。アスパラガスとオクラは台所のシンク周りに置いておきました。
 買ってきたスーパーの名は記しませんが、多分農薬のせい……なのではないでしょうか。買ってきて二日目の朝、アスパラガスの穂先が腐りかけていました。
 すべてふしだらな自分が悪いので、スーパーのせいにしてはいけないと思うのですが、いくら夏とはいえ、二日で腐り始めては困ります。
 ……こうして、何もかも腐らせてしまう。

 買い物に行ったときは、結構やる気満々なのです。
 このところ、酢がマイブームになっているので、色とりどりのパプリカを見ると、マリネにしてやろうかと思い、鯵や鰯が調理済で並んでいるのを目にすれば、茗荷と玉葱を一緒に買って、南蛮漬けにしようかと考えたりしています。結局は考えるだけで、実行に移されることはなく、実行に移されることがあったとしても、途中で放棄されて、先の卵サラダのようなハメに……。



 十五日は阿弥陀如来の縁日です。阿弥陀如来は我が干支の守り本尊におわすので、毎月十五日には我が庵から歩いて二十数分かかる東漸寺(浄土宗)に参拝します。阿弥陀如来が本尊のお寺です。



 東漸寺に行かなければならない日、日参を欠かさないと決めている慶林寺はどうするかというと、一旦庵に帰って出直すことにしています。
 東漸寺からの帰りに、ついでにお参りする、というのはどうも失礼な気がするので、一旦帰るのです。東漸寺からの帰り途、しばらく遠出をしていないことを思い出し、ふと高砂を歩いてみようかと思いました。
 一旦帰り、出かける用意を整えて、電車に乗る前に慶林寺に参拝しました。



 常磐線を金町で降り、南口を出て……。 



 京成金町駅へ。



 目的の高砂まで、途中に柴又駅が一駅あるだけの金町線です。
 車体に両津勘吉をあしらった電車が走っていたこともありましたが、いまは普通の電車に戻ったようです。



 京成高砂駅北口に出ました。
 高砂へは何度かきたことがありますが、すべての道を歩いているわけではありません。地図を持っているので、間違いなく辿り着けるはず……そう思いながら、道がくねっていたりして前方が見通せないと、なんとなくわくわくします。



 線路沿いに歩くこと三分、観蔵寺(真言宗豊山派)に着きました。文明元年(1469年)の創建です。
 天文七年(1538年)、永禄七年(1569年)と二度にわたる国府台の合戦で焼失したとされていますが、承応二年(1653年)に再興されました。



 観蔵寺本堂。
 山門から本堂に到る短い間にガラス張りの寺務所があり、中年のご婦人がいるのが見えました。
 近年、著名人の墓参りをする墓マイラーという種族が出現して、勝手放題をした上、立ち去るので、迷惑を被っている寺院や霊園があるそうです。これが昂じると、実際に迷惑を被った寺院はもちろん、そうでない寺院も自衛のため、「檀家以外立ち入りお断わり」の標札を出すようになるのではないかと恐れています。

 このあと訪ねる予定の六か寺はすべて明暦の大火や関東大震災で被災しています。



 観蔵寺から四分で崇福寺前の交差点に出ました。



 崇福寺に参拝する前、交差点を左に入ると、大秀寺(浄土宗)があるので、そちらを先に。
 寛永五年(1628年)三月、宝誉林残上人(1600年-63年)が本郷湯島に創立。明暦三年(1657年)、江戸の大火で類焼して、浅草山谷に移りました。関東大震災に遭って、大正十五年、現在地に移転しました。 



 崇福寺(曹洞宗)。端正な構えの本堂です。
 慶長五年(1600年)三月、香山泰厳大和尚が江戸浜町に祟福庵という庵を結んだのが始まりです。同十八年、前橋城主・酒井雅楽守忠世の帰依により堂舎を建立し、祟福寺と称するようになりました。明暦三年(1657年)正月、江戸の大火で焼失、浅草松清町(台東区)に一三〇〇坪の地を得て移転、以来酒井家の菩提寺として栄えたが、関東大震火災にかかり、現在地に移ったのは昭和三年六月です。



 崇福寺境内の春ちゃん地蔵。
 かたわらに建てられた木札には、「浅草崇福寺跡地で発見された三百年前の地蔵形の墓石。二〇〇九年八月、浅草郵便局裏の寺跡地はマンション工事の為更地になっていました。呼ばれるように進み、手を合わせたその場所から、偶然にも関東大震災のあった九月一日に、掘り起こされて出てきました。浅草から移転の時に忘れ去られたお地蔵様が、八十年ぶりに日の目を見て、自分の寺に戻ることが出来ました。昔の墓石台帳にも載って居らず、水子供養のお地蔵様として祀られていたようです」と、ありました。



 我が宗派のお寺なので、墓地に入り、歴住のお墓に参拝させてもらいました。
 数々の大和尚の名を刻んだ墓碑がありましたが、日光の反射が強かったからか、永年の風雪に晒されて摩耗していたからか、まったく読み取ることができなかったので、取り敢えずはカメラに収め、帰ったあと、画像処理を施して読み取ろうとしましたが、結局読めません。



 源照寺(浄土宗)。崇福寺からはものの一分もかかりませんでした。
 寛永三年(1626年)、浅草蔵前鳥越付近に創立されましたが、明暦三年(1657年)、江戸の大火で類焼し、山谷の新鳥越(台東区山谷二丁目)に移りました。元禄の「蓮門精舎旧詞」には、山号院号を「円光山薫香院」、本寺を寿松院(台東区鳥越)とし、「開山照蓮社寂誉上人薫香宗円和尚、生国山城国八幡園町、姓氏等不知。寛永3年起立、正保3年、移今地云々」と記されています。大正十二年、関東大震災で焼失、昭和三年、現在地に移転。



 源照寺から二分。聞明寺(浄土真宗大谷派)。
 天正十五年(1587年)、歓喜坊栄源という僧が下総国岡田郡横曽根村(現在の茨城県水海道市)に創立。慶長七年(1602年)、江戸桜田本郷の報恩寺内に移り、寛永七年(1630年)、火災で類焼して、東本願寺(旧通称東京本願寺)内に移り、安政二年(1855年)の大地震で倒壊。関東大震災被災後、昭和二年、現在地に移転しました。



 左横に廻ってみると、お盆休みで工事は中断されていましたが、どうやら曳家をするみたいです。



 理昌院(曹洞宗)は聞明寺の右隣です。
 慶安元年(1648年)の開創。もと浅草吉野町にありましたが、関東大震火災に遭って、昭和二年、現在地に移転。



 ここでも本堂左奥にあった歴住の墓所に参拝。



 乗願寺(浄土真宗大谷派)。
 寛永五年(1628年)、三河国から江戸神田筋違橋付近へ移り、明暦三年(1657年)正月、江戸の大火に類焼。寛文九年(1679年)、浅草松清町へ移転し、東本願寺(旧東京本願寺)の塔頭の一寺となりましたが、関東大震火災で焼失、昭和二年、現地に移りました。現在の本堂以下の建物は昭和四十五年に新しく建てられたもの、ということです。

 乗願寺から高砂駅までは十分足らずです。



 帰る前に煎餅の「はるすけ」に寄ります。高砂へくると ― といっても、一年か二年に一度くらいなのですが ― ここでお土産に煎餅を買って帰るのです。

この日、歩いたところ

 こうして高砂のお寺巡りは終えたのですが、さて、心してブログの更新に取りかかりますか、と思っていた十七日、左のこめかみにチリチリとした神経痛が出るようになりました。
 たまにチリチリッとくる程度なのですが、結構気に障って、結局その日はブログの更新はできませんでした。
 しばらく風邪をひいていなかったので、忘れていたみたいですが、多分これが風邪ひきの予兆だったのでしょう。
 十八日はチリチリ神経痛のつづき。
 十九日夜、やっとブログを更新。実際はこういうことなのですが、このブログの更新日時は高砂を歩いた当日の十五日ということにしておきました。