桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2022年八月の薬師詣で・香取市

2022年08月08日 22時00分34秒 | 薬師詣で

 あっという間にひと月が経って、また薬師詣での日が巡ってきました。フランスの哲学者ポール・ジャネ(1823年-99年)が提唱した法則によれば、私が二十歳のころに感じたひと月は、五十年以上を経たいまの私にとっては、八日間ほどにしか感じられない、ということになるのですから、あっという間だと感じるのは当たり前ということになるのですが、連れて-か、どうか-物忘れのスピードも早くなりました。
 従事しているボランティア活動で、ひと月に一度訪ねる家が六~八軒あるのですが、同じ松戸市内ではあっても、普段はまったく行かない地域、増して引っ越してからはますます無縁の地域となってしまったので、ますます迷うことが多くなりました。

 先月の三十一日に新型コロナワクチンの四回目接種を受けました。会場に出向いたのはまだ午前中だったのに、到着するころにはすでに猛暑でした。そのためかどうか、帰ってくるころには体調を崩していて、そのまま三日間寝たきりで過ごすことになりました。ワクチンの副反応だったのか、熱中症だったのか、五年前から一年に一度襲ってくるようになった持病の本格発症だったのか。とりあえずは本復して、無事薬師詣でに赴くことができる身体に戻りましたが、原因はわかりません。
 接種会場は松戸市の公共施設で、二月に三回目の接種を受けに行っていたし、散歩の途中で何度か前を通っていたのですが、なぜか勘違いを起こして、気づいたときには行き過ぎていました。
 遅刻しそうになったので、慌てて戻った焦りか、折からの暑さか、出発する前に計測した体温は三六度ちょうどだったのに、会場で測ったときは三七度にもなっていました。係員に「ギリギリセーフ!」といわれ、医師との面談でも「大丈夫でしょう」といわれたので、接種を受けましたが、もろもろ考えると、延期しておいたほうがよかったのかもしれません。

 本復して数日。どうやら薬師詣での遠出も可能なようなので、今回は佐原を訪問。目的地は二か所。一つは佐原駅から数分のところにある薬師堂、もう一つはバスで十分、歩くと二十五~六分という観福寺です。



 新松戸から我孫子行の常磐緩行線に乗り、我孫子で成田行に、成田で銚子行に乗り換えます。
 今日は往復とも新松戸~我孫子、我孫子~成田、成田~佐原と同じコースで行き来しましたが、月曜だったからか、クソとつけてもいいような暑さだったからか、あるいは新型コロナの猛威が衰えず、夏休みであったのにもかかわらず、子どもたちは外出を手控えたのか、復りの佐原~成田間を除いて、電車はすべてガラガラ状態でした。



 乗り換えの待ち時間が長かったので、二時間かかって佐原に到着。風情のある駅舎です。



 駅前のロータリーにある伊能忠敬の銅像。



 観光案内所へ立ち寄ります。



 歩き始めると、行く手に諏訪神社の大鳥居。



 観光案内所をあとにしてから七~八分、ここにも伊能忠敬の銅像がありました。



 諏訪神社への石段。地図では径があるのかどうかわからないながらも、次に向かうつもりの莊嚴寺は頭上高く見える社の後ろにあります。しかしへっぴり腰覚悟でも、高所恐怖症を持つ私には上ることはできません。背後にあるクネクネした上り坂に向かいます。

 

 荘厳寺に着く直前、ヤブミョウガ(藪茗荷)の大群落がありました。私が眺めることができたのは東漸寺か本土寺の裏で毎年数茎。引っ越してしまった今年は行くとすればわざわざ行くことになるので、見られるとは思ってもいませんでした。しかも、まったく予期しなかった大群落です。庵の近くにあったらなぁ、と垂涎の到り。

 

 佐原駅から二十分。真言宗(単立)莊嚴寺に到着しました。
 今日の行程はやっと始まったばかり、というのに、緩いけれども長い上り坂と戦ってきたので、すでに気息奄々という状態です。
 壯嚴寺の開基は寛永十八年となっていますが、境内に永禄年間の板碑があり室町時代に遡れるのでは、と郷土歴史家はいっているそうです。
 かつては真言宗豊山派に属しており、このあと薬師詣でで訪れる観福寺の末寺でありましたが、平成八年一月単立となりました。



 国重要文化財・木造十一面観音立像を祀る観音堂。



 境内に置かれた十三仏の石像のうち、左に拈華を持った釈迦如来、右に薬壷を持った薬師如来。思わぬところで薬師詣でができました。



 荘嚴寺から法界寺へ下る山径を黙々と歩いていたら、幽かな香りが漂っているのに気づきました。ふと立ち止まって見上げれば、クサギ(臭木)の花盛りでした。高さは5メートルはあるかも。こんな高木は初めて目にしました。ここでも近くにあったなぁ、となかば嘆息。これもお薬師さんの功徳?

 

 小山をグルリと半周する形で浄土宗法界寺に着きました。開創は天正十一年(1583年)。



 法界寺門前にはこの地区(上宿)の山車蔵がありました。
 佐原の大祭は夏と秋の二度挙行されます。夏の大祭は七月十五日から十七日とすでに終わっていて、秋は十月七日から九日まで。町中を流れる小野川を境にして、東側(佐原駅から遠いほう)が本宿と呼ばれる夏祭りの地区、西側が新宿と呼ばれる秋祭りの地区です。山車は夏十台、秋十四台の計二十四台。



 すでに使われていないようですが、火の見櫓を見ました。



 たまたま通りかかって目にすることができた与倉屋大土蔵。明治二十二年、醤油の醸造蔵として建造されました。現在は倉庫業。戦時中は兵器庫として使用されました。




 与倉屋大土蔵を過ぎたところで、道路工事の通行止めに遭遇。車両の通行止めに出くわすことは頻繁にあっても、歩行者まで、ということは滅多にないのですが、この日はその滅多にないことがありました。鉄の構築物を断裁するのに、ガスを使っていて危険、というので、通してもらえなかったのです。
 お陰で、与倉屋大土蔵とあとで渡るつもりだった小野川を眺めることができました。町中より少し上流だったため、清冽でせせらぎのような流れでした。

 

 法界寺から二十数分歩いて観福寺に到着。山門をくぐると、これから深山幽谷へ分け入って行くかのような参道の雰囲気でした。



 観福寺本堂。寺伝によれば創建は寛平二年(890年)、開基は尊海僧正といわれています。西新井大師、川崎大師と並ぶ関東厄除け三大師の一です。



 本堂から一段高いところに観音堂がありました。ここには平將門の守護仏とされる聖観世音菩薩が祀られています。



 観音堂前の池にはガマ(蒲)。これも久しぶりに見ることができて嬉しい。



 観音堂奥の墓所には伊能忠敬の墓があったので参拝。髪と爪が納められているそうです。

 このあと、薬師堂に参拝しましたが、帰ったあと画像を点検してみると、この墓のあとには、なんだかよくわからない風景が写っているだけで、肝心の薬師堂の画像がありません。暑さでボケていたのか、テキトーにシャッターを切って、モニタの確認もしなかったようです。

 薬師堂の写真がないとは知らず、観福寺参拝を終えて、ヤレヤレというテイで折り返しの行程に入ります。

 

 佐原の町中に戻りました。伊能忠敬旧宅(画像上)と小野川・町並み舟めぐりの舟。佐原には二十三年前にもきたことがあり、このあたりで「忠敬ごのみ」という煎茶を買ったことがありますが、四半世紀近くも経ってしまったいまではどこで買ったのか記憶はあやふやです。

 この先、歴史的建築物の並ぶ地域に差しかかります。当初はそれらも眺めながら歩く心づもりをしていましたが、とにかく暑い、シャツはすでに汗グッショリ……何にもまして疲れている、ということで、最後の薬師堂目指してひたすら歩くのみです。



 この日、最後に訪れた薬師堂です。薬師堂らしからぬ建物だったので、スマートフォンの地図と何度も睨めっこ。ここしか考えられぬと断を下して参拝。這々の体で佐原駅に辿り着きました。

この日、歩いたところ。