今月の薬師詣では春日部へ行ってきました。
出かける前に地元の慶林寺に参拝して行きます。
JR常磐線~同武蔵野線~東武伊勢崎線と乗り継いで、北小金駅から五十三分。降り立ったのは北春日部駅です。
今日参拝する楽應寺まではこの西口ロータリーから「春バス」という春日部市のコミュニティバスがありますが、運行は変則的で、火・木・土の週三日のみ。今日は金曜日なので、バスの運行はありません。よって、バスなら4分ほどで着いてしまうところを、二十分ほどかけて歩きます。
そのあと、少し先にあるお寺二か寺を訪ねて、この駅に戻ってくる予定なので、計一時間ほど歩くことになります。
駅前の風景は少し異様です。駅前からまっすぐに伸びる道路がありますが、その道をほんのちょっと歩くと、左右には広大な稲田がつづくようになります。
いまは稲刈りの済んでしまった季節なので、だだっ広い野原が拡がっているだけのようにも見えます。
350メートルほど歩くと、ようやく前方に住宅や商店、駐車場が目に入るようになって、マツモトキヨシとかコモディイイダという看板が見えるようになりました。道路にはこんな看板が建てられていて、通りの名はかえで通りというのだとわかりました。
北春日部駅から二十分ちょっと。中心街らしきところを抜けた先に内牧塚内古墳群がありました。六世紀から七世紀中ごろにかけての古墳群です。
後ろに見える林の中に遺跡があるようですが、今日の目的は別のところにあるので、掲示板をザッと読んだだけで立ち去ります。
古墳群前から四分。木陰に一軒の民家がある、と思ったら、これがお寺で、目的の楽應寺でした。
思わずお寺? と思ってしまうような雰囲気でしかないのは否めませんが、ちゃんと回向柱もあります。寅年のご開帳のときは本尊の薬師如来から伸ばされた善の綱がこの回向柱に結ばれるのでしょう。
窓際に提げられた二丁の提灯には明かりが灯されていましたが、堂内は薄暗くてよく見えません。人がいる気配はありませんでした。
差し掛け屋根の上に二頭の寅がいました。
イチョウ(公孫樹)の巨樹に気をとられていましたが、左にある半分ほどの高さの樹はムクロジ(無患子)でした。
葉っぱが何となく……と訝って、樹下にしゃがみこんでみると、紛れもない無患子の実が落っこちていました。思わぬところで会うことができました。
引き上げるときになって、小さな山門があったのに気づきました。
山門横に薬師如来に関する説明板が建てられてありましたが、お寺の由来等の説明は何もありません。
どういうお寺なのだろうと、帰ってから調べてみましたが、なんと埼玉県には宗教法人としての届け出がなされていないようです。そして、いまのところはどういうことなのか要領を得ないのですが、住職という人がおらず、一般の人が管理をしているようです。
今日の薬師詣ではこの楽應寺だけですが、近くに我が宗派(曹洞宗)のお寺があるので、足を延ばします。
楽應寺から七分ほどで香林寺に着きました。
「新編武蔵風土記稿」には「曹洞宗、常陸国行方郡上戸村(現・茨城県潮来市)長谷寺末、内牧山と号す。開山真叟永禄十三年(1570年)三月十三日寂す。本尊釈迦を安ぜり」と記されています。
曹洞宗のお寺なので、歴住の墓所を訪ねて参拝します。
香林寺をあとに十分足らずで鷲香取神社。
創建は仁和(885年-89年)のころで、祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)、天穂日命(あめのほひのみこと)。
香林寺から道なき道のような畦道を歩いていたら、前方に高いイチョウ(公孫樹)の樹が見えました。お寺かお宮でもあるのだろうかと思って訪ねたところ、鷲香取神社だったという次第です。
幹周は5・3メートル(実測はもっとあるらしい)、樹高20メートル、樹齢は二百年から二百九十九年といわれています。
新しい住宅地を抜けると、最初に通り過ぎてきた原っぱだか休耕田だかわからない、だだっ広いところに出ました。
行きに歩いたかえで通りは車も通れる広い通りでしたが、帰りに歩くのは畦道です。帰ってから、地図を元に大雑把に計測してみると、かえで通りからは350メートルも離れています。
その畦道を歩きながら、南方を望んだ風景。
同じく北を望んだ風景。赤城山らしい山陰が見えていましたが、コンパクトデジカメでは捉えることができませんでした。
北春日部駅近くまで戻ってくると、梅田寺がありました。
「新編武蔵風土記稿」には「葛飾郡小淵村(現・春日部市小渕)浄春院末、江南山と云、元和四年の建立にて、開山俊良承應二年(1653年)十月十日寂、本尊正観音、運慶の作と云」と記されています。
梅田寺も曹洞宗の寺院です。歴住の墓所を訪ねて参拝します。
このお寺に参拝して今日のお勤めは終わりです。くるときに降りた北春日部駅に戻って帰ります。